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落語【声劇台本書き起こし】

落語声劇「盃の殿様」

作者: 霧夜シオン


落語声劇「さかずきの殿様」


台本化:霧夜きりやシオン@吟醸亭喃咄ぎんじょうていなんとつ


所要時間:約40分


必要演者数:4名

      (0:0:4)


※当台本は落語を声劇台本として書き起こしたものです。

よって性別は全て不問とさせていただきます。

(創作落語や合作などの落語声劇台本はその限りではありません。)


※当台本は元となった落語を声劇として成立させるために大筋は元の作品

 に沿っていますが、セリフの追加及び改変が随所にあります。

 それでも良い方は演じてみていただければ幸いです。



●登場人物


殿様:西国さいごくのある大名家だいみょうけの殿様。太平の世の大名らしく上げぜんぜん

   剣術の稽古けいこだ馬術だ弓の稽古けいこだと言われ、やりたく無いがために

   病気だとサボって部屋に閉じこもっていたら本当に鬱病うつびょうになってし

   まう。


植村うえむら植村弥十郎うえむらやじゅうろう

   大名家の家老かろう。ご多分に漏れず頭が固くて融通ゆうづうかない。


花扇はなおうぎ吉原よしわら扇屋おうぎやかかえの花魁おいらん花魁道中おいらんどうちゅうで彼女を見かけた事で、殿様は

   心をわしづかみにされてしまう。


早見はやみ早見東作はやみとうさく三百里さんびゃくりを十日で往復する足軽あしがる

   殿様から七合ななごう入りのさかずきを預かって、西国さいごくと江戸を往復する羽目はめに。


大名:東作とうさくが江戸から西国さいごくへ戻る途中に行きあった大名行列のぬし

   自身の行列を横切られた無礼をとがめて斬首しようとするが、

   わけを聞いて感心し、自分もあやかりたいとさかずきを借りて酒を一気に

   いき酔狂すいきょう好き。


珍斎ちんさい:殿様お気に入りの茶坊主ちゃぼうず

   非番ひばんの時にはひそかに吉原よしわら遊女ゆうじょを買いに行っている模様もよう


医者:殿様の主治医。(セリフは1つのみです)


語り:雰囲気を大事に。



●配役例


殿様・大名:

植村・枕:

早見・珍斎・医者:

花扇・語り:



※枕は誰かが適宜てきぎねてください。



枕:昔のお大名だいみょうなどというものは大変な贅沢ぜいたくをなさるもので、

  自分の言い分は何でも通したといいます。

  家来の方もたてまつっちゃったりなんかするものですから、余計よけいわがままな

  人間が出来あがる。

  当時のお大名だいみょうの決まり事、幕府ばくふが定めた武家諸法度ぶけしょはっとというものには、

  文武両道にはげむ事、酒におぼれ遊びほうけたらダメ、質素倹約しっそけんやくに務めろ

  、といったものがあります。こういうのがあるから、いくら剣術が嫌

  いだ、馬術はしたくないなどと思っていてもやらないわけにはいかな

  いのですが、そこは病気といううまい逃げ口上こうじょうがある。

  何でも嫌なものは病気だ病気だと片付けてしまう。しかし、自分でそ

  う言った手前てまえ、外に出歩くわけにはいかない。部屋にこもって病人ら

  しい顔をして下を向いてるってえと本当に自分が病気だと思うように

  なってしまう。やまいは気からと申しますが、まこと真理しんりですな。

  人と会うのも嫌、口きくのも嫌、居間に閉じこもって出て来ない、

  こうなるとますます扱いにくくなるもので。


珍斎:殿、ご機嫌きげんはいかがにござりまするか?

   そのように一間ひとまに閉じこもっておいで遊ばせば、かえって体におどく

   でございます。

   ちとお庭内にわうちでも歩かれてはいかがなものにございましょうや?


殿様:…珍斎ちんさいか。

   そちはやまいを案じてくれおるが、何か気がむすぼれて面白おもしろうない。


珍斎:しからばこれをご覧遊ばしては?

   東錦絵あずまにしきえ全盛花競六花撰ぜんせいはなくらべろっかせん」という、その頃、豊国とよくにと申す者が

   描きました、錦絵にしきえにござります。


殿様:【つぶやく】

   やれやれ、また珍斎ちんさいめがの気を引こうとしてわずらわしい事じゃ…。

   しかし、見ぬわけにもいかぬ…。

   …。

   !これは美しいものであるな。目の覚めるような美人じゃ。

   東錦絵あずまにしきえ、とか申したな?


