遠慮なんていらない
第一の行き先に選んだのは、赤星家。
黒のセダンは停まっていなかった。平日昼間だから仕事に出かけているのだろうけど、一度だけ見たそれは俺の幻覚だったんじゃないかと疑ってしまう。
幻覚、幻覚、なんでも幻覚……。
はっきり言って良好な精神状態とは言いがたいけど、今はそんなことに構っている場合じゃない。
赤星蒼が在宅なのかは、門の外から見ただけでは判断がつかない。今は昼に近い朝方だから、部屋の明かりのオンオフという、大まかな基準に照らし合わせることさえも不可能だ。
窓から中の様子を見られないか。そうでなくても、生活音を聞きとれないか。人気を感じとれないか。
あと一歩で実行に移しかけたけど、やめた。しょせんは不確実な方法だからだ。実行に踏み切るのに勇気を必要とするのだとしても、より確実性の高いほうを選びたい。
ほんの少し逡巡して、インターフォンを鳴らす。
自分自身の心臓の音を聞きながら、それに合わせて二十を数えた。
応答は、なかった。
ファミレスで昼食をおごった一件で、俺に対する好感度は多少なりとも上がっているはずだ。それなのに応答がないのは、出かけているから応対したくてもできない? それとも、気軽に訪問を受け入れる好感度に達していない?
後者だとしたら癪だ。少しむきになってインターフォンを連打する。さらには、ドア越しに呼びかけ、ノックする。ようするに、考えられるかぎりの方法を動員して「会いたい」というメッセージを送った。
しかし、応答はない。
「留守、かな」
蒼は昨日、今よりも少し遅い時間帯には神社に出かけていた。彼女はDV野郎が出かけている状況でも、必ずしも家の中にいることは選ばないのかもしれない。
「時間、無駄にしちゃったかな……」
ため息をつき、しかしすぐさま気持ちを切り替えて赤星家をあとにする。捜し回っても見つからなかったら、またここに来ようと思いながら。
神社に蒼はいなかった。
例の木の幹を見てみると、幾何学模様のような傷の数が増えていた。ストレス解消のためと称して実施している行為によって増えたのだ。
静かな環境を利用して、赤星蒼がどこに消えたのかを考察する時間をとろうかとも思っていたのだけど、居ても立っても居られなくなり、神社から走り出た。
ファミレスの店内を隈なく見て回ったけど、黒髪無表情の少女の姿はどこにもなかった。
落胆する心を懸命になだめながら席に戻り、カレーピラフと若鶏のグリルを注文する。主食が被るのでライスを頼まなかった以外は、昨日僕たちが注文したのと同じラインナップ。早い話が、願掛け。効果があるかは神のみぞ知るといったところだ。
先にカレーピラフが来て、さっそくスプーンをつける。若鶏のグリルが来たころには、器の中身は半分以下にまで減っていた。あちこち駆けずり回って空腹だったから、食べ進めるペースが早かったのもあるけど、それ以上に容量が少ないのだ。
こんな少量で満足できる体なのか、赤星蒼は。たしかに小柄で痩せ型ではあったけど、たったこれだけで……。
そんな体なのに男から殴られたら、そりゃあひとたまりもないよ。泣くのも無理はないよ。
……ほんと、今ごろどうしているんだ、あいつは。
ひどくさびしい気持ちになった。心の底から同情した。
浮かんでくるのは悪い想像ばかりで、逃げるように食べることに集中する。平らげるまではあっという間だった。
一時くらいまで待ってみようかともちらっと考えたけど、悠長な真似をしていられる心境ではない。会計をすませ次第店を出た。
蒼とともに過ごした時間は、振り返ってみればとても短い。
いっしょに足を運んだ場所だって、片手で数えられるほどだ。
これが趣味とか、ここによく行っているなど、個人情報はめったに明かさない人だから、情報をもとに行き先を判断するのも難しい。
だから俺は、まずは二人で過去に行った場所をしらみつぶしに当たってみた。
神社もだめ、ファミレスもだめとなると、もう一か所しか残っていない。
そう、スーパーマーケットS。
二度目に彼女に会ったときだって、駄目元で足を運んだら再会を果たせた。また奇跡が起こるかと期待したのだけど、
