どうしよう
「あのね、晴太。最後のチャンスはもう与えたの。覚えているよね。一回仕送りを打ち切って、再開したでしょう。あれが晴太にあげた最後のチャンス。事実、ちゃんとその言葉を使って警告したよね。これが最後のチャンスよ、だから悔いのないようにやりなさいって。言った張本人であるあたしが覚えているんだから、言われたあなたが覚えていないわけがないよね」
言った。ちゃんと覚えている。母さんはたしかにそう言った。
覚えているのは表情もそうだ。今みたいな、とても、とても険しい表情。離婚した夫相手にも一度も見せたことがないんじゃないかというような、険しい表情だった。
「昨日今日と部屋に招き入れて紅茶やお菓子をご馳走したのは、晴太が一人前の社会人になるためにがんばっているから、その労を労う意味からよ。久しぶりの一家団らんを楽しむためじゃない、なんて言うと語弊があるけど、メインの目的は晴太への労い。前提として、今現在の晴太が目標に努力しているっていう認識があった。当然そうしているはずだって、あたしは信じていた。インターフォンを鳴らさなかったこととか、嫌な予感を抱かせるような言動はちらほら見られたけど、晴太はやるときはやる子だから、きっとあたしが望む晴太でいてくれるって信じた。今どうしている、就職活動はちゃんとやっているのって、口うるさく尋ねるのはあえて自制した。今になって思えば、とんだ判断ミスだったわね。あのときにあなたを厳しく追及していたら、こんな馬鹿げた体験はしなくてもすんだ」
違うんだ、母さん――。
そう声を上げて、おぞましい言葉の羅列をとにもかくにも堰き止めたかったけど、声が出ない。すべて母さんの言うとおりだったからだ。反論の余地などどこにもない。仮に俺がなにか言ったとしても、醜悪な弁明・言い訳・言い逃れでしかない。
「晴太、今すぐにこの部屋から去りなさい。母さんに甘えるばかりで、くそみたいな現状を変える努力をいっさいしないあなたに、これ以上この部屋に居座る権利はない。ただちに家に帰って、反省して、心を入れ替えて一からがんばりなさい。あたしから援助はできないけど、それはあなたにとってきついことだってあたしにも分かるけど、それは今までいっさい努力してこなかった罰。因果応報だと思って諦めて、自分一人の力でどうにかして。難しいだろうけど、できなくはないだろうし。分かった?」
「違う。違うよ、母さん。俺はいっさい努力をしていないわけじゃ――」
「いいから、去れ!」
ローテーブルの天板に、ハンマーのように拳を振り下ろして鈍い音を響かせ、母さんは叫んだ。
俺は弾かれたように立ち上がり、玄関へ向かう。周りが見えていなかったせいで、並べられていた置物の一体――大きなピンク色のユニコーンに体が触れ、落下させてしまった。面食らってしまうくらいにやかましく響いた破砕音に、俺はフリーズする。
「こら! なんてことしてくれたの……!」
母さんの怒声が薫香に満ちた空間にとどろく。ごめんなさい、と口の中で言って再び走り出す。
母さんのあの怒りの激しさ、明らかに、無心に失敗した腹いせに落としたと勘違いしている。
そんなつもりは毛頭ないのに。慌てていて周りが見えていなかったせいで落としてしまっただけなのに……。
手を伸ばせば玄関ドアのノブに触れられるという地点まで来て、振り返った。なんとなく母さんが追いかけてきているような気がして、恐怖を感じたからなのだけど、母さんは紅茶とクッキーが置かれたローテーブルの脇に突っ立ったままだった。彼女の足元にはユニコーンの置物が転がっていて、真っ二つに砕けて空洞をさらしている。そこからはみ出ているのは――。
俺はその映像に惹きつけられた。
できるならいつまでも見ていたかった。というよりも、今すぐに駆け寄って掴みとりたい。この手にそれ特有の感触を味わいたかった。
状況を忘れていた時間は三秒にも満たなかった。動きを止めたせいで、まだ未練があって、女々しくも改めて要求を投げかけようと目論んでいるのでは、と勘繰ったのだろう。母さんが柳眉の傾斜をいっそう急にして、こちらに向かってくるようなそぶりを見せたのだ。
俺はもう一度、やはり声には出さずに「ごめんなさい」と言い捨てて、脱兎のごとく部屋を飛び出した。
母さん。