珍斎:御意ぎょいにござります。


殿様:このえがかれておる者共は何をいたす者じゃ?


珍斎:新吉原町しんよしわらちょうにて務めをいたす、傾城けいせいにござります。


殿様:傾城けいせい遊女ゆうじょ…これは情けをひさぐ者と申すが左様さようか?


珍斎:御意ぎょいにござります。


殿様:ふーむ…いずれもうつくしゅうえがいておるが、これは世に申す絵空事えそらごと

   かような者がまったくおるわけではあるまい。


珍斎:さにあらず、絵空事えそらごとではござりませぬ。

   手前てまえなぞも非番ひばんの際には、おりを見て吉原よしわらへ参り……ゴホン。

   いえ、決して遊女ゆうじょを求めるのではござりませぬ。

   ただ目の保養ほようの為に見に参るのであります。

   買わずして見る事を素見すけん、ないしはぞめき、

   ぞくに冷やかしに行くなどと申します。

   物言ものいう花もむなしからず、またこの錦絵にしきえよりいちだんすぐれ、

   美しいものにござります。


殿様:むう…しからば何か、このえがかれた錦絵にしきえより美しい者が

   おると、こう申すのか。

   珍斎ちんさい植村弥十郎うえむらやじゅうろうをこれへ呼んで参れ。


珍斎:ははっ。


   【二拍】


植村:殿、火急かきゅうのおしにございますか?


殿様:おぉ、弥十郎やじゅうろうか。

   もそっとちこう。

   珍斎ちんさいの病気をなぐさめようと、この錦絵にしきえを持参いたした。

   聞けば吉原町よしわらまちには、この描いたるものより美しいものがおると、

   こう申すのだが、こやつは時おりいつわりをかまえる事があるゆえ、

   そのほうをこうして呼んだ。

   まこと、かような者がおるのか?


植村:これはまた、なおたずねをこうむりまするな。

   若侍わかざむらいなぞがおりおりうわさをいたし、何屋なにやの誰は絵にも描けぬなどと

   申しておりまするゆえ、珍斎ちんさいが申し上げましたる事はあながち、

   いつわりではござりますまい。


殿様:ふーむ…さようか。

   しからばかような者がおると申すのじゃな。

   ならば病気保養びょうきほようの為、今宵こよいその傾城けいせいを求めに参る。


植村:これはまた、もってのほかのことで。

   彼処かしこの場は悪所あくしょと申し、身分ある方が足を踏み入れるべき場所に

   ござりませぬ。

   この上はなにとぞ、思いとどまりを願わしゅう存じまする。


殿様:…しからば、傾城けいせいを求めに参ってはならぬと申すか。

   ならば求めはせぬ。ただ見に参る。

   冷やかしに参る。

   それならばどうじゃ?


植村:たとえご見物たりとも、しき場所には君子くんしは立ち寄らず、

   瓜田かでんくつれず、李下りかかんむりたださずの例えもあり、このは固く

   おとどめを願わしゅう存じます。


殿様:しからばどうあってもならんと申すのか?

   …ならんと申すのか!?

   ……。


   …よい。

   そちに用は無い、下がれ。

   珍斎ちんさい、かようなものは目障めざわりじゃ。

   はよう片づけて次のへ下がれ。


珍斎:は、ははぁっ。


殿様:あぁこれこれこれ。

   そのほうたちに申しおく。

   は今日限り、薬は飲まぬぞ。

   やまいあつくなろうとも薬は飲まぬゆえ、さよう心得こころえよ。


   うっ…つむりが痛い…。

   …胸が苦しい…。

   …気分が悪い…。


植村:と、殿!

   お気を確かに!


珍斎:殿、との、お薬を…!


殿様:うーん…うーん…く、くすりは、飲まぬ…。


語り:などとうなりだしたもんですから、さあどうも弱ったものです。

   こうなった日にはもうだだ々っ子とさほど変わらぬ始末しまつ

   もう薬は飲まないなんてえばってるんですから、じゃあ勝手にしや

   がれなんてわけにもいかず、重役じゅうやく達が集まってさてどうしたものか

   と議論を重ねる。

   そこに同席していた医者が所見しょけんを述べました。


医者:どうもこれは気鬱きうつやまいではないか。

   早く言うと、お腹の中に徳利とっくりがあってそれにせんをしてあるようなも

   ので、いくら薬を服用ふくようなされてもき目が無い。

   胸郭きょうかくが開くと申しまして、ご自分でああ面白い、愉快ゆかいだとおぼし召し

   て、そのせんが取れた所に薬が入ればき目がございます。

   しかしこのままにしておけばじりじりとただ悪くなる一方で。

   これはやはり吉原よしわらにおいでになって、ただ見るぐらいならば

   差しさわる事もございますまいが。


語り:なるほどもっとも、それならばと評議一決ひょうぎいっけつ

   植村うえむらさんが殿様の元へ伺候しこうします。


植村:殿、恐れながら申し上げまする。


殿様:誰も参ってはならん!


