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少女と針

 店を出たあとは、やってやった感といえばいいのかな。心が昂っていて悪い気分ではなかったんだけど、道を歩いているうちにむしゃくしゃしてきた。

 だって、損をしたのは俺一人。蠅入りコーラのために支払った数百円は取り返せなかったし、注文の品だって全体の四分の一程度しか胃におさめていない。

 いらいらした気持ちが体の中に滞っていて、消滅するまでに何万年かかるか分かったものじゃない。

 とはいえ、Mの店内と同じ理由から、通行人に幼稚な八つ当たりはしたくない。

「とりあえず、腹を満たしておきますか」

 というわけで、最寄りのスーパーマーケットSで晩飯を調達することにした。ファストフード店Mであんなトラブルがあったあとだけに、店員と対面で、なおかつ口頭で希望を伝えないと買えない店には行きたくなかったんだよ。だから、セルフレジが導入されているSで弁当でも買って、家に帰ってから食べようかなって。

 買ったのは、幕の内弁当。スーパーの弁当なんてどれも安っぽくてたかが知れているけど、おかずが何種類も入っているから相対的に魅力的に感じられたんだ。実際には野菜の煮物とか昆布の佃煮とか、俺が嫌いなおかずもいくつか入っているんだけどね。

 明日の朝飯はすでに買ってあったし、他に買わなければいけないものは特になかったんだけど、菓子を買うことにした。ひどい目に遭った自分を慰める一品が欲しかったんだよ。特にこの商品を買いたいというのはなかったね。和菓子か洋菓子の二択なら後者で、チョコレート系の菓子が第一希望だけど、他によさそうなのがあればそれでもいい、くらいの気持ちだった。

 弁当が入ったかごを提げて菓子コーナーまで行くと、妙なやつがいるのを目撃した。挙動が不審だった、とかじゃない。むしろ憎らしいくらいに落ち着き払っていて、だからこそ逆にそいつは目立っていた。

 少女。

 十五歳くらいだろうか。髪の毛は少し褪せたような黒色で、伸びた前髪を眉のラインでばっさりカットし、後ろ髪は肩の高さで水平に切り揃えている。上はノースリーブのシャツに、下は戦場の大地みたいに穴が開きまくったジーンズ。小柄で、痩せていて、発育不良あるいは栄養失調の赴きがなくもない。

 むちゃくちゃ変とか異様とかではないけど、通りを歩いていて進行方向から歩いてきたら、思わず歩を緩めて、不躾を承知で五秒くらいまじまじと見つめてしまう、そんな風体ではあった。

 少女はチョコレート菓子が陳列されている棚に相対していたんだけど、妙に真剣に商品を見つめているんだ。遠くて商品名までは分からないけど、ちょうど真正面の顔の高さにある商品を、じっと。ショーウィンドウに飾られたクラリネットを見る子どものように目を輝かせるんじゃなくて、冷めた無表情で。

 俺は思ったね。あっ、こいつやるな、って。

 なにをやるのかって? もちろん万引きだよ。俺自身はやったことはないし、連れに常習犯がいたわけでも、犯行を目撃した経験があるわけでもないけど、なんとなく分かったんだよな。あ、こいつは万引きするつもりだなって。

 おもむろに少女が始動した。

 左手で商品の袋を押さえて、遅れて右手をゆっくりと袋に近づける。なにか光った。反射的に食い入るようにそれを見つめて、正体が分かった。

 針。

 少女は針を手にしているんだ。買う予定の袋に入ったものじゃなくて、剥き出しの一本の針を。

 その針が、俺の視線の先で、袋に突き刺さった。

「ああ、いくぅ――」

 機械音声じみた無感情な声。少女の口から出た声だ。

「いく、いく、いく――」

 声に合わせて、針が徐々に埋もれていく。見えている銀色がじわじわと短くなっていく。

「いくっ、いくっ、いくぅ――」

 早くも持てる部分がなくなってきた。少女はいったん針から手を離し、掌を使ってぐっと押し込み、

「いっくぅ……!」

 フィニッシュ。

 ゆっくりと両手が離れる。問題のチョコレート菓子の袋は、一見他のそれと変わらない姿で、陳列棚の最前列におさまっている。

 棚から一つ商品を抜き取って、歩行者信号は青なのに車が来ていないかを惰性で確かめるみたいに、右を向いて、左を向いて、また右を向いてからポケットに忍ばせるんでしょ、どうせ。

 そう高をくくって、高みの見物と決め込んでいた俺は、予想外の展開に狼狽えた。そのせいで、商品棚の陰に隠れられず、こちらを向いた少女とばっちり目が合った。

 犯行の目撃者の存在を認知しても、少女の無表情には漣すら立たない。考えが読めない顔で俺をじっと見つめる。

 俺は少女から目を離すことができず、見つめ合う形になる。近くを通りかかる客はいなかったから、不審な目で見られるとかはなかったけど、鳥瞰すれば異様な雰囲気だっただろうね。

