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救出

 殴打の嵐が不意にやんだ。ガードを緩めて様子をうかがうと、母さんは体を横にかたむけて床に手を伸ばしていた。ティーカップだ。逆さになり、中身をすべて吐き出したそれを掴み上げた。

 俺は周囲を見回した。キャビネットにぶつかったさいに落ちた中の一体、グリフォンの置物がちょうど右手のそばにあった。少し手を伸ばすと、しっかりと掴めた。母さんはティーカップを振り上げ、

「死ね……!」

 俺は上体を少し持ち上げ、カウンターの要領で置物を顔面に叩き込んだ。つぶれた蛙のような声を口からもらし、母さんは後ろ向きに倒れた。

 俺は母さんの下から這い出し、這いつくばった姿勢のまま呼吸を整える。グリフォンの首から翼にかけて真っ赤な血がべったりと付着している。

 置物を投げ捨てて母さんに歩み寄る。身じろぎ一つしない。瞳孔が開ききっている。恐る恐る脈拍を計ってみる。

「死んでる……」

 自分自身が口にした「死」という単語を耳にした瞬間、俺は夢から覚めたような感覚に襲われた。双眸をしばたたいて頭を振る。

「いや、違う。――幻覚だ。これは幻覚なんだ……」

 母さんは気絶しただけ。死んでなんかいない。よく考えてみろ。人間が、陶製の置物でちょっと殴ったくらいで死ぬはずがないだろ。気絶しているだけ――そう、気絶しているだけなんだ。殴ったときの手応えだって、幻覚。母さんは俺に殴られて気絶したんじゃなくて、ひとりでに気を失った。たぶん、疲れていたんだよ。仕事で大変とか言っていたし。だから、その影響で突然倒れてしまった。そう、きっとそれが真実。

「母さん、ごめん。お金、少しだけ借りていくね。……ゆっくり寝てね、母さん」

 ベッドまで移動させるか否か。迷ったけど、血の繋がった母親とはいえ寝室には入りづらい。とはいえ、そのまま放置するわけにもいかないので、「ごめんなさい」と断ったうえで、毛布を一枚とってきて体にかけた。やはり身じろぎ一つしないけど、見開いたままの目が隠れたことで心がだいぶ楽になった。きっと安らかに眠れるだろう。

 仕送りの再開を約束してもらえなかったのは残念だけど、最低限の金額であればきっと赦してくれるはずだ。盗むような真似をしたことで、勘当に近い処置が下されるかもしれないけど、母さんならきっと俺にとっての最悪だけは選ばない。

 今はそう信じて、俺は俺がやるべきことをやろう。

 床に転がっているグリフォンの置物を両手で掴み、頭上に振り上げて思いきり足元に叩きつける。

「――やっぱりか」

 キメラめいた架空生物が騒々しい音とともに真っ二つに割れ、中から出てきたのは、まっさらな一万円札。俺はそれをひったくるように拾い上げてジーンズのポケットに押し込んだ。

 昨日、誤ってユニコーンの置物を落として割ってしまったとき、中から紙幣が出てきたのを俺は見た。母さんはコレクションの置物の中に金を隠していたのだ。金に困っているらしい息子にばれたので、隠し場所を移動させたかもしれないと危惧していたのだけど、杞憂だったらしい。

 俺が二度と来ることはないと高をくくっていたのか。いくら困っているとはいえ、盗みはしないだろうと信用してくれたのか。真相は永遠の謎になってしまったけど、とにかく助かった。

 他にも何個かランダムに割ってみた。五個中一個の割合で中に一万円札が入っていて、合計五万円が俺の懐に入った。

 すべて割ってみてもよかったけど、それはさすがに出過ぎた真似だから、これで満足することにしよう。

 もはや用事はすんだ。

 最後に母さんの顔を確認しようかとも思ったけど、気乗りがしないのでやめて、「さようなら」と言って部屋を飛び出す。戸締りが心配だけど、きっとすぐに目を覚ますはずだ。

 行き先は、この時点ですでに決めていた。


 母さん。

 母さんに呼びかけるのは、今回の手紙の中でははじめてだね。その理由、分かるようで分からなかったんだけど、ようやく確定したよ。母さんが意識を失ったからだ。

 もっと正確に言おう。意識を失って、この手紙を読むことができないから、わざわざ呼びかける理由もない。だからだったんだよ、母さん。

 この手紙は母さんが読んでいないという前提だからこそ、いつもよりもずっと活き活きと文章を書きつづれていることに俺は気がついている。母さんは俺にとって大切な人だけど、心を圧迫する存在でもあったんだと、今さらながら気がついた。仕送りという餌を使って、俺という犬を巧みに操る、というよりも完璧に支配してきたんだって。

 優れた存在に依存し、言いなりなるのは快感だという、倒錯的なロジックはたしかにある。でもやっぱり、自由に動き回れるほうがいい。いろんな事情があってそれが叶わないだけで、誰しもがその願望を持っているものなんじゃないかな。

 たとえば俺の事情は、生まれつき怠惰なこと。何事にも本気で取り組めない。なにをやっても長続きしない。易きに流れる、流される。結果、二十四歳になっても両親に経済的に依存したまま。

 好きで迷惑をかけていたわけじゃない。働けるものなら働きたかった。母さんに迷惑をかける生活から早く脱して、逆に母さんを助けてあげる。そんな未来を願っていたけど、無理だった。生来の怠惰な性格による妨害にあえなく屈してしまった。

「自分」という殻の外に出るのは限りなく難しいものなのだ。実質的に不可能だと断言してしまってもいい。少なくとも、俺みたいな凡人には。

 長らくそう思ってきたけど、まさか、あんな形で殻を破るなんて。

 破ることができた理由は、はっきりとは言えない。こんな表現は投げやりだと受け取られるかもしれないけど、単なる偶然だったのかもしれない。

 だから、要因についてあれこれ考察するんじゃなくて、未来を見据えたい。

 これからの俺は己の思うままに活動することになるだろう。もしかしたら、長かったひきこもり時代を引きずって、顔色をうかがうような醜態をさらすかもしれない。だとしても、その頻度も次第に低下し、やがては消滅に至るはずだ。

 殻を破れたというのは錯覚じゃないのか?

