狭い部屋で二人
捨てられた赤ん坊のことで嫌な思いはしたけど、やっぱり可燃ごみを出しに行ってよかったと思った。
俺は部屋をこまめに整理整頓する習慣を持たない。その手の部屋は常に散らかっているイメージだけど、俺の場合はそもそも持ち物が少ないので、ごみさえちゃんと捨てれば部屋はそれなりに片づいて見えるのだ。
「ほら、入って。ちょっと汚いかもだけど」
先に中に入り、客人を招き入れても差し支えない状況だと確認して、玄関まで戻ってそう告げた。
裸体に俺の上着を羽織ったという姿の赤星蒼は、俯いていて俺の声に反応しない。
裸にさせられて縛られて庭に転がされていたのだから、無理もない。そう納得しつつも、痛々しさに顔をしかめてしまう。
もともと羞恥心が薄いのか、ショックで麻痺しているのか、蒼は開きっぱなしの上着の前から覗くデリケートな部分を隠そうともしない。胸も股間も丸見えだ。薄い陰毛に控えめな胸と、パーツがどちらも幼さが感じられるだけに、余計に痛々しい。
「遠慮してる? それとも男の部屋に上がるのは嫌? だとしても、今日だけは我慢して。せいいっぱいもてなして、少しでも君が満足してくれるように努力するから。さあ、入って」
まずは着替えだな。そう思いながら中へと彼女を導く。その足取りの弱々しさにいっそう胸が締めつけられたけど、助ける側がしっかりしなければと気持ちを引きしめた。
スペースを指して「ここ座って」と指示し、着替えを用意する。座布団の類がないのも、小柄な少女の体に合う服がないのも、緊急事態だから仕方ないと思いながらも申し訳なさが上回る。
どうにか服を見繕って振り向くと、蒼はベッドに横になっていた。
一瞬、世界を流れる時間が足を止めた。
その感覚が解除されたあとで、二つの感情が込み上げてきた。座っているだけでもしんどい体調だと気づいてあげられなかった罪悪感。そして、半裸の少女が自分のベッドに横になっていることへの戸惑い。
特に後者は激しかった。
すでに裸は見ているのに、彼女が身を置く位置が少し変わっただけで、俺の心臓は駆け足で鼓動を刻みはじめた。速めさせたのは、性的興奮。無防備な姿を見ていると、どうしても特定の行為を連想し、意識を引き剥がせなくなる。
己の根城に異性を連れ込むのははじめてだったと、今になって気がつく。
「蒼、よかったらこの服を着て。俺セレクトだ。気に入らないなら勝手に箪笥を漁って着てくれていいよ。君はどれもぶかぶかだと思うけど、ないよりはましだろうから。トイレとか水道とかも自由に使って。食料と飲み物、家にないから買ってくる。適当でいいよね?」
返事はない。虚ろな目でじっと壁を見つめている。
「鍵は閉めていくから、安心して寝てて。急ぎで行って、急ぎで帰ってくるよ」
赤星蒼の存在を知って以来、スーパーマーケットSでの滞在時間は一番短かったんじゃないかと思う。蒼を待つという目的がないと、こんなにも魅力が失われるものなのかと、驚いたし呆れもした。
ただ、従来とは違った角度から蒼のことを思う時間は長かった。中でも気がかりだったのは、俺が買い物をしている隙に部屋から出て行ったかもしれない、ということ。部屋に来たのは蒼の意思とはいえ、実際に他人の住まいに身を置いてみて気が変わることだってあるだろう。失っていた衣服を得たからお役御免と考えたかもしれないし。
だから、すぐに食べられる食品を詰め込んだレジ袋を手に疾風のように駆けて帰宅し、ベッドの上に蒼の姿を見た瞬間、自分でも馬鹿じゃないかと思うくらい大きな安堵の息を吐いた。
感情表現が大げさになったのは、彼女が上体を起こし、俺が用意していた服をちゃんと身にまとっていたからでもある。案の定ぶかぶかで、そのいかにも服に着られていますといった姿が微笑ましくてかわいくて、顔がにやけるのを抑えるのに苦労した。
「おっ、ちょっと復活してる。飯買ってきたから、食おうぜ。タンドリーチキン弁当と、ざるそばと、あとはサンドウィッチとおにぎり、それから飲み物がいろいろだね。どれがいい?」
「おにぎり。お茶があればちょうだい」
「タンドリーチキン弁当じゃないんだ。カレー味が好きかなと思って、カツ丼とどっちがいいか、迷った挙げ句そっちにしたんだけど」
「裸で縛られたあとであまり食べたくない」