植村:ただいま重臣じゅうしん一同、評議ひょうぎを重ねましてーー


殿様:【↑の語尾に喰い気味に】

   はつむりが痛い。

   気分が悪い、下がれ。


植村:吉原よしわらご見物のは、ご病気保養のため差しつかえあるまいと

   一決いっけついたしましてござりまする。

   されどご気分きぶんしきとの事なれば、ご他出たしゅつもいかがなものかと存じ

   まするゆえ、またおっての事といたしましてーー


殿様:【↑の語尾に喰い気味に】

   これこれこれこれこれ、待て待て。

   しからば何か、見物に参るのは良いと申したのか?

   さようか。


   いや、あー、もうつむりはいとうない。

   気分も良い。

   しからばこれから吉原よしわらへ参る。


植村:しかし、お忍びではかえって目立つことにござりますれば、

   本格的に参ってはいかがなものでござりましょう?


殿様:ふむ、わかった。

   良きにはからえ。


植村:ははーっ。

   では支度したくにかかりまするゆえ、殿はまず湯浴ゆあみを。


語り:そんなわけできゅうきょ吉原よしわら行きが決まった殿様、さっきまでの不機嫌ふきげん

   はどこへやら、いま泣いたカラスがもう笑うのたとえの通り、

   うきうきしながら身支度みじたくにかかります。

   湯をび、髪を取り上げてひげをあたりまして、すっかりおめかしを

   済ませますと、そのうちにともぞろえができます。

   ご大身たいしんの身の本格的と言うのですから、

   なんと総勢三百六十人という大人数でございます。

   弓鉄砲ゆみてっぽう槍薙刀やりなぎなた金紋先箱きんもんさきばこぎょうぎょう々しく列を組んでおごそかに市中しちゅうを進み、

   大門おおもんの外で駕籠かごりますと三十人ほどのご近習きんじゅう召連めしつれまして、

   茶屋ちゃやへ参ります。

   二階へ通されまして席を定めますと、右のほうに御案内役ごあんないやくというの

   でお留守居るすいが座る。

   左側には迷惑そうな顔をして植村うえむらさんがひかえ、その後ろには珍斎ちんさい

   さらにそこからまた少しへだてて若侍わかざむらい達が二重三重にじゅうさんじゅうに取り巻いて、

   殿様に対して無礼ぶれいを働く者あらば、一刀いっとうのもとに斬って捨てようと

   いうので眼をえてひかえている。

   まったく物騒ぶっそう女郎じょろう買いもあったものです。


植村:殿、日が暮れて参りましたな。


殿様:うむ、たしかそろそろではないか?


珍斎:はい、まもなく…

   あ、お茶屋ちゃやから三味線しゃみせんき手が菅垣すががきを鳴らし始めました。

   殿、いよいよですぞ。


殿様:うむ。

   …おぉ、参ったぞ。


植村:うーむ、これは…。


殿様:これが傾城けいせいであるか…なるほど…。

   珍斎ちんさいが申した通りであった。

   えがいたるものよりまた、一段と美しいものであるな。

   これ、あれへ参る傾城けいせいはなんと申す。


珍斎:は、あれは玉屋山三たまやさんざかかえ、白鳥しらとりと申しまする。


殿様:おお、白鳥しらとりとは白い鳥であるか。

   げに白鳥はくちょうのごとく美しいものであるな。   

   その後へ参ったあの傾城けいせいはなんと申す?


珍斎:同じく玉屋山三たまやさんざかかえ、雲井くもいにござりまする。


殿様:おぉそうか。

   その後に続いておるのは?


珍斎:いま参ったのは小紫こむらさき、続くのが揚巻あげまきにござりまする。


殿様:うーん、いずれもみな、美しいのう。

   その後に参ったのはなんじゃ?


語り:田舎の人を連れて見物に来ているようなものです。

   あれは何じゃあれは何じゃとむやみに聞いている。

   答える方も大変でございます。


殿様:うん?まだ参るようじゃの?

   !!?

   お、おぉ……!


植村:っこ、これは…!


