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黒い蝿

 母さん。

 いきなりだけど、今日は最悪なことがあったから聞いてほしい。二十四にもなって情けないけど、嫌なことがあってむしゃくしゃしているとき、愚痴れる相手は母さんしかいないから。

 蠅。

 コーラの中に蠅が入っていたんだよ。

 ファストフード店Mのコーラは、紙製のカップに透明なプラスティックのストローと蓋、という構成になっている。

 他人はどうだか知らないけど、飲み物の残量があとわずかにでもならないかぎり、俺は透明な蓋越しにカップの中は確認しない。したとしても、異物が小さかったり、飲み物と同系統の色だったりした場合、気づかないことだって普通にある。

 じゃあ、なんで蠅に気がついたのかって?

 言葉遊びじゃないけど、虫の知らせってやつだったんだろうな。食事を開始して序盤も序盤、コーラを三口飲んだところで何気なく、本当に何気なく蓋を開けたんだよ。透明な蓋越しに見たカップの中身に違和感を覚えたから確認しようと思ったんじゃなくて、なんとなくそうしたほうがいい気がして。

 褐色の液体のほぼ中央、深々と浸かった真っ白なストローにぴたりとくっつく形で、黒いごみが浮かんでいるのが目にとまった。瞬間的に異物だって認識したね。六・七ミリくらいあったし、背景が白だったから目立っていたんだよ。

 ただ、その時点で正体は分からなかったから、指先ですくい上げた。コンタクトレンズを目に入れるみたいに顔に近づけて、うげってなった。ネタバレしていたとおり、蠅だったんだよ。コバエと呼ぶのが適当なサイズの、全身が真っ黒な蠅。

 怒りよりも不快感が先に来たね。だって、たったの三口とはいえ、すでに蠅入りコーラを飲んじゃっているんだから。

 指の腹に貼りついた黒い虫けらを見つめているうちに、怒りがむらむらと湧いてきた。

 こんなに憤っている人間が近くにいるのに、周りの客が無関心に食ったりしゃべったりしているのもむかついた。時刻は十八時過ぎ。店内の座席はほぼ埋まっている状態だったから、うるさい。しかも、本日分の仕事なり学業なりを終えた解放感からか、揃いも揃ってやたら愉快そうとくる。

 唯一の被害者である俺は完全に置いてきぼりを食らっていた。疎外感に煽られて、いらいら感は秒刻みに高まっていく。

 短いスカートからむっちりとした太ももを剥き出しにして、スマホをいじりながらフライドポテトをつまんでいる女子高生も。

 ハンバーガーとポテトとドリンクだけに飽き足らず、ナゲットだのパイだの、馬鹿みたいに大量に注文してはしゃいでいる親子連れも。

 くちゃくちゃと不快な音を立ててハンバーガーを食べる、雀の涙の年金と切り崩した貯金で暮らしていますって感じの、七十歳くらいの白髪のじじいも。

 すべてが腹立たしかった。俺をこんなにもいら立たせている諸悪の根源は、ザ・小市民って感じのそいつら客どもであって、蠅はそいつらの悪意が象徴的に具現化されたものなんじゃないか、なんて考えたね。

 でも、ここで怒りをそいつらに向けたら、俺はありふれた通り魔に堕してしまう。ガチの犯罪だし、マジでだせぇ。

 だから健全なやり方を選ぶことにした。蠅をわざわざコーラに戻し、カップを手に注文カウンターに行って、

「コーラに虫が入っていたんですけど。黒くてちっちゃい蠅みたいなのが」

 そう不機嫌丸出しで言って、手にしているものを差し出したんだ。

 言った瞬間、店内というか、俺の周りだけしぃんと静かになったように感じられて、なんとも嫌な気持ちになったね。明らかな損害をこうむったから抗議をしに来ただけなのに、なんで俺が突拍子もない真似をしたみたいな目で見られなきゃいけないんだ?

 従業員はカップを受け取って中を覗き込んだ。さらには、ストローで液体をかき混ぜて、他にまぎれ込んでいるものがないかを入念にチェックした。そして、ほんの少し眉をひそめた顔を俺に向けて、こんな馬鹿げた一言を吐きやがったんだ。

「中に虫なんて入っていませんが」

「……はあ?」

 声が裏返った。小休止していたいらいらが貧乏ゆすりをはじめた。

 明白な証拠を見せてやったのに、どうしてこうも堂々としらを切れるんだ、この女は。

「入っていない? んなわけあるかよ。ここに浮かんでるだろうが」

 不快感を隠さずに吐き散らしながらカップを覗き込んだら、どうなっていたと思う?

 いないんだよ。蠅の死骸が消えているんだ。

 指ですくったときに死んでいるのはたしかめたから、抗議しているあいだにどこかへ飛んでいったとかじゃない。もちろん、死骸をちゃんとコーラに戻したと俺が勘違いしているだけ、ということもない。

 蠅はどこへ消えた?

 どこの、誰が、どんなトリックを使って、俺の抗議に水を差したんだ?

 その後の展開はだいたい予想できると思うけど、押し問答だよ。俺は「いつの間にか消えてしまったが、たしかに蠅が入っていた、謝罪しろ」で、向こうは「過失が認められないので謝罪は致しかねます」――一言一句正確に文言を記憶しているわけじゃないけど、とにかく互いにそういう意味の言葉を吐くばかりで、一向に埒が明かない。

 不愉快な時間を終わらせたくて、「責任者を呼んでこい」っていう定番のセリフを吐いたけど、従業員は呼ぼうというそぶりすら見せなかったね。俺を頭のおかしいカスハラ野郎だと決めつけて、まともに相手しようとしないんだよ。

 腹が立ったけど、仮にクレーム対応係が別の人間に変わったところで、そいつもマニュアルどおりの対応に終始するだけだろうから、要求が通る可能性は絶望的だって気がついた。その瞬間、蠅が入っていた事実を認めようとしない人間と同じ空気を吸うのが忌々しくなって、

「笑顔を売り物にしているだけあって、ほんと脳みそ空っぽだよな、この店の従業員どもは。せいぜい最後の審判の日まで、貧乏人相手にクソまずいハンバーガーを売りつけてはした金を稼いでいろ。――もう二度と来ないからな」

 そんな捨てゼリフ感丸出しの捨てゼリフを吐いて、肩をそびやかして憤然と店を出たんだ。


 母さん。

 冒頭では、いかにも「今日あった特筆するべき出来事はたった一つですよ」みたいな書き方をしたけど、母さんがそう受け取ったのならそれは早合点だ。蠅混入以上にくそったれな体験はしていないけど、それに肉薄する印象深い体験をしているんだよ。ファストフード店Mを出たあとで、なんだけど。

 書き方のまずさ、広い意味での文章力の拙さを申し訳なく思いつつも、前置きはこのくらいにして本題に入ろうと思う。実質二本立てということで、いつもよりも長い手紙になってしまうけど、母さんの負担にはなっていないかな?

 なっていたのならごめんだけど、だとしても今日は長文を書かせてもらうよ。なぜかというと、俺が書きたい気分だから。

 生意気だと思ったかもしれないけどね、母さん、俺はもう立派な大人だ。それに、読む側っていうのは立場が弱い。読むか、読まないか。そのどちらかしか選べなくて、読んでいる途中で書いている内容を変更させる、なんて真似は逆立ちをしてもできないんだから。

 俺はもちろん、母さんが続きを読んでくれるって信じているよ。


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