「ざるそばは縛られたロープを連想するから嫌ってこと?」
「想像力が豊かね。で、おにぎりとお茶は?」
「はい、お茶。おにぎりは何種類か買ってあるから、好きなのを選んで」
食事がはじまった。
直前のやりとりが本来の俺たちらしいものだったので、盛り上がるんじゃないかと期待した。しかしいざ蓋を開けてみると、無言。
蒼は自分からはめったに話を振ってこないので、彼女に罪はない。原因はひとえに、話題を捻出できない俺にある。
この部屋に来た経緯を考えれば、裸で緊縛されていた件に触れるのが定石なのだろう。でも、そのショックからやっと抜け出した蒼に、その話題を振るのは残酷だ。
「うまいな、この弁当。ちゃんとカレーの味に深みがあって。肉も結構ボリュームあるし」
だから仕方なしに、今食べているものの味に言及した。ほとんど相槌を打たない蒼のリアクションはいつものこととはいえ、虚しさを倍加させる。ただ、蒼がおにぎりを一個食べ、お茶も飲んでくれたのにはほっとした。
やがて弁当を食べ終わり、ごみの後片付けが終わって、静寂が俺たちを包み込んだ。
触れなければいけない空気を感じる。踏み込まないのだとしても、触れなければ。そのチェックポイントを通過しないかぎり、きっとこの先、俺たちのあいだを漂う空気は気まずいものにしかならない。
その重い役目をこなす義務があるとすれば、どう考えても蒼じゃなくて俺だ。
「ねえ、蒼。君が庭で裸で縛られていた件だけどね」
蒼の肩が少し震えた、気がする。
「なんで君を発見できたかというと、前も言ったように俺はニートで一日中暇だから、暇を持て余しているうちに君に会いたくなってさ。スーパーSとか、君にゆかりのある場所を順番に見て回ったけど、見つからなくて。だから帰ろうと思ったら、赤星っていう門札が掲げられた家をたまたま見かけたんだ。もしかしてと思ってインターフォンを鳴らしたんだけど、誰も出なくて。でも、なんでなんだろうね。いわゆる虫の知らせってやつなのかな、蒼がここにいるとしか思えなくて。でも留守みたいだったから、本当はいけないんだけど裏庭まで行ってみたら、君を発見したというわけ」
おとといに尾行したさいに自宅を知ったと正直に話すべきなのかもしれないけど、これ以上ショックを受けそうな事実は伝えるべきではない気がして、「偶然」という力技を持ち出した。信じてもらえたのかは、例によって無表情なのでなんとも言えない。
「事情は分からないけど、ただごとじゃないなって思う。なにか蒼一人の手には負えない事態に巻き込まれているんじゃないかなって。俺としてはまずは事情を聞いて、その解決に協力したい。でも、話すか話さないか、頼るか頼らないかは君の自由だ。今はやっと食事を口にしたところで、気持ちは完全に落ち着いていないし、考えも整理できていないと思うんだ。だから、今日一日はこの家でゆっくり心と体を休めてよ。俺はなにも質問しないようにする。ファミレスで交わした約束みたいなものだね。もし夜が明けて俺に事情を話す気になったなら、話して。話す気になれないんだったら、家に帰ってもいいし、しばらくこの家で寝泊まりしてもいい。君の好きなようにすればいいよ」
蒼は無表情で沈黙している。ただ、まばたきは気持ち忙しなくなった。いっぺんに大量にもたらされた情報を整理しているのだろうか。
俺は小さく苦笑する。彼女相手だとつい話しすぎてしまう。大人しすぎる聞き手も考えものだな。
「話をまとめると、最短でも明日の朝までこの部屋を自由に使っていいよ、庭で縛られた一件は、そのときが来て話したい気分だったら話してね、ということだね。質問はある?」
「わたしがここに泊まるのは確定事項なんだね」
「確定ではないけど、そのほうがいいのかなって。だって、君がああなったのは家族の人と揉めて、今日は帰りづらいのかなって思ってさ。場所が君の自宅の庭だったから」
「そうね。たしかに、宿を提供してくれるのは助かる」
「やっぱりそうなんだ。あ、事情は話さなくてもいいよ。言ったばかりのように、明日の朝に話したければ話して」
「わたしが払うものがないのに、こんなにも厚くもてなしてくれるなんて」
「感動した?」
「気味が悪い」
「君は困っているんだよ? 助けるのは当たり前じゃないか」
なんだか普段の俺たちらしくなってきたな。
俺は笑みをこぼした。