珍斎:ああ、やって参りましたな。

   当世第一とうせいだいいち、他に並ぶ者なしとうたわれております、

   扇屋右衛門おうぎやうえもんかかえで花扇はなおうぎと申しまする。


植村:ふうむ…良い女と申すものはどこかけんがあると言うが…。


珍斎:おおせのとおりながらこの花扇はなおうぎ

   美人でございますが決して剣(険)もなければ匕首あいくちもない、

   まこと平和な顔でして。

   あの八文字はちもじんで歩く姿さえ美しゅうございます。


殿様:【息を弾ませながら】

   おお、向かいの茶屋ちゃや床几しょうぎへ座って、煙草たばこを飲み始めたぞ。

   んん~~む…これはまたいちだんと美しいものであるのう。

   花扇はなおうぎと申したな。…花におうぎか。

   うむうむ、さもあろう、げに美しいものじゃのう。

   どうじゃ、弥十郎やじゅうろう

   かの花扇はなおうぎをこれへ招いて、さかずきの相手をさせるがどうじゃ?


植村:されば殿、吉原よしわらの形式上、さような事はむずかしかろうと…。


殿様:ならんと申すのか…?


   …。

   …。


   つむりが痛い…。


植村:【声を落として】

   い、いかん、また始まった…!

   さかずきの相手だけなら良かろう…。


   しょ、承知つかまつりました。


殿様:【けろりとして】

   うむ、はよういたせよ。


語り:すっかりこの手で味をしめている殿様、手に負えないったらありま

   せん。どうもしょうがないってんですぐにこの事を茶屋ちゃやつうじて

   ご指名するわけであります。

   扇屋おうぎやはご大身たいしんのお大名だいみょうと聞いて一も二もなく快諾かいだく

   花扇はなおうぎにもよく言い含めて、やがてご対面と相成あいなります。

   といっても一人で入ってくるわけではなく、番頭ばんとう留袖とめそで振袖ふりそで

   新造しんぞが三人、つい禿かむろと言って禿かむろが二人、やり手が一人、あとは

   若いしゅを三人従えて入って着座、新造しんぞが銀の煙管きせる煙草たばこを付けて

   殿様に渡す。その一挙一動いっきょいちどう、殿様は目を皿にしてじいいっと見ている。

   花扇はなおうぎ上客じょうきゃく中の上客じょうきゃくと分かっている。


殿様:おぉ…間近まぢかで見るとなお、美しい…。


花扇:ようこそいらっしゃいんした。

   花扇はなおうぎでありんす。


殿様:う、うむ…うむ…!


花扇:【つぶやく】

   どうかしてこなたのおかた今宵こよい引きめたい…。

   けれどご家来衆けらいしゅが大勢いる中では、迂闊うかつに口はひらけんせん。

   お侍は刀で殺すけど、わっちら遊女ゆうじょは目で殺すでありんす。

   「気があれば、目は口ほどに、物を言う…。」

   っ。


殿様:!!!!

   【声を落として】

   おぉぉぉ、っこ、これはなんじゃ!!?

   花扇はなおうぎと目がうたら、体が雷に打たれたようじゃ…!!


   【若干じゃっかんふにゃふにゃに】

   っや、やじゅうろう…は…花扇はなおうぎの元へ一泊したいが、

   どうじゃ…?


植村:!っさ、さようなことは…


殿様:ならんと申すか…?


   …。

   …。


   つむりが痛い…。


植村:【声を落としてつぶやく】

   あぁあぁまたぁぁ…!!

   むむむ…ひ、一晩くらいならよかろう…。


   【声を落として殿へ】

   っし、承知、つかまつりました…!

   されど、ご本格にておいでになったのでございますから、

   ケチな遊びはできませぬ。

   どうぞ、立派にお遊びあそばせ。


殿様:【けろりとして】

   うむうむ、しからばともの家臣一同にも傾城けいせいを求めつかわせ。


植村:っあ、ありがたき幸せにござります。


語り:てんでまぁ、ともをしてきた三百六十人全員が扇屋おうぎやのお客になりまし

   た。

   表には満員の札が掛かり、一晩たっぷり遊んでお帰りになったわけ

   ですが、さあ面白おもしろい。初めてこんな愉快ゆかいな思いをしたわけですから

   、病気なんぞはもうなかば治ったようなもんです。

   ところがどっこい、あとから楽しかった時の事を思い出すと

   ぞくぞくしてくるもんです。

   殿様も例にもれずそうなったわけでございますが、

   さすがに昨夜の今夜でまた行きたいてなわけにはいかない。

   ぐっと我慢いたしまして、中一日なかいちにちを置いてまた植村うえむらさんを呼び出し

   ます。


殿様:これ、弥十郎やじゅうろう


植村:おしにござりまするか、殿。


殿様:うむ。

   そちのはからいで花扇はなおうぎが元へ一泊いたした。

   やまい幾分いくぶんようなったようであるぞ。


植村:ははっ、まことにありがたき幸せに存じたてまつりまする。


殿様:うむ、それであのおりの事だが、朝を迎えて帰らんとした時、

   かの花扇はなおうぎがの、かように申したのだ。


植村:は…。


花扇:殿さん、お裏はいつでありんす…?


