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二十四円と赤ん坊

 寝覚めはよくない。最悪ではないけど、大別するなら悪いほうに属しているのはたしかだ。頭がぼーっとしていて、ほのかに頭痛がするようで、まぶたが重い。寝覚めが悪い人間は一般的に言ってこんな感じですよ、という様態だったんじゃないかと思う。

 意識を取り戻した瞬間からずっと、赤ん坊の泣き声が聞こえる。

 この世界に生れ落ちて一年も満たないに違いない彼、あるいは彼女も、きっと俺のようにくそみたいな目覚めで、不愉快でたまらなくて、誰かになんとかしてほしくて泣いているんだろう。

 このアパートに暮らしはじめて二年と少し。部屋の中にいるときに赤ん坊の泣き声を聞いたのはこれがはじめてだけど、幻聴なんかじゃなくて、実在する赤ん坊が奏でている泣き声。きっとそうだ。

 そんなことを考えながらベッドの上で上体を起こすと、黒い楕円形の模様が無数に描かれた白地の壁紙が視界に飛び込んできた。こんな柄だったっけ、と思ってじっと見つめると、楕円はいっせいに四方八方に素早く散り、壁と壁や、壁と床や、壁と天井の隙間に吸い込まれるようにして消えた。黒が去ったあとには、なんの変哲もない白い壁が残った。

 黒い楕円だと思っていたのは、大量のゴキブリだったのだ。

「これは幻覚ではありません、これは幻覚ではありません……」

 つぶやきながら、部屋の隅に置いてあったレジ袋を探る。持ってみた手応えはことごとく軽い。入っていたのは何個かのカップ麺の容器で、どれもすべて中身は空。

 食料は昨日で食い尽くしてしまったのだと、このときはじめて気がついた。

 目が、意識が、完全に冴えた。

 まさか、と思って財布の中身を確認する。

 紙幣、ゼロ枚。硬貨、合計二十四円。

 ……以上。

 唖然としてしまった。「嘘だろ……?」とかなんとか、つぶやく気力さえもない。ほどなく胸に浮かび上がってきたのは、「まさか」の三文字。

 改めて、財布の中身を確認する。結果は変わらず、二十四円。

 冷たいような熱いような嫌な汗が、全身の毛穴という毛穴からいっせいに噴出した。

「まさか、まさか、まさか……」

 部屋中を探し回った。箪笥の引き出しの中、脱ぎ散らかした衣服の内側やポケットの中、家具と床の隙間。俺が必死こいて動いているあいだも、赤ん坊の泣き声は薄れることなく続いている。

 時計の文字盤なんて一瞥さえしなかったし、体感何秒なのかさえも曖昧だけど、軽く半時間は捜索活動に従事していたんじゃないかと思う。

 なかった。俺が探しているもの、すなわち金は、俺の部屋のどこにもなかった。三十分強の労働の結果得たものは、そんな酷薄な現実といくらかの疲労だった。

 なくしてしまったんじゃない。そもそも、もしなにかあったときのために、財布とは違う場所に金を置いておくなんていう習慣、俺は持っていない。

 全財産、二十四円。

「くそったれ……!」

 怒鳴り声をとともに壁を殴りつける。拳大の隕石が乾いた地面にめり込むとしたらこんな音だろうな、というような鈍い音が立ち、拳の形の穴が穿たれた。

 肩で息をしながら、思う。

 気づいていた。昨日の時点で俺は気づいていたんだ。食料が尽きたことも、有り金が二十四円なことも。

 でも、見て見ぬふりをした。暗澹たる今後について考えたくなかったから、そうした。それにもかかわらず考えそうになったから、眠ることで現実逃避した。

 懸案を抱えていると安眠が遠のくものだけど、案に相違して眠れた。すんなりではなかったし安眠ではなかったけど、とにかく眠れた。でも永遠に眠ることは叶わなくて、阿呆のような目覚めとともに現実を突きつけられた。

 食料がない。金もない。これでは生きてはいけない。飯を食わなきゃ数日で死ぬし、飢え死にまで十日と見積もっても、その十日目が来るよりも先に今月分の家賃の支払い期限がやって来るのだから。

 金。食料。これらをどうにかして調達しないと。

 死にたくない。生きていたい。俺は自殺なんて本気で検討したこともない男なんだ。

 金、食料と単語を二つ並べてみて、真っ先に浮かんだのは、母さんの歳のわりに美しく若々しい顔だったけど――。

 外ではまだ赤ん坊が泣き続けている。集中力を乱されて、思わず舌打ちをした。

 誰か、どうにかしろよ。誰でもいいから、赤ん坊のそばにいる誰かが。それとも、まさか、俺と赤ん坊以外の人間はこの地球上から死滅してしまったとでもいうのか?