「人を捜しているんですけど、見かけませんでしたか。短い黒髪で、小柄で、暗い感じの無表情が常に顔に貼りついた――」
何人かの従業員を掴まえて訊いてみたものの、全員が見かけなかったと答え、肩透かしを食らう形となった。
「どこ行ったんだよ、あいつ……」
ため息を連発しながらスーパーマーケットSを出て、絶望的な気持ちで顔を上げると、アパートが目に入った。母さんが住んでいる部屋がある四階建てのアパート。
母さんは蒼と直接関係はない。ただ、俺のもう一つの重要な目的である金と食料の問題解決の鍵を握っている。
今は昼下がり。時間帯を替えれば、蒼が不在だった場所に彼女がいる可能性もあるだろう。だから、夜になるまで待つ。でも、ただ待つだけではさびしさに殺されてしまいかねないから、母さんのところで時間をつぶす。悪くない案だ。
母さんには一度激しく拒絶されている。そんな事実などなかったかのように、いけしゃあしゃあとまた訪問などしたら、いったいどんなことになるのか。居留守を使われるならまだいいけど、危害を加えられるなんてことになったら。
「――いや」
大丈夫。母さんは厳しい人だけど、きっとそんな馬鹿げた真似はしない。
行こう、行くんだ、母さんのもとへ。
インターフォンを鳴らすまでも緊張したけど、鳴らしてから応答があるまでにも負けないくらいに緊張した。
「母さん、俺。俺だよ、晴太」
声は少し震えていたと思う。
同じ緊張でも、インターフォンのマイクに向かって発声してから、返事を待つあいだが一番緊張した。緊張するのを通り越して怖いくらいだった。
「馬鹿なことやっているのは分かっている。俺は馬鹿じゃないからちゃんと自覚している。でも、あの別れ方は、さすがに悔いが残る気がして。だから、もう一度話をしない? 話し合おうよ、母さん。俺なりに真剣に気持ちを伝えるから。……だめかな?」
「だめなわけないじゃない」
思ったよりも返答が早かった。なんとなく、たっぷり焦らすことで、俺に罰として少しでもダメージを与えようとしてくると思っていたんだけど、そんなことはなかった。厳しさを保とうという意識を持ちつつも、俺の懇願を聞いて少し気を緩めたし、まだもう少し緩めたがっているような、そんな声音だ。
「あたしは晴太の母親よ? たしかに昨日はかなり厳しいことを言ったけど、別に勘当したとかじゃないから。親子の絆ってそういうものよ。血の繋がりってそういうもの。神さまの前で誓った永遠の愛を破棄した元夫とは訳が違うの」
「……母さん」
「ただし、中途半端な心構えでいるのが見え透いたら、話し合いの途中だとしても即刻追い出すつもりでいるから。それでもいいなら、入れば」
「ありがとう」
三十秒ほど間があって、母さんが施錠を解いて玄関ドアを自ら開けた。目を合わせるのが照れくさい。いや、恐ろしいと訂正するべきか。
部屋に足を踏み入れる。アロマの香り、片づいた室内、並べられた陶製の置物。ユニコーンはきれいに真っ二つになっていたから、接着剤かなにかで貼りつけて修復してあるのかと思ったら、消えていた。
罪悪感はない。それなのに、割れたユニコーンの有り様が脳裏から離れない。
「お待たせ」
母さんがトレイを手に現れた。飲み物は例によって紅茶で、食べ物はバタークッキー。トレイをテーブルに置いて息子の対面に座る。
「飲んで食べてもらってももちろんかまわないけど、会話を疎かにしてほしくないものね。晴太はそのために来たんだから」
母さんは悠然たる手つきで紅茶に砂糖とミルクを投入し、手早くかき混ぜる。俺は視線がこちらに注がれたタイミングで相槌を打つ。
ほぼノープランでここまで来た。だから、紅茶とクッキーを待っているあいだに考えた。しかし、問題は人生を左右するほど重要なものなのに、ゼロから構築しなければいけないのに、たった五分なんてあまりにも短すぎた。
長考は許されない雰囲気だ。母さんが着席してすぐに話し出さなかった時点で、すでに不信感を抱かれている気もする。
言うしかない。