植村:これは…おのろけとは恐れ入りましてござります。


殿様:始めて参る客を初回、二度めに参る事を裏と言うそうじゃ。

   初回に来た客が裏に来ぬと、客たる者として恥辱ちじょく相成あいなると、

   こう申した。

   が先祖は武勇に優れ、戦場いくさばでかつて敵に後ろを見せた事は無い…

   と聞く。

   しかるに子孫たる傾城けいせいに後ろを見せてははなはだ無念のいたりじゃ。

   武士の意地いじをもって、今宵こよいも参るぞ。


植村:【声を落として】

   えぇぇ…殿、それは屁理屈へりくつーー


殿様:何か申したか?


植村:い、いえ、なにも…。


殿様:よし、支度したくをいたせ!


語り:そんなわけでまた遊びにやって参りました吉原よしわら扇屋おうぎや

   遊郭ゆうかくの遊びと言うものは、初回はあんまり面白くない。

   やはり馴染なじみになってからが本番というわけで、今回も花扇はなおうぎは十分

   なもてなしをしたもんですから、殿様すっかりとりこになってしまい、

   とてももう一晩おいてから、なんて我慢が出来るわけがない。

   もう矢もたてもたまらなくなっているわけでございます。


殿様:これ弥十郎やじゅうろう弥十郎やじゅうろう

   弥十郎やじゅうろう


植村:お、お召しにございまするか?

   【声を落として】

   も、もしやと思うが…?


殿様:うむ、その方のはからいで昨夜も花扇はなおうぎのもとに参り、やまいの方も

   まことにおいおいよろしゅう相成あいなる。

   気分もさわやかで近来きんらいにない「こんでしょん」である。


植村:【声を落として】

   ぇっ、なに、こ、こんで? え?


殿様:今朝けさ戻らんと申したおり花扇はなおうぎがの、


花扇:殿さん、お人ばらいをお願いいたしんす。


殿様:そう申すによって人ばらい致したるところ、

   そばへ来てこの膝のところへ花扇はなおうぎがもたれての。

   の顔を見上げながらかように申した。


花扇:殿さん…いっそ、憎いでありんす…。


殿様:そう申しながらの膝をきゅーっとつねりおった。

   細い指にしては力がある。

   あざにもなっておる。

   見せてつかわそう。


植村:それには及びませぬ。

   【声を落として】

   うう…あのような顔でそのような事を…。


花扇:次は…いつ来てくんなます…?


殿様:こう申すでの、

   もうそちの元へは参らぬ。

   そちとこうして会うはこれ限りであるから、さよう心得こころえよ。

   そう申したるところ、


花扇:なんで、さようにつりんせん事を言うのでありんすか…?


殿様:そう言うての、花扇はなおうぎの顔を見上げおった。

   弥十郎!


植村:ははっ。


殿様:は百万の敵に恐れはいたさぬが、花扇はなおうぎ心中しんちゅうはなは不憫ふびんである。

   この上は参ってやりたいところだが、弥十郎やじゅうろうがやかましいによって

   もう参る事は出来ぬ、そう申してやったのだ。


植村:【声を落として】

   っと、殿、拙者せっしゃを盾に使わないでくだされ…!


花扇:弥十やじゅさんとおっしゃる人は恋を知りんせん、憎い人でありんすぇ。


殿様:こう花扇はなおうぎが申しておった。

   そちは花魁おいらんに憎まれておるぞ。


植村:【声を落として】

   うぅ…殿…それは遊女ゆうじょ手練手管てれんてくだでござる…。


殿様:それゆえ、今宵こよい吉原よしわらへ参るぞ。

   支度したくいたせ!


植村:は、ははっ…。


   【声を落として】

   こ、こんな事をしていて、ご公儀こうぎからおとがめがなければ良いが…。

   い、いや、それよりも我がはん財政ざいせいが…!


