落語声劇「盃の殿様」
落語声劇「盃の殿様」
台本化:霧夜シオン@吟醸亭喃咄
所要時間:約40分
必要演者数:4名
(0:0:4)
※当台本は落語を声劇台本として書き起こしたものです。
よって性別は全て不問とさせていただきます。
(創作落語や合作などの落語声劇台本はその限りではありません。)
※当台本は元となった落語を声劇として成立させるために大筋は元の作品
に沿っていますが、セリフの追加及び改変が随所にあります。
それでも良い方は演じてみていただければ幸いです。
●登場人物
殿様:西国のある大名家の殿様。太平の世の大名らしく上げ膳据え膳、
剣術の稽古だ馬術だ弓の稽古だと言われ、やりたく無いがために
病気だとサボって部屋に閉じこもっていたら本当に鬱病になってし
まう。
植村:植村弥十郎。
大名家の家老。ご多分に漏れず頭が固くて融通が利かない。
花扇:吉原の扇屋お抱えの花魁。花魁道中で彼女を見かけた事で、殿様は
心をわしづかみにされてしまう。
早見:早見東作。三百里を十日で往復する足軽。
殿様から七合入りの盃を預かって、西国と江戸を往復する羽目に。
大名:東作が江戸から西国へ戻る途中に行きあった大名行列の主。
自身の行列を横切られた無礼を咎めて斬首しようとするが、
わけを聞いて感心し、自分もあやかりたいと盃を借りて酒を一気に
呑み干す粋な酔狂好き。
珍斎:殿様お気に入りの茶坊主。
非番の時には密かに吉原へ遊女を買いに行っている模様。
医者:殿様の主治医。(セリフは1つのみです)
語り:雰囲気を大事に。
●配役例
殿様・大名:
植村・枕:
早見・珍斎・医者:
花扇・語り:
※枕は誰かが適宜兼ねてください。
枕:昔のお大名などというものは大変な贅沢をなさるもので、
自分の言い分は何でも通したといいます。
家来の方も奉っちゃったりなんかするものですから、余計わがままな
人間が出来あがる。
当時のお大名の決まり事、幕府が定めた武家諸法度というものには、
文武両道に励む事、酒におぼれ遊び惚けたらダメ、質素倹約に務めろ
、といったものがあります。こういうのがあるから、いくら剣術が嫌
いだ、馬術はしたくないなどと思っていてもやらないわけにはいかな
いのですが、そこは病気といううまい逃げ口上がある。
何でも嫌なものは病気だ病気だと片付けてしまう。しかし、自分でそ
う言った手前、外に出歩くわけにはいかない。部屋にこもって病人ら
しい顔をして下を向いてるってえと本当に自分が病気だと思うように
なってしまう。病は気からと申しますが、誠に真理ですな。
人と会うのも嫌、口きくのも嫌、居間に閉じこもって出て来ない、
こうなるとますます扱いにくくなるもので。
珍斎:殿、ご機嫌はいかがにござりまするか?
そのように一間に閉じこもっておいで遊ばせば、かえって体にお毒
でございます。
ちとお庭内でも歩かれてはいかがなものにございましょうや?
殿様:…珍斎か。
そちは予の病を案じてくれおるが、何か気が結ぼれて面白うない。
珍斎:しからばこれをご覧遊ばしては?
東錦絵「全盛花競六花撰」という、その頃、豊国と申す者が
描きました、錦絵にござります。
殿様:【つぶやく】
やれやれ、また珍斎めが予の気を引こうとして煩わしい事じゃ…。
しかし、見ぬわけにもいかぬ…。
…。
!これは美しいものであるな。目の覚めるような美人じゃ。
東錦絵、とか申したな?
珍斎:御意にござります。
殿様:この描かれておる者共は何をいたす者じゃ?
珍斎:新吉原町にて務めをいたす、傾城にござります。
殿様:傾城、遊女…これは情けをひさぐ者と申すが左様か?
珍斎:御意にござります。
殿様:ふーむ…いずれも美しゅう描いておるが、これは世に申す絵空事、
かような者がまったくおるわけではあるまい。
珍斎:さにあらず、絵空事ではござりませぬ。
手前なぞも非番の際には、折を見て吉原へ参り……ゴホン。
いえ、決して遊女を求めるのではござりませぬ。
ただ目の保養の為に見に参るのであります。
買わずして見る事を素見、ないしはぞめき、
俗に冷やかしに行くなどと申します。
物言う花も空しからず、またこの錦絵よりいちだん優れ、
美しいものにござります。
殿様:むう…しからば何か、この描かれた錦絵より美しい者が
おると、こう申すのか。
珍斎、植村弥十郎をこれへ呼んで参れ。
珍斎:ははっ。
【二拍】
植村:殿、火急のお召しにございますか?
