蒼の事情
朝目覚めて、寝ぼけ眼をベッドの上へと転じると、誰もいない。
一気に目が冴えた。狼狽したけど、赤星蒼はベッドのすぐ横に佇んで壁をじっと見つめていた。昨日寝る態勢に入ったときは素っ裸だったはずだけど、今はちゃんとパジャマを着ている。その横顔はいつもどおり無表情だけど、真剣だ。
なにを熱心に、と思って視線を辿ると、彼女のちょうど顔の高さくらいに拳大の穴が開いている。
「それ、昨日、いやおとといだったかな。俺が殴って拵えたやつ」
肩越しに振り向く。俺の姿を認めても無表情に変化はない。薄い唇がゆっくりと動き、
「服、着れば。醜いものを隠して」
「おいおい、穴よりも裸に関心があるのかよ。なんで殴ったのとか、訊かないの」
「晴太が話したいなら、ご自由にどうぞ」
「いや、話したくないから言わない。一つだけ言えるのは、そのときの怒りはすでに解消されているからご安心を、ということかな」
一方で、根本の問題は解決していない。
金の問題だ。
母さんから借りた金があるから、あと数日は持つ。蒼を養わなければならないことを考慮しても、だ。
ただ、そのあとの目途が立っていない。再び借りる? 気絶させるなんていう狼藉を働いたのに?
今になって気がついたのは、赤星蒼の問題と重なったことで隅のほうに追いやられていたけど、俺の人生にとってそれは最重要課題、なにものにも優先して向き合うべき問題だということだ。
蒼は唇をぴたりと閉じて俺の顔をじっと見つめている。
「じゃあ、とりあえず朝飯食う?」
俺は話頭を転じた。無理に明るく振る舞うのではなく、それについては近いうちに話すけど、今は腹ごしらえをするほうが重要だからそうしようぜ、というふうに。
蒼はうなずき、そっと手を伸ばして穴の縁に指先で触れた。くすぐるような指の小さな動き。まるで穴に肉体的に接触することで、その根源である問題の正体を読みとろうとするように。
逆に言えば、彼女は穴に手を突っ込むことを恐れている。その腕の細さなら、余裕をもって入りそうなのに。
俺は黙って朝食の準備にとりかかった。
俺はホイップクリームが挟まったばかでかいロールパンに、コーヒー牛乳。蒼はチョココロネに、いちご牛乳。
「奇しくも両方牛乳系の飲み物だな。蒼が両方とも好きじゃないやつを買うのを避けるために、全然違う味わいの商品を買ったつもりなんだけど、微妙に被ってるっていう」
俺がそう言って苦笑し、蒼はうなずいたかどうかも分からない浅さで首を縦に振った。それが今のところ、朝食を食べはじめてから彼女と交わした唯一のやりとりとなっている。
雰囲気は重苦しい。俺が隠しごとをしていて、その事実を察した蒼が不安がっているから。もちろん、俺だって心が重い。
打ち明けてしまおう。結局はそのほうが楽だ。
「晴太。わたしの今後のことだけど」
「……あ」
思い出した。今まで完全に忘れていたのに、パンをかじるのを唐突にやめての蒼のつぶやきを聞いた瞬間に。
「ごめん、食べるのに夢中で完全に忘れてた。今後どうするか、今日の朝までに決めるって、昨日約束したんだったよね」
「そう。もう決めたから、言おうと思って。――ただし、晴太の意見を聞いてから」
「どういうこと?」
「晴太はニートだと自称していたよね。だから、わたしが居候になったとして、晴太にわたしを養うだけの余裕があるのかなって」
「ということは、蒼は――」
「晴太のお世話になりたい、というのが第一希望。でも、あなたにその力がないなら、無理に頼ろうとは思わない。その場合、お手数をかけるけど、次善の策についていっしょに考えてほしい。それが第二希望」
赤星蒼が俺を頼ってくれる――。
本来なら蒼の手をとって小躍りをしたいところだけど、ニートである現実を直視させられた今は、それどころじゃない。
「お互いに話すべきことがありそうだから、先に話すね。晴太はそのあいだに考えを整理しておいて」
チョココロネを一口食べ、それが入っていた透明な袋の上に置く。いちご牛乳を一口飲み、静かに床に下ろす。ティッシュで口元を拭い、蒼はおもむろに語り出した。
「わたしは幼少時から人付き合いが苦手で、嫌いで、自分の世界に閉じこもって一人遊びをするのが好きだった。母親は個性を尊重してくれる人で、最低限のルールを守ればその生き方でもいい、という意味の言葉をよくかけてくれた。一方の父親は旧弊な考えの持ち主で、孤独を好むわたしの価値観や生き方を矯正しようとした」
蒼の発言は開幕早々から不穏だ。裸で縛られて放置されていた件に繋がる話をしているのだから、この流れは既定路線のようなものなのかもしれない。それでも俺は顔をしかめずにはいられなかった。
「規範を重んじる厳格な父親に、子どもに寄り添う心優しい母親。ありがちな組み合わせなのかもしれないけど、ますますありがちなことに、父親は暴力的でもあったの。母親いわく、厳しいのは昔からだけど、暴言というほどひどい言葉は吐かなかったし、暴力を振るうこともなかった。わたしという存在が赤星家の一員になり、子育てという責任と義務を背負わされたのがきっかけで、ストレスから乱暴な振る舞いをするようになったみたいで」
謎だったDV野郎の正体がやっと分かった。蒼の父親だったのだ。
蒼の口調は淡々としていて、どことなくふてくされているようでもある。実際、快い気分ではないのだろう。無感情という基本線を歪めてしまうほど、父親は蒼に対して影響力を持つ存在なのだ。
