バスルーム・ベッドルーム
俺がバスルームに湯を張りに行っているあいだに、蒼は再び横になり、さらには目をつむり、体を休める態勢に入っていた。
風呂が沸くまでのあいだ、俺はなにもすることがなかった。交わしたばかりの取り決めを四角四面に解釈せずに、例の出来事とまったく無関係の気軽な世間話くらいは振ってもよかったんだろうけど、いったん沈黙しまったせいで話しかけづらかった。
助け舟を出したのは、バスタブが満杯になったことを報せる機械の女性の声。
「蒼、湯を張り終わったから浸かってきなよ。少しは疲れもとれるでしょ」
蒼はまぶたを開いて俺を見た。ただ、気乗りがしないらしく起き上がろうとしない。あくまでも入浴をすすめたいというよりも、その元気のないリアクションが心配になり、風呂に絡めて体調を心配する言葉を二つ三つ投げかける。すると彼女は緩慢に上体を起こし、
「あなたがうるさいから、入る。少なくともあなたは満足するだろうから」
俺は慌ててパジャマを用意した。バスルームに消える後ろ姿を見送りながら、
「覗かないから安心して。俺、こう見えてチキンだから」
蒼は肩越しに振り向いて小さくうなずき、ドアの向こうへと消えた。
六畳間にいてもバスルームからの水音はかすかに聞こえる。
心が揺れなかったと言えば嘘になる。しかし幸か不幸か、すぐに慣れた。女の子と二人きり。女性経験に乏しい俺には平常心でいるのが難しいシチュエーションのはずなのだけど、やはり状況が状況だからなのだろう。
蒼は長風呂のようだ。もとからそうなのか、俺のすすめに従った結果か。何事にも淡泊だから、普段は烏の行水のようにも思えるし、身だしなみはきちんとしているから、もともと長く浸かる習慣を持っているような気もする。
俺は、赤星蒼のことをなにも知らない。
会う機会ごとに新鮮で印象的な体験をしているせいか、それなりに長い付き合いがあるように錯覚しがちだけど、実際は知り合ってからまだ四日しか経っていない。
付き合いが短いだけじゃなくて、彼女は寡黙で、パーソナルな情報を明かすことをよしとしないから、謎は星の数ほどある。最近はまっていること、初恋の相手、将来の夢――知らないことばかりといっても過言ではない。
裸で縛られて庭に転がっていた一件だって、なにがあったのか、本当は今すぐにでも肩を揺さぶって詰問したいくらいだ。
しかし同時に、真実を知ることを恐れてもいる。
蒼は明日の朝、俺のもとを去ることになるのだろうか?
想像するだけで胸が苦しくなる。
ずっとここにいてほしい。行ってほしくない。いったん別れたら、もう二度と会えない気がする。
突然、バスルームのドアが開く音が聞こえた。
俺は頭の中を空にして聴覚を研ぎ澄ませる。常識的に考えれば、今ごろはバスタオルで体を拭いているはずだけど、その音まではさすがに聞きとれない。
ほどなくして、パジャマ姿の蒼が部屋に現れた。
「いいお湯だった」
「それはよかった。元気出た?」
「多少は。佐々も入れば」
「そうしようかな」
入れ替わりで俺はバスルームへ向かった。
着替えは脱衣所にはなかったし、彼女の体臭が室内にこもっているなんてこともなかったから、特に緊張はしなかった。
むしろ蒼のことが心配だった。六畳間にいたときはバスルームからの音声も部分的に聞こえてきたけど、バスルームからだとバスルーム内で発生する音しか聞こえない。
入浴前のようにベッドの上で大人しくしているだけなのだろうけど、この目で無事を確認するまでは安心できない。
必然に早風呂になった。昂る心をなだめるようにていねいに、しかし隠しきれない性急さで体の水気を拭いていく。
六畳間に戻ると、真っ暗だった。
照明が消えているのだ。
さっきまで脱衣所の明かりはちゃんと点いていた。消してから六畳間まで戻ってくるまでの数秒のあいだに停電になったと考えるよりも、蒼が消したと解釈したほうが自然だ。
入浴して体が温まって、眠たくなって寝たくなったから、電気を消した。十中八九それで正解なんだろうけど、万が一違っていたら?
「蒼! 寝てるの? 返事して」
怒鳴るように呼びかけた。声は返ってこない。
眠っているので返事ができなかった? それとも無視した?