殿様:おぉ、弥十郎か。
もそっと近う。
珍斎が予の病気を慰めようと、この錦絵を持参いたした。
聞けば吉原町には、この描いたるものより美しいものがおると、
こう申すのだが、こやつは時おり偽りを構える事があるゆえ、
そのほうをこうして呼んだ。
まこと、かような者がおるのか?
植村:これはまた、異なお訊ねを被りまするな。
若侍なぞがおりおり噂をいたし、何屋の誰は絵にも描けぬなどと
申しておりまするゆえ、珍斎が申し上げましたる事はあながち、
偽りではござりますまい。
殿様:ふーむ…さようか。
しからばかような者がおると申すのじゃな。
ならば予は病気保養の為、今宵その傾城を求めに参る。
植村:これはまた、もってのほかのことで。
彼処の場は悪所と申し、身分ある方が足を踏み入れるべき場所に
ござりませぬ。
この上はなにとぞ、思いとどまりを願わしゅう存じまする。
殿様:…しからば、傾城を求めに参ってはならぬと申すか。
ならば求めはせぬ。ただ見に参る。
冷やかしに参る。
それならばどうじゃ?
植村:たとえご見物たりとも、悪しき場所には君子は立ち寄らず、
瓜田に履を納れず、李下に冠を正さずの例えもあり、この儀は固く
お止めを願わしゅう存じます。
殿様:しからばどうあってもならんと申すのか?
…ならんと申すのか!?
……。
…よい。
そちに用は無い、下がれ。
珍斎、かようなものは目障りじゃ。
はよう片づけて次の間へ下がれ。
珍斎:は、ははぁっ。
殿様:あぁこれこれこれ。
その方たちに申しおく。
予は今日限り、薬は飲まぬぞ。
病が篤くなろうとも薬は飲まぬゆえ、さよう心得よ。
うっ…つむりが痛い…。
…胸が苦しい…。
…気分が悪い…。
植村:と、殿!
お気を確かに!
珍斎:殿、との、お薬を…!
殿様:うーん…うーん…く、くすりは、飲まぬ…。
語り:などと唸りだしたもんですから、さあどうも弱ったものです。
こうなった日にはもう駄々っ子とさほど変わらぬ始末。
もう薬は飲まないなんてえばってるんですから、じゃあ勝手にしや
がれなんてわけにもいかず、重役達が集まってさてどうしたものか
と議論を重ねる。
そこに同席していた医者が所見を述べました。
医者:どうもこれは気鬱の病ではないか。
早く言うと、お腹の中に徳利があってそれに栓をしてあるようなも
ので、いくら薬を服用なされても効き目が無い。
胸郭が開くと申しまして、ご自分でああ面白い、愉快だと思し召し
て、その栓が取れた所に薬が入れば効き目がございます。
しかしこのままにしておけばじりじりとただ悪くなる一方で。
これはやはり吉原においでになって、ただ見るぐらいならば
差し障る事もございますまいが。
語り:なるほどもっとも、それならばと評議一決、
植村さんが殿様の元へ伺候します。
植村:殿、恐れながら申し上げまする。
殿様:誰も参ってはならん!
植村:ただいま重臣一同、評議を重ねましてーー
殿様:【↑の語尾に喰い気味に】
予はつむりが痛い。
気分が悪い、下がれ。
植村:吉原ご見物の儀は、ご病気保養のため差し支えあるまいと
一決いたしましてござりまする。
されどご気分悪しきとの事なれば、ご他出もいかがなものかと存じ
まするゆえ、またおっての事といたしましてーー
殿様:【↑の語尾に喰い気味に】
これこれこれこれこれ、待て待て。
しからば何か、見物に参るのは良いと申したのか?
さようか。
いや、あー、もうつむりは痛うない。
気分も良い。
しからばこれから吉原へ参る。
植村:しかし、お忍びではかえって目立つことにござりますれば、
本格的に参ってはいかがなものでござりましょう?