母さんに険しい表情で厳しいことを言われてむちゃくちゃショックを受けたけど、帰宅したあとも職探しのことは真面目には考えなかった。精神的動揺のせいでまともに頭が働かなかったのもあるけど、仮にその影響が皆無だったとしても、真剣にはならなかったと思う。なぜって、俺の中ではすでに、働かないのは確定事項なのだから。
「……どうしよう」
ベッドの脇、敷物が敷かれていないフローリング張りの床に腰を下ろし、俺はひっきりなしにその五文字をつぶやいた。どうやって職を得よう、ではなく、母さんから金をもらえなかったから代わりにどこから調達しよう、という意味での「どうしよう」だ。
今、この手紙を読みながら、母さんは呆れ返っているに違いない。もしかすると、呆れるのを通り越して忌々しくなって、今回分の手紙として送られてきた数枚の紙きれをひとまとめにぐしゃぐしゃに丸めて捨てたくなっているんじゃないかな。
でも、我慢して読んでほしい。
たしかに、母さんからすればこの手紙の内容はむかつくだろうけど、極力ありのままを書くようにした貴重な参考資料なんだ。ちなみに「極力」というのは、ありのままを書こうとしても、俺の文章力・語彙・表現力の問題、あるいは記憶力の問題によって、ありのままの真実を書ききるだけの能力を発揮できない可能性があるという意味であって、全力を尽くすことに変わりはないから。
「……どうしよう」
懸命に脳を働かせたものの、いいアイディアどころか、それなりに見所がありそうなアイディアさえ思い浮かばない。
虚しい思案を続けているうちに、疲れてきた。体を動かさないにもかかわらずこうも疲労を感じるのだから、重症だ。
困難に立ち向かうことから逃げる習性の持ち主である俺という生き物は、懸案について考えるのを呆気なくやめた。そして、無為の中に全身を放り出した。
「……さびしい」
ひとり言が唇からこぼれた。率直で切実な思いだった。
とても夜明けまで耐え抜けそうにない。
強靭な精神力を発揮して絶望の夜をどうにか乗り越えたとして、次の夜は? さらにその次の夜は?
絶望だった。絶望でしかなかった。
今までだって孤独だったけど、一人きりだったけど、耐えられていた。金の問題を抱えながら、将来の見通しが立たないというくそったれな状況にもかかわらず、なんとか日々をやり過ごしていた。
それが今はどうだ。「さびしい」という死因でくたばってしまうかもしれない、なんていう情けない状況にまで追い詰められている。
「――赤星蒼」
彼女を知ってしまったせいだ。赤星蒼という日常における潤い、人生における光を知ってしまったことで、元のような生活では満足できなくなった。蒼が欠けた俺の人生なんて、もはや俺の人生じゃない。
蒼がそばにいないとだめなんだ。この死にさえ至りかねないさびしさを解消するための唯一の方法は、蒼に会いに行き、ともに過ごす時間を作ることしかないんだ。
道筋は見えた。あとは進むだけ。
しかし、俺は尻ごみをした。
なぜか?
夜は、昨日彼女がDV野郎に痛めつけられていた時間帯だ。その夜に彼女に会いに行って、また昨日みたいな光景を見せたら、ただでさえ弱っている俺の心は壊れてしまう。
その事態は避けたい。たしかに蒼は俺にとって大事な存在だけど、自分の命と比べるとさすがに分が悪い。
いや、そんなふうに論理的に考えたわけじゃなかった。
残酷な真実を目の当たりにするのが怖い。嫌だ。見たくない。行きたくない。だから蒼のもとには、赤星家には、行かない。
そう解釈したほうがずっとずっと俺らしくはないか?
行かなければいけない、くらいの強い危機感、強い欲求だったはずなのに、それに反する選択を最終結論としていた。
それからの時間はひたすらつらかった。なぜって、やることがなにもないのだから。死にたくなるようなさびしさをずっと向き合わなければならないのだから。本当に、本当に、耐えがたかった。
ようするに、どちらがましかの問題だ。恐ろしい光景を双眸に捉えるために赤星家へと赴くか、いずれ睡魔がやってくるまで我慢強く耐え忍ぶか。
選びがたい二者択一に迷っている時間は長かった。でも、これは当時の俺は気づかなかったんだけど、迷い続けて行動を起こさない時点で、後者を選んだのも同然。
どうせ苦しみを味わうのを避けられないのなら、動かないほうを選ぶ――実に佐々晴太らしい判断基準であり、結論じゃないか。
「無事でいてくれ……。生きていてくれ……」
そう声に出してつぶやくと、なんとなく自分の義務は果たしたような気分になって、緊張の糸が緩んで、嘘みたいに呆気なく眠りに落ちたのだった。