「ねえ、返事だけでいいからしてくれない? 君のことが心配なんだよ。……本当に寝ているの?」
やはり無反応。
俺を弄んで面白がっている? いや、あいつに限ってそれだけはあり得ない。じゃあ今どうなっている? 返事がない以上、俺が自力で確かめるしかない。
闇の中を、少し慎重な足取りでベッドへ向かう。自分の部屋だから照明のスウィッチの場所なんて分かり切っているのに、なぜかスルーした。
短い距離を移動するあいだに早くも目は闇に適応したようで、ベッドの上で横になっている蒼を発見した。こちらに背を向け、身じろぎ一つしない。眠っているだけなのだろうけど、一応生死を確かめておきたくて、右手を伸ばそうとした。
蒼がいきなり体を反転させ、こちらを向いた。息を呑む俺の右手首を掴み、思いきり引っ張った。彼女の体臭が一気に濃くなり、唇に柔らかいものが触れる。
頭が真っ白になった。
腕が離れたかと思うと、俺の背中へと回され、体ごと引き寄せられた。俺は抗わなかった。抗えなかったのではない。キスをされたと同時に、抗うという選択肢が消滅したのだ。
不意に耳にくすぐったさを感じたと思ったら、熱い吐息とともに耳孔に言葉が流れ込んできた。
「したい、したいよ、晴太。早く、早く……」
狂おしげな声。官能的な声。切望する声。
乱暴を承知で胸を鷲掴みし、今度はこちらから蒼の唇に唇を重ねる。彼女はどちらの行為にも抵抗しない。それどころか、舌で、両手で、さらには両脚で俺に絡みついてくる。
双方が欲望のままに奔放に動いたことで、状況は混沌と化した。加えて、感情が極限までといっても過言ではないくらい昂ったため、記憶はほとんど飛んでしまっている。
だから、簡潔にまとめておこう。
俺と蒼はセックスをした。交わって、交わって、果てて、それでも懲りずに交わって、精も根も尽き果てるまでセックスをしたんだ。
事後特有の心地よい脱力感に身を委ねようとした俺は、床に落ちた。
二人で並んで眠るには、引っ越しに合わせて買い替えた安物のベッドは狭すぎたのだ。
「いてぇな、ちくしょう。ベッドが高層ビルの屋上に置かれてたなら、死んでたぜ」
悪態をつきながらリアクションを待ったものの、衣擦れのかすかな音さえ聞こえてこない。明らかにツッコミ待ちの発言なのに、スルー。赤星蒼はいつなんどきも赤星蒼というわけだ。
「ねえ、蒼。もう少し端に寄ってくれないか」
「無理。床で寝て」
「ひでぇな。……まあでも、いい思いをさせてもらったからな。それに免じて、今日のところはここで寝るとするよ」
俺といっしょに落下した毛布を引き寄せ、鎖骨から下を覆う。フローリング張りの床はかたいけど、ひと晩だけならまあなんとか、というところか。
「しかし、ショックだな。蒼が処女じゃなかったとはね」
「そんなに意外だった?」
これもスルーされるかと思ったけど、言葉が返ってきた。ベッドを占領したのを申し訳なく思っていて、埋め合わせにちょっと相手になってやろうと考えたのかもしれない。
「ああ、意外だった。性に関心がない人間に見えたから」
「あまりスラングには詳しくないのだけど、晴太はいわゆる処女厨というやつ?」
「違うよ。思い込みを裏切られたのがショックだっただけだ。でも、誰とやったの? 恋人?」
「知らないほうがいい。もっとショックを受けるから」
「なんか、受け答えするのが面倒くさくなってきてない?」
「むしろその逆。気持ちいいことをしたあと、リラックスした気分で取りとめのない話をするの、楽しいなって思う」
「まったく説得力ないな、声に感情がこもってないから。やっているときだって、喘ぎ声の一つも上げなかったよね」
「快感はちゃんと覚えていたから」
「AVの観すぎじゃない、とは言い返してこないんだね」
「アダルトビデオのこと? そんなものは観たことないから」
「今度二人で鑑賞会でもしないか。いろんな趣向の作品があって面白いぜ。奇をてらった笑えるやつとか」
「おなかいっぱいなのに食事の話をされても、興ざめなんだけど」
「うまい返しじゃん。やっぱり楽しいな、蒼と話をするのは」
「わたしも楽しいけど、今日はこのへんでおしまいにしましょう。疲れているから」
寝返りを打ったらしく衣擦れの音がした。寝る態勢に入ったからもう話しかけるなという意味だろう。
不思議なもので、「疲れている」という言葉が出たとたんに俺も疲れを自覚した。もう少しくだらない話をしていたい気持ちはあるけど、今日のところは引き下がろう。毛布を顎まで引き上げて目をつむる。
久々に安眠を貪れそうだった。