殿様:ふむ、わかった。
良きにはからえ。
植村:ははーっ。
では支度にかかりまするゆえ、殿はまず湯浴みを。
語り:そんなわけで急きょ吉原行きが決まった殿様、さっきまでの不機嫌
はどこへやら、いま泣いたカラスがもう笑うのたとえの通り、
うきうきしながら身支度にかかります。
湯を浴び、髪を取り上げて髭をあたりまして、すっかりおめかしを
済ませますと、そのうちに供ぞろえができます。
ご大身の身の本格的と言うのですから、
なんと総勢三百六十人という大人数でございます。
弓鉄砲槍薙刀、金紋先箱と仰々しく列を組んで厳かに市中を進み、
大門の外で駕籠を降りますと三十人ほどのご近習を召連れまして、
茶屋へ参ります。
二階へ通されまして席を定めますと、右のほうに御案内役というの
でお留守居が座る。
左側には迷惑そうな顔をして植村さんが控え、その後ろには珍斎、
さらにそこからまた少し隔てて若侍達が二重三重に取り巻いて、
殿様に対して無礼を働く者あらば、一刀のもとに斬って捨てようと
いうので眼を据えて控えている。
まったく物騒な女郎買いもあったものです。
植村:殿、日が暮れて参りましたな。
殿様:うむ、たしかそろそろではないか?
珍斎:はい、まもなく…
あ、お茶屋から三味線の弾き手が菅垣を鳴らし始めました。
殿、いよいよですぞ。
殿様:うむ。
…おぉ、参ったぞ。
植村:うーむ、これは…。
殿様:これが傾城であるか…なるほど…。
珍斎が申した通りであった。
描いたるものよりまた、一段と美しいものであるな。
これ、あれへ参る傾城はなんと申す。
珍斎:は、あれは玉屋山三の抱え、白鳥と申しまする。
殿様:おお、白鳥とは白い鳥であるか。
げに白鳥のごとく美しいものであるな。
その後へ参ったあの傾城はなんと申す?
珍斎:同じく玉屋山三抱え、雲井にござりまする。
殿様:おぉそうか。
その後に続いておるのは?
珍斎:いま参ったのは小紫、続くのが揚巻にござりまする。
殿様:うーん、いずれもみな、美しいのう。
その後に参ったのはなんじゃ?
語り:田舎の人を連れて見物に来ているようなものです。
あれは何じゃあれは何じゃとむやみに聞いている。
答える方も大変でございます。
殿様:うん?まだ参るようじゃの?
!!?
お、おぉ……!
植村:っこ、これは…!
珍斎:ああ、やって参りましたな。
当世第一、他に並ぶ者なしと謳われております、
扇屋右衛門の抱えで花扇と申しまする。
植村:ふうむ…良い女と申すものはどこか険があると言うが…。
珍斎:おおせのとおりながらこの花扇、
美人でございますが決して剣(険)もなければ匕首もない、
まこと平和な顔でして。
あの八文字を踏んで歩く姿さえ美しゅうございます。
殿様:【息を弾ませながら】
おお、向かいの茶屋の床几へ座って、煙草を飲み始めたぞ。
んん~~む…これはまたいちだんと美しいものであるのう。
花扇と申したな。…花に扇か。
うむうむ、さもあろう、げに美しいものじゃのう。
どうじゃ、弥十郎。
かの花扇をこれへ招いて、予の盃の相手をさせるがどうじゃ?
植村:されば殿、吉原の形式上、さような事は難しかろうと…。
殿様:ならんと申すのか…?
…。
…。
つむりが痛い…。
植村:【声を落として】
い、いかん、また始まった…!
盃の相手だけなら良かろう…。
しょ、承知つかまつりました。
殿様:【けろりとして】
うむ、はよういたせよ。
語り:すっかりこの手で味をしめている殿様、手に負えないったらありま
せん。どうもしょうがないってんですぐにこの事を茶屋を通じて
ご指名するわけであります。
扇屋はご大身のお大名と聞いて一も二もなく快諾。
花扇にもよく言い含めて、やがてご対面と相成ります。
といっても一人で入ってくるわけではなく、番頭、留袖、振袖と
新造が三人、対の禿と言って禿が二人、やり手が一人、あとは
若い衆を三人従えて入って着座、新造が銀の煙管に煙草を付けて
殿様に渡す。その一挙一動、殿様は目を皿にしてじいいっと見ている。
花扇も上客中の上客と分かっている。
殿様:おぉ…間近で見るとなお、美しい…。
花扇:ようこそいらっしゃいんした。
花扇でありんす。
殿様:う、うむ…うむ…!