「DVに耐えかねて、母親は家から出て行った。それがわたしが小学四年生のとき。母親としては、命の危機を感じてやむを得ず、だったのかもしれないけど、娘のわたしを避難先に連れて行くという選択肢は選ばなかった。DVする夫のもとに、わたしから見れば父親のもとに、わたしを置き去りにした。娘のわたしを生贄に捧げれば、引き換えに自分の身の安全を確保できるからそうした、とでもいうように」
赤星蒼は幼少時から内にこもることを好む、孤独な少女だったと彼女は自己分析している。それは事実だったのだろう。ただし程度としては、人よりも多少内気で引っ込み思案で人見知りの傾向が強いだけ。毎年クラスに一人か二人くらいいる、無口で大人しい生徒の一人に過ぎなかったんじゃないか。
それが、今のように常に無表情、声に感情をのせることすらめったにない少女になってしまったのは、父親のせい。俺にはそう思われてならない。
「母親が家から去ったことで、父親のDVはわたしに集中した。母親がいなくなっても、わたしの根本の気質や行動様態は据え置きだから、父親からすれば行為をやめる動機がない」
「変えようとは思わなかったの? 被害を避けるために、自己防衛のために妥協しようって」
「やらなかったよ。できなかったんだと思う」
即答だった。彼女らしい淡々とした口ぶりを堅持しての即答。
「十年間、そんな生き方を貫いてきたから、今さら変えられなくて。誰かに命じられたくらいで変えたくない、という思いもあった。わたし、こう見えて頑固な性格だから」
「いや、でも、ひどい暴力と暴言に日々さらされているわけだよね。だったら――」
「無理だったの。晴太からすれば信じられないかもしれないけど――正直に言うと、わたし自身もちょっと異常だって思うこともあるけど、とにかくそれが現実。孤独を愛する生き方をどうすることもできなくて、父親にDVをする口実を与えてしまって、日常的に暴力と暴言を浴び続けた」
今わたしが言ったこと、どう思った? そう問いかけるような眼差しが注がれたけど、俺はリアクションを返せない。返せるはずもない。
「客観的に見て、DVのひどさはなかなかの水準だと思う。昨夜裸になったときは、消灯していたから晴太は気づかなかったみたいだけど、痣はいくつかあって」
そう言って、シャツの裾をへその上までまくり上げる。脇腹と、へそのすぐ左と、股間に近い箇所の合計三か所、青色と黒色の中間のような色合いの小さな痣が確認できた。
「父親は服の外に出る場所、たとえば顔とか腕とかは避けて危害を加えている。それが、痣はあっても痣だらけではない理由の第一。第二の理由は、わたしが中学生になったくらいから、性的な暴力がメインになったから」
「え……」
「昨日セックスをしたあと、わたしが処女ではなかった事実を踏まえて、誰とセックスをしたのかと晴太は訊いたよね。わたしははぐらかしたけど、そうしたのは答えづらい質問だったからで。思い切って正直に答えると、相手は父親。頻度は、中一の夏ごろに初体験をすませてからずっと、ほぼ毎日じゃないかな。世間一般の人間がどんなセックスをしているのかは知らないけど、昨夜の晴太とのセックスを基準にすると、かなり暴力的だと思う。窒素しそうになって、たまに胃の中のものを戻しちゃうことがあるセックスって、少なくとも一般的ではないでしょう」
あのときの自分を全力でぶん殴ってやりたい。
あのときの俺は「性には淡泊っぽいのに、ちゃっかりセックスを楽しんでいるなんて、蒼も隅に置けないね」くらいのニュアンス、いわば茶化す目的でそんな質問を投げかけた。
それがまさか、望まない近親相姦を強いられていたなんて。
「母親が家を去ったことで起きたもう一つの変化は、わたしが家事を担当するようになったこと。毎日の食事作りから、洗濯、掃除、買い物――すべての家事を。部屋の隅に少しでもほこりが残っていると罰として殴られるとか、父親のチェックは厳しくて。異常だと思ったけど、仕方がないことだとも思っていた。だって、わたしは満年齢十六歳。本来なら高校一年生をやっていないといけない年齢なのに、学校にも行っていないし働いてもいない。学校に行けないのは、ギャンブルにつぎ込むお金を確保するために父親が出費を拒んだからだけど、働いていないのはわたしの責任。対人コミュニケーション能力に難があるとはいえ、肉体的に働けないわけではないにもかかわらず働かないわたしが悪い。だから家事ぐらいはと思って、ノルマがきつくても、罵倒されても、課せられた義務を辛抱強くこなしてきたんだけど」
蒼は言葉を切る。微かに眉根を寄せ、俺の目を見つめたままゆっくりと頭を振った。
「でも、もう限界だった。店の売り物に針を刺すところ、晴太は見たでしょう? 神社の木の幹にナイフで刻みつけた傷、晴太は見たでしょう?」
ストレス解消。蒼が動機をそう説明していた行為たちだ。
「あんな行為、最初はやっていなかった。はじめたこと自体、心が限界に近づいていた証拠だと思う。ストレス解消法を見つけたことでちょっとましになったけど、でも、しょせんはその場しのぎ。ストレスの処理がだんだん追いつかなくなっていって、今にもあふれ出しそうになったときに――佐々晴太、あなたに出会った」
蒼はほのかに笑った。注意力が今よりも少しでも不足していたとしたら、微笑んだと認識すらできなかったような、かすかで、淡くて、今にも消えてしまいそうな笑み。
俺の目の前で、蒼がはじめて笑ってくれた――。