 そんな疑念も過ぎったけど、間髪を入れずに否定する。

 大丈夫、俺はもはや生まれ変わった。遅まきながら親離れを達成したうえで。これからは思うままに生きていく。やりたいことだけをやって生きていくんだ。

 今やりたいのは、俺の体験を書きつづること。やりたいことをやった記録を文章として残すこと。

 やりたいことをやった。

 その評価に偽りはない。ただ、俺がよくても世界がそれを許さないこともある。赤星蒼が許さない、というよりも。

 そこのところも含めて、正直に書いていこうじゃないか。


 赤星家。

 赤星蒼の自宅。

 俺はその門前で足を止め、忙しなく呼吸しながら、世界の終末じみた夕暮れを背景に佇む二階建ての家屋を見つめている。

 音は聞こえない。気配も感じない。しかし、蒼がいるとすればここだ、という予感があった。

 今朝来たときと明確に違うのは、徹底的に捜索する覚悟を固めていること。場合によっては犯罪行為だって厭わない覚悟だった。

 敷地に足を踏み入れる。真っ直ぐは短い飛び石の小道を直進し、インターフォンを鳴らす。応答はない。今朝のように、呼び出し音で呼び出す以外の方法も織り交ぜても結果は同じだ。

 玄関ドアから離れ、住宅の外壁に沿って反時計回りに移動する。カーテンが厳重に閉ざされた大きな窓の前を通り過ぎる。庭に物置小屋や植え込みなどの人が隠れられそうな場所はどこにもない。

 やがて左手に、住宅の外壁と敷地を囲うフェンスに挟まれた狭い通路を見つけた。住宅の裏手に出るための道だろう。蟹歩きをして奥へ向かう。薄暗さと、左右からの圧迫感とが相俟って、まるでトンネルの中だ。

 予感があった。結果論じゃなくて、通路を移動していたときからすでに。

 抜けた先は裏庭だった。庭の三分の一ほどの面積だろうか。日当たりの悪い、そのせいなのか地面から生えている雑草もまばらな、はっきりと狭さを感じられる空間。置かれているのは物干し台のみだ。

 その支柱の一本のかたわらに、裸の人物が転がっている。気をつけの姿勢で、四肢をロープでぐるぐる巻きに縛られていて、胸と股間だけが露出している。胸の先端はまだつぼみはまだ開花前といった風情で、繁みは薄い。

 いや、露出しているのはその二か所だけじゃなくて、顔も。

 赤星蒼だ。

 口は粘着テープでふさがれている。その上の目は俺を捉えている。激しい感情表現ではない。しかし、いつもの無表情とは違う。なにかを訴えかけている。演技ではない切実さで。たった一つのことではなく、言語化しづらいさまざまな感情や想いを。

「今すぐにロープをほどくよ。ちょっと待ってて」

 見た目から察してはいたけど、縛り方は厳重だ。最初のころは誰かがこの裏庭に、まだ見ぬDV野郎が今にもやってくるのではないかと気が気ではなかったけど、比較的速やかに集中モードに入れた。

 これだけきつく結ばれると、肉体的に痛いだろう。服だって、今すぐにでも着たいはず。蒼は無口だし、感情をはっきりとは表現しない人だけど、絶対にそうだ。

 蒼、蒼、蒼――赤星蒼のために尽くす。意識下の欲求に応える。それが俺に課せられた使命なんだ。

 肌と肌が触れる。そのたびに心に漣が立つ。柔らかい。冷たい。でも、人間らしいぬくもりはしっくりと感じる。俺は作業の手を片時も休めない。

 ようやく、腰のあたりの束縛が緩んだ。一度ひびが入った壁が脆いように、それを端緒にロープは加速度的にほどけていく。

「ほどけたら、家に帰ろう。俺の家に」

 手を動かし続ける俺の口からそんな言葉がこぼれた。行方不明になっていた蒼を見つけて、どうするか。いましめをほどいて、どうするか。一寸先さえ見通せていなかった未来のことが、ようやく見えた。

「さっき昼飯を食ったような気がするのに、世界はもう暗くなっていて、そろそろ晩飯の時間だ。たぶんだけど、なにも食べていないよね。まずは腹ごしらえをしよう。臨時収入が入ったから、なんでも好きなものをリクエストしていいよ。いや、その前に風呂で体をあたためたほうがいいかな。もちろん、入らなくてもいいし。においなんて、生きていれば誰だってするものだから。とにかく、俺の家まで来て、しばらくゆっくりしてくれ。なにがあったのかは、人心地がついたあとで、蒼が話したい気分だったらそのときは話して。話すのを条件に部屋を貸すとかじゃないから、安心して」

 半分以上はひとり言のつもりだ。難色を示してくるようなら、プランの変更も辞さない覚悟だってしていた。

 でも蒼はそれを裏切って、俺の顔を真っ直ぐに見据えながら、声に出してこう答えたんだ。

「分かった。そうする。ありがとう」

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