花扇:【つぶやく】
どうかしてこなたのお方を今宵引き留めたい…。
けれどご家来衆が大勢いる中では、迂闊に口は開けんせん。
お侍は刀で殺すけど、わっちら遊女は目で殺すでありんす。
「気があれば、目は口ほどに、物を言う…。」
っ。
殿様:!!!!
【声を落として】
おぉぉぉ、っこ、これはなんじゃ!!?
花扇と目が合うたら、体が雷に打たれたようじゃ…!!
【若干ふにゃふにゃに】
っや、やじゅうろう…予は…花扇の元へ一泊したいが、
どうじゃ…?
植村:!っさ、さようなことは…
殿様:ならんと申すか…?
…。
…。
つむりが痛い…。
植村:【声を落としてつぶやく】
あぁあぁまたぁぁ…!!
むむむ…ひ、一晩くらいならよかろう…。
【声を落として殿へ】
っし、承知、つかまつりました…!
されど、ご本格にておいでになったのでございますから、
ケチな遊びはできませぬ。
どうぞ、立派にお遊びあそばせ。
殿様:【けろりとして】
うむうむ、しからば供の家臣一同にも傾城を求めつかわせ。
植村:っあ、ありがたき幸せにござります。
語り:てんでまぁ、供をしてきた三百六十人全員が扇屋のお客になりまし
た。
表には満員の札が掛かり、一晩たっぷり遊んでお帰りになったわけ
ですが、さあ面白い。初めてこんな愉快な思いをしたわけですから
、病気なんぞはもう半ば治ったようなもんです。
ところがどっこい、あとから楽しかった時の事を思い出すと
ぞくぞくしてくるもんです。
殿様も例にもれずそうなったわけでございますが、
さすがに昨夜の今夜でまた行きたいてなわけにはいかない。
ぐっと我慢いたしまして、中一日を置いてまた植村さんを呼び出し
ます。
殿様:これ、弥十郎。
植村:お召しにござりまするか、殿。
殿様:うむ。
そちのはからいで花扇が元へ一泊いたした。
病も幾分ようなったようであるぞ。
植村:ははっ、まことにありがたき幸せに存じ奉りまする。
殿様:うむ、それであの折の事だが、朝を迎えて帰らんとした時、
かの花扇がの、かように申したのだ。
植村:は…。
花扇:殿さん、お裏はいつでありんす…?
植村:これは…おのろけとは恐れ入りましてござります。
殿様:始めて参る客を初回、二度めに参る事を裏と言うそうじゃ。
初回に来た客が裏に来ぬと、客たる者として恥辱に相成ると、
こう申した。
予が先祖は武勇に優れ、戦場でかつて敵に後ろを見せた事は無い…
と聞く。
しかるに子孫たる予が傾城に後ろを見せては甚だ無念の至りじゃ。
武士の意地をもって、今宵も参るぞ。
植村:【声を落として】
えぇぇ…殿、それは屁理屈ーー
殿様:何か申したか?
植村:い、いえ、なにも…。
殿様:よし、支度をいたせ!
語り:そんなわけでまた遊びにやって参りました吉原扇屋。
遊郭の遊びと言うものは、初回はあんまり面白くない。
やはり馴染みになってからが本番というわけで、今回も花扇は十分
なもてなしをしたもんですから、殿様すっかり虜になってしまい、
とてももう一晩おいてから、なんて我慢が出来るわけがない。
もう矢も楯もたまらなくなっているわけでございます。
殿様:これ弥十郎、弥十郎、
弥十郎!
植村:お、お召しにございまするか?
【声を落として】
も、もしやと思うが…?
殿様:うむ、その方のはからいで昨夜も花扇のもとに参り、病の方も
まことにおいおいよろしゅう相成る。
気分も爽やかで近来にない「こんでしょん」である。
植村:【声を落として】
ぇっ、なに、こ、こんで? え?
殿様:予が今朝戻らんと申した折、花扇がの、
花扇:殿さん、お人ばらいをお願いいたしんす。
殿様:そう申すによって人ばらい致したるところ、
そばへ来てこの膝のところへ花扇がもたれての。
予の顔を見上げながらかように申した。
花扇:殿さん…いっそ、憎いでありんす…。
殿様:そう申しながら予の膝をきゅーっとつねりおった。
細い指にしては力がある。
痣にもなっておる。
見せてつかわそう。
植村:それには及びませぬ。
【声を落として】
うう…あのような顔でそのような事を…。
花扇:次は…いつ来てくんなます…?