語り:弥十郎やじゅうろうさんの心配をよそに殿様はすっかり花扇はなおうぎ骨抜ほねぬきにされ、

   ほぼ毎晩毎夜の吉原よしわら通い。

   このままではと心配する家臣たちでしたが、いい塩梅あんばい参勤交代さんきんこうたい

   期限が参りまして、一年のお国入くにいりという事に相成あいなりました。

   これがしばらくの吉原よしわら見納みおさめてんでお別れに、家来一同もそこは

   じょうがございますからむしろおすすめし、殿様もしからばと初回の時と

   同様、一同にともを申しつけて吉原よしわらり出します。

   馴染なじみの芸者げいしゃ太鼓持たいこもちにも十分な手当てを取らせ、殿様自身は花扇はなおうぎ

   と部屋で別れのさかずきでございます。


殿様:花扇はなおうぎよ、あれに掛けてあるそちの仕掛けをな、

   がもろうて参りたいが、どうじゃ?

   あれ一枚で数百金はする事は無論、存じておる。

   代わりと言っては何だが、これに相当する手当てをつかわすぞ。

   これがその目録もくろくじゃ。


花扇:分かりんした。どうぞ、お持ちくんなまし。


殿様:うむ、ではもろうていくぞ。

   さ、この百亀百鶴ひゃっきひゃっかくを描いた七合ななごう入りの金蒔絵きんまきえさかずきを用意した。

   これに酒を…。


語り:七合ななごうとなると1260mlもあります。現在とでは醸造じょうぞう技術に差が

   あるとはいえ、なかなかの大酒飲みでございます。

   さて殿様、花扇はなおうぎ後朝きぬぎぬの別れを告げた翌日、江戸をって東海道とうかいどう

   西へ西へ、三百里さんびゃくりの長い道のりを領国りょうごくへ帰りつきました。

   ところが殿様、国へ戻っても花扇はなおうぎの事が忘れられない。

   城へ帰り着くやいなや、すぐに大広間へ通って家臣に命じだします。


殿様:これ、七合ななごう入りの金蒔絵きんまきえさかずきをもて!


植村:は、ははっ。


   や、やはりまだ忘れかねておられる…。


   【二拍】


   殿、取り出させましてございます。


殿様:うむ、これへ酒をぐのじゃ。


   よし…あ、いや待て。

   こればかしではいかん。

   花扇はなおうぎにもろうた、仕掛けをもて。


珍斎:は、ははっ。


殿様:うむ、持ってきたか。

   それを誰か着よ。

   そうじゃな、珍斎ちんさい、そのほうが良い。


珍斎:ぇっ、わ、わたくしめにございますか?

   わ、わかりました。


殿様:うーむ、しかし坊主頭ぼうずあたまではいかんな。

   珍斎ちんさい、そのほう、毛が生えぬか?


珍斎:と、殿、さすがに髪の毛は人力じんりきではなんとも…。

   し、しからばこれでいかがでございましょうや?


植村:おお、手拭てぬぐいであねさんかぶり…と申したか、それならば坊主頭ぼうずあたま

   隠れるの。


殿様:お?おぉおぉ、よいよい、のそばへ参れ。

   参って声を聞かせよ。


珍斎:は、はあ…。

   …。


殿様:はあではない、黙っていてはいかん。

   なんとか申せ。


珍斎:…し、しからば。


   ど、道中どうちゅう、つつがなくご帰城きじょうされましーー


殿様:さような事はいかん。

   花扇はなおうぎの申すように

   「殿さん、浮気うわきをしてはなりんせんよ」

   と申せ。


珍斎:……と、殿さん、浮気うわきをしてはーー


殿様:たわけめ、さような汚い声ではない。

   もそっとすずやかな声を出せ。

   「浮気うわきをしてはなりんせんよ」

   と申して、の膝をつねるのじゃ。

   これ、はよういたせ。


珍斎:は、ははっ…しからばーー


殿様:【↑の語尾に喰い気味に】

   いだっ!

   たわけ!さように痛いのではいかん!

   痛いようで痛くないようにつねるのだ!


珍斎:【声を落として】

   いや、そんなつねり方は聞いた事もないですぞ、殿ぉぉ…!


植村:いや、かくまでのおぼし召しを花扇はなおうぎに伝えましたるならば、

   さだめし、ありがたりたてまつるる事にござりましょう。

   

殿様:おぉ、よう申した。

   この席に花扇はなおうぎのおらぬのはさみしゅうていかん。

   誰ぞ、当家とうけの内に早足の者はおらぬか?


植村:それならば、足軽あしがるうち早見東作はやみとうさくと申す者がおります。

   いたって早足にござりまして、三百里さんびゃくりの道を十日にて往復いたすよし

   ござります。


殿様:ほう、さようか。

   しからばこれへ連れて参れ。


植村:し、しかし、足軽あしがるゆえお目見めみえ以下にござりますれば…


殿様:かまわぬ!

