リーダーと教師
王都ノーヴィスプラネスの北西に勇者達の居住区がある。勇者達一人一人に住居が用意されていて、二階建ての家が立ち並ぶ中の一つの家から、男性のよく通る声が聞こえてくる。
中を見れば家の居間に学校で使う椅子や机が並んだ異様な光景。椅子には老若男女問わず、一つも空きがなく座り、部屋の奥では黒板の前で一人の男が分数の授業を執り行っていた。
凛々しい顔をして、赤っぽい長い髪を後ろで結んだ彼の声は本当によく通る。
「———と、言うわけで……」
「ニシナせんせー……」
壇上で自作の教科書を持ち、生徒達に教えていたニシナと呼ばれた男性は、授業を遮った子供の方に目を向ける。優しくもなく、厳しくもなく、ただ無機質ではなく疑問という感情だけを乗せた表情で生徒の子供を見る。
他の生徒達も皆、声を上げた者を一斉に見る。
視線のむしろの中で子供はおずおずと意見をする。
「分数とか、因数分解とか、習う必要あるんですか?」
「ある」
先生はよどみなく断言した。
子供は少し焦り、さらに意見を出す。
「でもこんなの将来なんの役にも立たないでしょ」
「“有事”ではないからだ。“今が”有事ではないからそう思う。“君の”将来の役には立たないかも知れないし、立つかも知れない。だが“みんなの”未来のためになる」
ニシナと呼ばれた先生は教科書を教壇の上に置くと、全員の顔を見てから、意見する子供の顔を見る。
「君が必要ないと思っていても、こうして学ぶ機会があるんだ。学ぶ機会がある以上、未来で必要ないと思われていたものが必要になる可能性が1%でもある。ある限り私は教える」
「で、でも……意味ないですよ」
「仕方ない、ならばこうしよう。これから私は君に一つ質問をする。質問をする前に前置きを語るから、君はそれをよく聞いて、私の質問を答える準備をしてくれ」
ニシナは教室がわりの自宅を歩きながら、“前置き”を語る。
「いいかい、君の意見はとても貴重だ。学んで当たり前と言うものに疑問を持った。それはとても貴重で、重要で、価値のある行いだ。そこは称賛する。疑問と期待が出来なくなった時に個人の価値はなくなるからな」
コツ、コツと革靴の音が響く。
「私の教えるものに疑問を持ったのは良し。発言も良し。それで私は君を追い出したりはしない。しかし君には師を選ぶ権利がある。義務教育とは違う……いや義務教育中の学生でも一度は、自分の師匠は自分で選びたいと思う子供がいるかも知れない。誰に教えをこうか、何を教えてもらうか、それを選択する権利が君にも、みんなにも平等にある」
ニシナは意見した子供の後ろに立つと、その子の机に後ろから手を置いて、そして何も言わずとも雰囲気のみで子供に顔を上に向かせた。自分の方に向かせた。
「では、君は私の授業を放棄して、何をする?」
「え?」
「これが私の質問だ。放棄する権利は君にある、だから君に聞くしかないんだ。答えてくれるかな」
「何を……って」
子供は周りを見た。みんなこちらを見ている。
授業の時間が止まって、誰も助けてはくれそうにない。
この授業を抜け出してやる事。子供が真っ先に想像したのは家でくつろぐ事。テレビを見ながらゲームしてポテチを頬張る自分。しかしそれを言えば嫌われると思って言えなかった。
「べつ、の……もっと、役に立つ事を」
「それは私が教えるべきと考え、こうして教えているものよりも重要なことかい」
「……それは」
「いいかい」
子供の席から離れてニシナは教壇に戻り、静かに立つ。
「自分の中にある学ぶ意思を尊重してやれ。なんだっていい。なんだって学んでいいんだ。
それがお父さんも、お母さんも、これから生まれてくる子供や、クラスにいる可愛い女の子やカッコいい男の子、近所にいる優しいおじいちゃんおばあちゃん。みんなの未来を創る。
君ら自分自身が何を学びたいのか分からない内は、平等でつまらないかも知れないが私のような教師が授業をする。君たちはそれを意思を持って受ける。だが何を学ぶべきか、自身が何の役に立てるのか、将来図が見えた時にはここから飛び出して君だけの学びを見つけて欲しい。私はそれまでの時間稼ぎにすぎない。
私の中の教師像とは一個の道具に過ぎないんだ。君らが必要ないと判断すればすぐにでも捨ててくれ。
私にだって、君らにだって、未来は誰にもわからない。何が必要になるのかもわからない。
けれど私は……君たちが必要とした一つの道具としての誇りを持って、教壇に立つ。わからないともがく君たちの少しの助けになるために、誰よりも世界の将来を想像して私はここに立っている」
意見した子供は言葉に引っ張られるように自然とヘソを黒板の方に向けた。
「私たち教師は君と言う主人公が旅立つまでのプロローグを担うキャラクターでしかない。……では、もう少しわかりやすく分数の説明をしよう」
ニシナの授業は続く。
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朝の授業が終わり、最後の一人が帰るまでニシナはずっと教壇に立っていた。そしてみんなからのお礼と、意見を言った子供からの謝罪を丁寧に受け入れてから、帰した。
みんなが帰るまでずっと鉄仮面のように無表情だったが、最後の一人が教室がわりの自宅の居間から居なくなって、玄関から扉の閉まる音が聞こえた時に初めて、顔が緩んだ。
「精が出るな、仁科先生」
全員帰ったと思った自宅に、自分以外の声が聞こえてきて驚く。そして居間の入り口を見れば、壁に寄りかかって微笑みを見せる一人の青年が立っていた。
好青年を絵に描いたような顔つきと背格好をしていて、それでいて渋いヒゲを蓄え、表情は柔らかく人の良さそうな人物だった。服は襟を立てていたり、色合いが派手だったりと奇抜だが、それでも人当たりは良さそうな印象を受ける。
若々しい青年の姿を見て仁科は驚いた顔を引っ込めて、ぶっちょう面になる。
「なんだヒデさん。遊びに来たのかい」
「邪魔しに来たわけじゃない。ただ様子見と、連絡だ」
「連絡?」
ヒデ、と呼ばれた青年は居間の中に入ってくると一番近くにあった席に座った。青年のような若い見た目だが実は40代。
そして懐かしむように机を撫でる。
「懐かしいな、25年ぶりくらいか」
「ヒデさんが元の世界で真面目に学校に行っていたなら、26年ぶりだ」
「正しいな、真面目だな」
「几帳面で細かい男です」
仁科はキッチンの方から麦茶と二つのグラスを持ってきて、ヒデに振る舞う。
「で? 連絡とは何ですか? 私は何も聞かされてないが」
「【ガンマンズ】が動き出した。近辺であるから勇者学園の学園長グランさんにも情報は行った。俺にも、他の勇者の重鎮にも情報が行ったが……お前には意図的に情報が行かなかった」
「……ガンマンズか」
世間を騒がせるレジスタンスの総称、ガンマンズ。構成員の身元不明。だが唯一リーダー格の正体は分かっている。
「なあヒデさん、俺は」
「ガンマンズのリーダーは111代目、井垣葉月。そして仁科、お前は112代目の勇者だ」
「………」
「何度も疑われてきただろう。だが俺はお前のこと信頼しているよ」
「ヒデさん……」
「で、だ。ガンマンズの件で会議を開こうと思う。王都にいる勇者を集める……全員は集まらないだろうが」
「了解だ、リーダー獅子王英雄」