殿様:こう申すでの、
もうそちの元へは参らぬ。
そちとこうして会うはこれ限りであるから、さよう心得よ。
そう申したるところ、
花扇:なんで、さようにつりんせん事を言うのでありんすか…?
殿様:そう言うての、花扇が予の顔を見上げおった。
弥十郎!
植村:ははっ。
殿様:予は百万の敵に恐れはいたさぬが、花扇が心中甚だ不憫である。
この上は参ってやりたいところだが、弥十郎がやかましいによって
もう参る事は出来ぬ、そう申してやったのだ。
植村:【声を落として】
っと、殿、拙者を盾に使わないでくだされ…!
花扇:弥十さんとおっしゃる人は恋を知りんせん、憎い人でありんすぇ。
殿様:こう花扇が申しておった。
そちは花魁に憎まれておるぞ。
植村:【声を落として】
うぅ…殿…それは遊女の手練手管でござる…。
殿様:それゆえ、今宵も吉原へ参るぞ。
支度いたせ!
植村:は、ははっ…。
【声を落として】
こ、こんな事をしていて、ご公儀からお咎めがなければ良いが…。
い、いや、それよりも我が藩の財政が…!
語り:弥十郎さんの心配をよそに殿様はすっかり花扇に骨抜きにされ、
ほぼ毎晩毎夜の吉原通い。
このままではと心配する家臣たちでしたが、いい塩梅に参勤交代の
期限が参りまして、一年のお国入りという事に相成りました。
これがしばらくの吉原の見納めてんでお別れに、家来一同もそこは
情がございますからむしろお勧めし、殿様もしからばと初回の時と
同様、一同に供を申しつけて吉原に繰り出します。
馴染みの芸者太鼓持ちにも十分な手当てを取らせ、殿様自身は花扇
と部屋で別れの盃でございます。
殿様:花扇よ、あれに掛けてあるそちの仕掛けをな、
予がもろうて参りたいが、どうじゃ?
あれ一枚で数百金はする事は無論、存じておる。
代わりと言っては何だが、これに相当する手当てをつかわすぞ。
これがその目録じゃ。
花扇:分かりんした。どうぞ、お持ちくんなまし。
殿様:うむ、ではもろうていくぞ。
さ、この百亀百鶴を描いた七合入りの金蒔絵の盃を用意した。
これに酒を…。
語り:七合となると1260mlもあります。現在とでは醸造技術に差が
あるとはいえ、なかなかの大酒飲みでございます。
さて殿様、花扇と後朝の別れを告げた翌日、江戸を発って東海道を
西へ西へ、三百里の長い道のりを経て領国へ帰りつきました。
ところが殿様、国へ戻っても花扇の事が忘れられない。
城へ帰り着くや否や、すぐに大広間へ通って家臣に命じだします。
殿様:これ、七合入りの金蒔絵の盃をもて!
植村:は、ははっ。
や、やはりまだ忘れかねておられる…。
【二拍】
殿、取り出させましてございます。
殿様:うむ、これへ酒を注ぐのじゃ。
よし…あ、いや待て。
こればかしではいかん。
花扇にもろうた、仕掛けをもて。
珍斎:は、ははっ。
殿様:うむ、持ってきたか。
それを誰か着よ。
そうじゃな、珍斎、そのほうが良い。
珍斎:ぇっ、わ、わたくしめにございますか?
わ、わかりました。
殿様:うーむ、しかし坊主頭ではいかんな。
珍斎、そのほう、毛が生えぬか?
珍斎:と、殿、さすがに髪の毛は人力ではなんとも…。
し、しからばこれでいかがでございましょうや?
植村:おお、手拭いで姉さんかぶり…と申したか、それならば坊主頭は
隠れるの。
殿様:お?おぉおぉ、よいよい、予のそばへ参れ。
参って声を聞かせよ。
珍斎:は、はあ…。
…。
殿様:はあではない、黙っていてはいかん。
なんとか申せ。
珍斎:…し、しからば。
ど、道中、つつがなくご帰城されましーー
殿様:さような事はいかん。
花扇の申すように
「殿さん、浮気をしてはなりんせんよ」
と申せ。
珍斎:……と、殿さん、浮気をしてはーー
殿様:たわけめ、さような汚い声ではない。
もそっと涼やかな声を出せ。
「浮気をしてはなりんせんよ」
と申して、予の膝をつねるのじゃ。
これ、はよういたせ。
珍斎:は、ははっ…しからばーー
殿様:【↑の語尾に喰い気味に】
いだっ!