 金縛りに見舞われた俺を尻目に、少女は針を刺した商品を棚から無造作に掴み取り、こちらへと歩み寄ってきた。

 プレッシャーを感じた。それでいて逃げようとしなかったのは、彼女から殺意や敵意が感じられなかったからだ。たしかに緊張はしたけど、なんでなんだろうね、危害を加えられる危険性はまったく感じないんだよ。

 すれ違うさい、少女は手にしていた商品を俺が提げているかごに放り込み、何事もなかったみたいに去っていった。最後まで見届けなかったけど、向かった方向から察するに、なにも買わないまま店を出たんだと思う。

 投げ込まれたのは、たぶん母さんも商品名を知っている、チョコレートとウエハースが一体となった有名な菓子。

 手にとって袋をよく見てみると、たしかに小さな穴があいている。キスするみたいに顔を近づけて小鼻をうごめかせると、ちゃんと甘いにおいも感じた。

 迷ったけど、弁当といっしょにチョコレート菓子も買うことにした。

 レジを並んでいるときは、小学生のときに校則違反を承知で学校に携帯ゲーム機を持ち込んだ日みたいに心臓が高鳴ったけど、店員はなにも言ってこなかったね。それどころか、疑わしそうな目でじろじろ見てくることも。バスルームに仮置きしてある死体を解体するために、ホームセンターまでノコギリを買いにくる殺人鬼はごまんといるんだろうな、なんて思ったよ。

 帰宅して、弁当を片づけたあとでチョコを食べたんだけど、衝撃の事実が明るみになったんだ。なんと、針が入っていなかったんだよ。

 そのチョコレート菓子はかたいから、一度埋め込んだ針がひとりでに抜けるとは考えにくい。少女が商品を手にとったときに細工した、わけでもないと思う。犯行後のあの子の一挙手一投足を注視していたけど、怪しいそぶりはまったく見られなかったからね。

 だからといって、針をチョコレート菓子に突き刺したのがそもそも見間違いだった、なんてことはない。絶対にあり得ない。少し距離はあったけど、少女が右手に持っていたのはどう見ても針だったし、それが音も立てずに菓子に埋まっていく一部始終だって見たんだから。

 針はチョコレート菓子の中で自然消滅してしまったとでもいうのか?

 ファストフード店Mで蠅の死骸が消失した件といい、俺の周りでいったいなにが起きているというんだ?

 怖い、というよりも、気持ち悪かった。

 気持ち悪い感覚っていうのは、それがどんな種類であれ、どんなにささいなものであれ、即刻解消したいと願うのが人間心理だ。でも、俺が巻き込まれた件に関しては、自力で解決するのは難しそうだと俺は感じている。

 だから年の功ということで、母さんの意見を訊きたい。俺が続けざまに体験した一連の現象、母さんならどう解釈する? できるだけ詳しく教えてくれたら、知恵がない人間としては助かるよ。

 返事、楽しみにしているね。


 母さん。

 いつものことながら迅速な返事、ありがとう。俺の砂を噛むような日常に潤いをもたらしてくれて、ありがたいなって心から思うよ。母さんに感謝、神に感謝、太古の昔から連綿と続く手紙文化に感謝だね。

 でも、正直、「幻覚だったんじゃない?」っていう母さんの回答には失望したよ。

 聡明な母さんには説明の必要はないと思うけど、幻覚説が正解の可能性がないっていう意味じゃないよ。報告した事実は嘘だと丸ごと否定する姿勢、それに誠意がなくて、母さんらしくなくて馬鹿げているということだよ。

 さらに言うなら、百歩譲って幻覚説を支持するのだとしても、もう少しもっともらしい理屈をこねてほしかったな。あなたが見たのは幻覚です、はい論破、じゃなくて。

 俺がこう思うのは、結局幻覚説が気に食わないだけ、母さんの態度がどうこうじゃないのかもっていう気もするけど、とにかく今回の返事はちょっと残念だったかな。母さんに裏切られること、失望することってなかなかないから、余計に残念だよ。非対面で、しかも文字形式だと、つい余計なことを書いちゃうものだけど、その愚を犯さないのが母さんだったはずなのに。

 でもまあ、この件についてこれ以上ぐちぐちと文句をつけるつもりはない。手紙を書いていたときは機嫌が悪かったということにしておいて、本題に入るよ。二日連続でなかなかドラマティックな体験をしたから、ぜひとも書きたいし、ぜひとも読んでほしいんだ。

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