   苦しゅうないぞ!

   特別のめいを申しつけるによって、縁側えんがわまでの目通めどおりを許す!


植村:は、ははぁっ!

   では、ただちに…!


   【二拍】


   おぉ、来たな。


早見:ご、ご家老かろう様、そ、それがしが何かいたしましたでしょうか…?


植村:いや、そのほうに何かとがあってのし出しではない。

   そのほうの早足を見込んで、殿が特別に目通めどおりを許した上でじきじき々に

   命じるとのことじゃ。

   無礼ぶれいのないようにの。


早見:は、ははははいぃ…!


植村:殿、これなるが当家とうけ一の早足、早見東作はやみとうさくめにござります。


殿様:うむ、そちが東作とうさくと申すか。

   おもてを上げよ。


早見:は、ははぁーーっ!


殿様:その早足でもって、江戸の吉原よしわらへ行って来るのじゃ。

   そちにこのさかずきを預けるゆえ、扇屋おうぎや花魁おいらん花扇はなおうぎが元までこれを持参

   いたし、の相手をいたすように伝えよ。

   良いな。


東作:ははぁーーッ!!

   確かに、承知つかまつりましたァーッ!


語り:さぁ早見はやみさん、さっそくさかずきかついでトットットットッ駆け出す。

   しかし何しろ三百里さんびゃくりの道のりを十日間で往復と言うのですから、

   いくら俊足しゅんそくとはいえ、その苦労はさっするにあまりあり。

   ようやく江戸へたどり着き、そのまま吉原よしわらへ駆け込み扇屋おうぎやを訪ねる

   と、かくかくしかじかトラトラウマウマと説明いたし、

   すぐに花扇花魁はなおうぎおいらんのもとへ通されます。

   早見はやみさんより殿様のお言伝ことづてを聞くと、いかにまことなしと言われる傾城けいせい

   とはいえ、感ずるものこれあり。

   ぽろぽろ涙をこぼし、さかずきを目の前に早見はやみさんへと語りかけます。


花扇:まこと…まこと、ありがたい事でありんすぇ…。

   さあ、これに酒をいでくんなまし。


早見:わ、分かりました。

   さ、どうぞ…。


花扇:【七合を一気に飲み干している】

   ぷは…、さ、このさかずきを殿さんへご返杯へんぱいを…。


早見:心得こころえました!


語り:さあ無事にめいを果たした早見はやみさん、足取あしどりも軽くあっという間に

   箱根はこねの山へかかりました。

   ところがそこで、とあるお大名だいみょう行列ぎょうれつ供先ともさきをうっかり横切って

   しまった。

   無礼者!とばかりに高手小手たかてこてに縛られ、

   今まさに斬首されようとしているところで、

   この騒ぎが行列ぎょうれつぬしであるお大名だいみょうの耳に入ります。


大名:の行列を横切った者がおると?

   ほう、そのような事をすればどうなるか分からぬはずがあるまい。

   どれ、が自身で取り調べつかわそう。


   これ、そのほうはいずれの家中かちゅうの者であるか?


早見:まことに申し訳ござりませぬ!

   火急かきゅうの使いにてお供先ともさきを横切りましたるだん

   何とぞ、何とぞお許し願わしゅうぞんじまする!


大名:ふむ、火急かきゅうの使いとな。

   いかなる用件にて参ったか?


早見:たとえ一命いちめいされまするとも、主命しゅめいは申し上げるわけには

   相成あいなりませぬ。

   国表くにおもてにてさかずきをいたし、江戸のさる遊君ゆうくんにそれなるさかずきをつかわしまし

   たる戻りにござりまする。


大名:ほぉ、国表くにおもて吉原よしわらとでさかずきのやり取りをいたしたとな。

   国表くにおもてとはどれほど離れておるのだ?


早見:西に三百里さんびゃくりにござりまする。


大名:なに、三百里さんびゃくりと申せば、西国さいごくではないか!?


   はっははははは!!

   これは面白おもしろい!大名だいみょうたる者はさようにありたきものよな!

   もさような事をいたしたいが、小身しょうしんであるゆえかなわぬ。

   そちの主人にあやかりたいものよ。

   よし、そのさかずきを借りくぞ。

   これ、うたげじゃ!

   誰ぞ、酒をもてい!


語り:斬られると覚悟していた早見はやみさん、いきなり始まった酒盛りに

   しばし呆然ぼうぜん

   さかずきを借りたお大名だいみょうはなみなみと酒をがせる。


大名:うむ、見事なさかずきであるな!