母さんがまた俺の顔を正視した。唾を飲み込んでから俺は言った。
「ごめん。やっぱり仕送り、続けてくれない?」
母さんの表情が凍りついた。かき混ぜ終わったばかりのスプーンがローテーブルの足元に落ちた。思わず怯んでしまったけど、即座に気持ちを立て直す。
「金が入ってこない生活をこの三か月送ってみて、身をもって思い知ったんだ。金がないのはマジできついなって。金がないっていうだけで、がんばりたいのにがんばれなくなる。腹が減っては戦はできぬっていうことわざがあるけど、まさにそのとおりだよ。金がないと動くに動けないんだ。この三か月、俺は活動らしい活動ができなかった。金がないせいで。金がないから、近い将来の生活が不安で、不安で仕方なくて、なにも手につかないんだよ。だから母さん、金をちょうだい。騙されたと思って、もう一回、もう一回だけチャンスをくれないかな。今度こそ、今度こそ俺は――」
「帰れ!」
いきなり紅茶のカップが吹き飛んだかと思うと、母さんが叫んだ。さらにはテーブルを両手で叩いて憤然と立ち上がり、クッキーの皿を取り上げ、
「帰れ! 帰れ! 帰れ!」
クッキーを一枚ずつ掴んでは俺にぶつけはじめた。
憤怒の形相だ。同時に、泣き出しそうでもある。怒りと悲しみ、相反する二つの感情は、矛盾することなく母さんの顔面上に表現されている。
過食可能な正円の弾は、小さなテーブルの縦一脚分の隔たりにもかかわらず、あらぬ方向に逸れるものがほとんどだ。しかし、たまに奇跡のように正確無比に眉間にクリーンヒットし、そのたびに俺はうめく。
「穀潰し! 親不孝! 駄目息子! 生産性皆無のクソニート! 帰れ! 帰れっ……!」
俺は唖然と母さんを見つめる。クッキーの弾が尽きる。皿が放り投げられる。ガラス窓にぶち当たったらしく、乾いた破砕音。胸倉を掴まれ、無理やり立たされる。有無を言わさない強い力だ。暴力はやめてという意味のことを、しどろもどろでもいいから言おうとすると、それをさせまいとするようにいっそう声を張り上げて、
「もううんざりなのよ! あんたの世話なんて金輪際ごめんだわ! こっちは夫と別れて、仕事も変わって、お金もなくてなにもかも大変なのに、察しろよ。二十歳越えた立派な大人だろうが。どこまであたしを苦しめれば――ああ、もう! むかつく! むかつくぅううう……!」
力任せに突き飛ばされた。踏ん張ろうとしたものの、足を滑らせてあえなく尻もちをつく。その拍子に腕がキャビネットに当たり、陳列されていた置物の何体かが落下した。
壊れたものはない。しかし母さんは、お気に入りの一体が目の前で悪意から破壊されたみたいに、かっと目を見開いた。さらには、獣のような咆哮しながら掴みかかってきた。
その迫力に俺は呑まれた。逃げるか、立ち向かうか。瞬時には対応を決められず、気がついたときには馬乗りになるのを許していた。
「死ね! 死ね! 死ね!」
罵言を吐き散らしながら殴りつけてくる。そんな細腕からどうやったらそんな力が出るんだ、というような威力。顔面を中心に、首、胸にも攻撃は命中する。俺も両腕を使って必死にガードしているのだけど、それをかいくぐって当ててくるし、ガードしていてもしっかりと痛い。
俺は目の前の脅威に懸命に対処しながらも、学生時代に受けたいじめを思い出していた。
さすがにここまで激しくはなかったけど、暴力もたくさん受けた。一方的だった。反撃することで攻撃がいっそう苛烈になるのが怖くて、反抗らしい反抗ができなかった。
でも、心では殴り返したくてたまらなかった。俺に力があったら、いっさいのためらいなくそうしていただろう。
でも、できなかった。中肉中背、体力も腕力もない。持ち合わせていないのは、負けを承知で反撃に転じる向こう見ずな勇気もそうだ。だから、やられっぱなし。小中高、そのすべてで俺は殴られる一方だった。負け戦ばかり戦ってきた。
それから数年が経って、二十四歳になった俺は殴られながら、こう思う。
もう、こんな目に遭うのはそろそろよくないか? いくら相手が母さんとはいえ、容赦とか遠慮とかはしなくてもいいんじゃないか?