たわけ!さように痛いのではいかん!
痛いようで痛くないようにつねるのだ!
珍斎:【声を落として】
いや、そんなつねり方は聞いた事もないですぞ、殿ぉぉ…!
植村:いや、かくまでの思し召しを花扇に伝えましたるならば、
さだめし、ありがたり奉る事にござりましょう。
殿様:おぉ、よう申した。
この席に花扇のおらぬのは淋しゅうていかん。
誰ぞ、当家の内に早足の者はおらぬか?
植村:それならば、足軽の内に早見東作と申す者がおります。
至って早足にござりまして、三百里の道を十日にて往復いたす由に
ござります。
殿様:ほう、さようか。
しからばこれへ連れて参れ。
植村:し、しかし、足軽ゆえお目見え以下にござりますれば…
殿様:かまわぬ!
苦しゅうないぞ!
特別の命を申しつけるによって、縁側までの目通りを許す!
植村:は、ははぁっ!
では、ただちに…!
【二拍】
おぉ、来たな。
早見:ご、ご家老様、そ、それがしが何かいたしましたでしょうか…?
植村:いや、そのほうに何か咎あっての召し出しではない。
そのほうの早足を見込んで、殿が特別に目通りを許した上で直々に
命じるとのことじゃ。
無礼のないようにの。
早見:は、ははははいぃ…!
植村:殿、これなるが当家一の早足、早見東作めにござります。
殿様:うむ、そちが東作と申すか。
面を上げよ。
早見:は、ははぁーーっ!
殿様:その早足でもって、江戸の吉原へ行って来るのじゃ。
そちにこの盃を預けるゆえ、扇屋の花魁、花扇が元までこれを持参
いたし、予の相手をいたすように伝えよ。
良いな。
東作:ははぁーーッ!!
確かに、承知つかまつりましたァーッ!
語り:さぁ早見さん、さっそく盃を担いでトットットットッ駆け出す。
しかし何しろ三百里の道のりを十日間で往復と言うのですから、
いくら俊足とはいえ、その苦労は察するに余りあり。
ようやく江戸へたどり着き、そのまま吉原へ駆け込み扇屋を訪ねる
と、かくかくしかじかトラトラウマウマと説明いたし、
すぐに花扇花魁のもとへ通されます。
早見さんより殿様のお言伝を聞くと、いかに誠なしと言われる傾城
とはいえ、感ずるものこれあり。
ぽろぽろ涙をこぼし、盃を目の前に早見さんへと語りかけます。
花扇:まこと…まこと、ありがたい事でありんすぇ…。
さあ、これに酒を注いでくんなまし。
早見:わ、分かりました。
さ、どうぞ…。
花扇:【七合を一気に飲み干している】
ぷは…、さ、この盃を殿さんへご返杯を…。
早見:心得ました!
語り:さあ無事に命を果たした早見さん、足取りも軽くあっという間に
箱根の山へかかりました。
ところがそこで、とあるお大名の行列の供先をうっかり横切って
しまった。
無礼者!とばかりに高手小手に縛られ、
今まさに斬首されようとしているところで、
この騒ぎが行列の主であるお大名の耳に入ります。
大名:予の行列を横切った者がおると?
ほう、そのような事をすればどうなるか分からぬはずがあるまい。
どれ、予が自身で取り調べつかわそう。
これ、そのほうはいずれの家中の者であるか?
早見:まことに申し訳ござりませぬ!
火急の使いにてお供先を横切りましたる段、
何とぞ、何とぞお許し願わしゅう存じまする!
大名:ふむ、火急の使いとな。
いかなる用件にて参ったか?
早見:たとえ一命を召されまするとも、主命の儀は申し上げるわけには
相成りませぬ。
国表にて盃をいたし、江戸のさる遊君にそれなる盃をつかわしまし
たる戻りにござりまする。
大名:ほぉ、国表と吉原とで盃のやり取りをいたしたとな。
国表とはどれほど離れておるのだ?
早見:西に三百里にござりまする。
大名:なに、三百里と申せば、西国ではないか!?
はっははははは!!