   頂戴ちょうだいいたすぞ!


   【七合を一気に飲み干している】


   …うむ!

   いや、良い旅の座興ざきょうとなったわ!

   そちが行列ぎょうれつ供先ともさきを横切った事は不問ふもんす!

   そちの主人によろしゅう伝えてくれい!


早見:ははぁーッ!!

   では、これにて!


語り:命拾いした早見はやみさん、足に元気を取り戻し、一息ひといき国表くにおもてまで

   駆け抜けると、その足でお城へ向かい、まずはご家老かろう植村うえむらさん

   まで目通めどおりを願い出ます。


早見:ご家老かろう様、早見東作はやみとうさく、ただいま戻りましてござりまする!


植村:おお、待ちかねておったぞ!

   さ、殿へご報告申し上げよ。


殿様:うむ、戻って参ったか。

   しかし、ちと遅かったのう。

   道中どうちゅうなんぞあったのか?

   直答じきとうを許すぞ。


早見:実は、戻りの箱根はこねの山にてそれがし、うかつにも他家たけ行列ぎょうれつ供先ともさき

   を横切ってしまい、すでに命の無い所でありました。

   しかし行列ぎょうれつの主人おんみずからのお取り調べがあり、

   かくかくと事情を申し上げた所、いたく感動されまして、

   罪を不問ふもんにする代わりにさかずきを借りて一献いっこんかたむけたいと申されました。


殿様:ほう、それは面白おもしろ大名だいみょうじゃな。

   そのさかずきになみなみとがせた酒を、見事みごとみほしたか。


早見:はい、息をもつかずにみほされましてござりまする。


殿様:うむ!

   お手のうち見事!

   いま一献いっこんと申して、そのほう参れ!


早見:ははぁーッ!


語り:と、勢いよく駆け出したは良いが、どこのお大名だいみょうだか分からないて

   んで、いまだにほうぼうを探して歩いているとのことです。




終劇




参考にした落語口演の噺家演者様等(敬称略)



三遊亭圓生(六代目)



※用語解説


西国さいごく:中国・四国・九州地方をひっくるめて指すが、特に九州を指して

   西国と呼ぶことが多い。このはなしの殿様も九州地方の大名だいみょう家かと

   思われる。秋月あきづきなのか鍋島なべしまなのか島津なのか黒田なのか有馬ありまなのか

   立花なのか相良さがらなのか、それは知らんけど。

   まーでも借金したって描写が無いので、たぶんでかい大名家なのでは?

   多分、おそらく、もしくは、きっと、めいびー。


花扇はなおうぎ:江戸時代後期に実在した、吉原よしわら大見世おおみせ扇屋右衛門おうぎやうえもんかか花魁おいらん

   寛政かんせい期の頃の美人として喜多川歌麿きたがわうたまろ浮世絵うきよえにもえがかれる。

   和歌の才があり、書をよくし、酒を好み、衣装道楽いしょうどうらくであったと伝え

   られる。


瓜田かでんくつれず、李下りかかんむりを正さず:人に疑われるようなことはするな

                  という教訓。


瓜田に履を納れず:瓜畑うりばたけでしゃがんで履物はきものをはきなおすことをしないという意味。

         うりを盗むと思われる為。?


李下に冠を正さず:実が成っているすももの木の下でかんむりを直さないという意味。

         実をろうとしていると思われる為。



つむり:頭のこと。


金紋先箱:大名行列の先に持たせて、威儀いぎ格式かくしきを示す

     金紋きんもんをつけたはさみ箱。


つりんせん:つれない。


傾城・遊君:遊女の事。


気鬱:気がふさいで晴れ晴れしない事。


菅垣:琴・三味線で歌のない曲。遊女が店先で客を待つときに弾いた

     三味線の曲。


匕首:(つば)の無い短刀。


禿:頭に髪がないことを言い、肩までで切りそろえた児童期の髪型、

  あるいはその髪型をした子供を指す。

  狭義では、江戸時代の遊廓に住む童女をさす。


番頭新造:花魁の身のまわりの世話や外部との交渉をした新造。


留袖新造:十八歳になっても独り立ちが出来ず、姐さんの世話になりなが

     ら客を取る新造。


振袖新造:振袖を着て出た禿上がりの若い新造級の遊女。


後朝の別れ:共寝した男女が翌日に別れることを意味する。

       「きぬぎぬ」とは、その際に互いの下着を交換するという

      古代の習俗に基づく表現である。

      それに連動して、帰った男から送られる手紙のことを

      「後朝の文」という。


仕掛け:遊女の着る小袖類。




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