 不意に、腐臭が鼻先をかすめた。

 また幻覚かと緊張したけど、部屋の隅に転がっている可燃ごみの袋が源泉だった。

 俺はニートにしては珍しく、昼夜逆転の生活は送っていないのだけど、だからといって早起きできているわけじゃない。うちの地区はごみ収集車が来るのがラジオ体操並みに早くて、今日は可燃ごみの日だと気づいたときには収集を終えている、なんてことがざらにあるから、ごみはたまりがちだ。料理はしないから生ごみはほぼ出ないんだけど、塵も積もれば山となり、本日をもって気に障るレベルに達したらしい。

「買い出しに行くか」

 今日食う飯にも欠いているのに、家賃を払えなくなって追い出されるかもしれないのに、呑気にごみ出しなんてやっている場合じゃないだろう。ろくに時間稼ぎにもならないのに、浅ましい現実逃避を俺はやっているな。もっと他にやることがあるんじゃないのか?

 胸の辺境でそう考えながら、カップ麺の空き容器を可燃ごみの袋に突っ込む。プラスティック製だけど、外から見えなければ違反にはならないから、他の可燃ごみの中に埋め込んで外から見えないようにしてしまえば、本来の収集日以外の日でも処分できる。経験から得た悪知恵だ。

 ぱんぱんに膨らんだ袋を両手に提げて部屋を出る。歩けば歩くほど泣き声が近くなる。

 まさか、まさか、まさか――。

 そのまさかだった。ごみ集積所にダンボール箱がぽつんと置かれていて、その中に赤ん坊がおさまっている。素っ裸なので男だと一目で分かった。

 赤ん坊は全身を真っ赤に火照らせ、全身全霊で泣いている。なにかを求めている。

 これは、俺だ――。

 眺めるともなく眺めているうちに、脈絡なくそんな思いが芽生えた。とたんに涙が込み上げてきた。

 これは別の世界線の俺だ。不幸な形で生まれて、邪魔になって捨てられたのだ。もしくは、将来この世界線の俺、つまり今の俺みたいになる赤ん坊だと、親がなんらかの手段で知って、そんな厄介者のお荷物を抱え込むのはごめんだと、遺棄した。それがなんの弾みか、あるいはあちらの世界では科学技術が高度に発達していて、別の世界線に生命を転送する装置が実用化されているのか――とにかくなんらかの理由があって、こちらの世界に移動した。きっとそうだ。

 触ろう、と思った。祖父母が孫の頭を撫でるように、幼子が両親に駆け寄って抱きつくように、抑えきれない親愛の念を、俺なりのやり方で表現するんだ。

 しかし、伸ばした手はもう一人の自分の体ではなく、ダンボールの蓋に触れ、そっと閉じた。

 実際に触れてしまったら、幻覚ではないことが証明されてしまう、かもしれないから。

 密閉したことで泣き声のボリュームはかなり抑制された。通気性は格段に低下したけど、空気の通り道自体はあるから窒息死することはないだろう。だから、俺は犯罪者なんかじゃない。むしろ騒音を解消してやったんだから、みんなから感謝されてもいい。

 部屋に戻ったものの、なにもやることがない。すきっ腹を抱えて暇を持て余す時間は、惨めだった。さびしかった。これでは昨夜のくり返しだ。部屋からはもはや泣き声は聞こえない。騒音はさびしさを和らげるのに一役買ってくれていたのだと気がつく。

 赤ん坊は死んだのかもしれない、という思いが忽然と生まれた。

 たしかに通気口はあるけど、赤ん坊は呼吸する力が弱い。体力もない。蓋を閉め、酸素の供給量が制限されたのがジャブのように効いて、赤ん坊は死んでしまったのでは?

 恐怖はない。殺したという実感が湧かないからだろう。

 ただ、この問題について考えざるを得ない。向き合わざるを得ない。

 仮に死んだとしたら俺は殺人鬼か? 違う世界線、しかも自分自身を殺すという罪が、この時代のこの国に刑法に記載されているのか? 自分が生まれる前にタイムスリップして自分の親を殺したら矛盾が生じてさてどうなるか、という有名な問題があるけど、自分自身を殺すことでなにか不都合は生じないだろうか? 存在すること自体に矛盾は生じないから、消滅するなどの深刻な事態は発生しないのだろうけど、それとは別種のなんらかの不都合が起きそうな気がする。というか、あの赤ん坊は本当に死んだのか? まだ死んでいない可能性も考えて、なるべく早く蓋を開けてきたほうがよくないか?

「――くそっ!」

 気になる。どうしても、気になってしまう。もう一人の自分かもしれない赤ん坊のことが。

 結果次第で俺にとって恐ろしい事実を告げられるかもしれない。今の俺の精神状態であればどうなってしまうか分からない。でも、背に腹は代えられない。破れかぶれな気持ちで再び集積場へ。

 ダンボール箱は同じ場所にあった。恐る恐る蓋を開けると――消えていた。

 大きく息を吐いた。演技でも誇張でもない吐息。

 俺が部屋に戻っていた時間は半時間にも満たない。そのわずかな時間に、誰が、どこに、なんの目的であの赤ん坊を移動させたんだ? 赤ん坊は、もしかすると幻覚だったんじゃないか?

 思い浮かぶ可能性はことごとくおぞましい。一方で、ささやかな達成感がある。のみならず、たしかな高揚感を覚えてもいる。

 もう一人の自分を殺すことができた今の俺なら、どこにだって行ける。大好きな赤星蒼のもとにだって。生きるために必要となるものの提供者である母さんのもとにだって。

「――よしっ」

 決意を声に出して、俺は走り出した。

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