これは面白い!大名たる者はさようにありたきものよな!
予もさような事をいたしたいが、小身であるゆえかなわぬ。
そちの主人にあやかりたいものよ。
よし、その盃を借り受くぞ。
これ、宴じゃ!
誰ぞ、酒をもてい!
語り:斬られると覚悟していた早見さん、いきなり始まった酒盛りに
しばし呆然。
盃を借りたお大名はなみなみと酒を注がせる。
大名:うむ、見事な盃であるな!
頂戴いたすぞ!
【七合を一気に飲み干している】
…うむ!
いや、良い旅の座興となったわ!
そちが予の行列の供先を横切った事は不問に付す!
そちの主人によろしゅう伝えてくれい!
早見:ははぁーッ!!
では、これにて!
語り:命拾いした早見さん、足に元気を取り戻し、一息に国表まで
駆け抜けると、その足でお城へ向かい、まずはご家老の植村さん
まで目通りを願い出ます。
早見:ご家老様、早見東作、ただいま戻りましてござりまする!
植村:おお、待ちかねておったぞ!
さ、殿へご報告申し上げよ。
殿様:うむ、戻って参ったか。
しかし、ちと遅かったのう。
道中なんぞあったのか?
直答を許すぞ。
早見:実は、戻りの箱根の山にてそれがし、うかつにも他家の行列の供先
を横切ってしまい、すでに命の無い所でありました。
しかし行列の主人おんみずからのお取り調べがあり、
かくかくと事情を申し上げた所、いたく感動されまして、
罪を不問にする代わりに盃を借りて一献傾けたいと申されました。
殿様:ほう、それは面白い大名じゃな。
その盃になみなみと注がせた酒を、見事に呑みほしたか。
早見:はい、息をもつかずに呑みほされましてござりまする。
殿様:うむ!
お手のうち見事!
いま一献と申して、そのほう参れ!
早見:ははぁーッ!
語り:と、勢いよく駆け出したは良いが、どこのお大名だか分からないて
んで、未だにほうぼうを探して歩いているとのことです。
終劇
参考にした落語口演の噺家演者様等(敬称略)
三遊亭圓生(六代目)
※用語解説
西国:中国・四国・九州地方をひっくるめて指すが、特に九州を指して
西国と呼ぶことが多い。この噺の殿様も九州地方の大名家かと
思われる。秋月なのか鍋島なのか島津なのか黒田なのか有馬なのか
立花なのか相良なのか、それは知らんけど。
まーでも借金したって描写が無いので、たぶんでかい大名家なのでは?
多分、おそらく、もしくは、きっと、めいびー。
花扇:江戸時代後期に実在した、吉原の大見世、扇屋右衛門の抱え花魁。
寛政期の頃の美人として喜多川歌麿の浮世絵にも描かれる。
和歌の才があり、書をよくし、酒を好み、衣装道楽であったと伝え
られる。
瓜田に履を納れず、李下に冠を正さず:人に疑われるようなことはするな
という教訓。
瓜田に履を納れず:瓜畑でしゃがんで履物をはきなおすことをしないという意味。
瓜を盗むと思われる為。?
李下に冠を正さず:実が成っている李の木の下で冠を直さないという意味。
実を盗ろうとしていると思われる為。
つむり:頭のこと。
金紋先箱:大名行列の先に持たせて、威儀・格式を示す
金紋をつけたはさみ箱。
つりんせん:つれない。
傾城・遊君:遊女の事。
気鬱:気がふさいで晴れ晴れしない事。
菅垣:琴・三味線で歌のない曲。遊女が店先で客を待つときに弾いた
三味線の曲。
匕首:鍔の無い短刀。
禿:頭に髪がないことを言い、肩までで切りそろえた児童期の髪型、
あるいはその髪型をした子供を指す。
狭義では、江戸時代の遊廓に住む童女をさす。
番頭新造:花魁の身のまわりの世話や外部との交渉をした新造。
留袖新造:十八歳になっても独り立ちが出来ず、姐さんの世話になりなが
ら客を取る新造。
振袖新造:振袖を着て出た禿上がりの若い新造級の遊女。
後朝の別れ:共寝した男女が翌日に別れることを意味する。
「きぬぎぬ」とは、その際に互いの下着を交換するという
古代の習俗に基づく表現である。
それに連動して、帰った男から送られる手紙のことを
「後朝の文」という。
仕掛け:遊女の着る小袖類。