プロローグ 朝倉颯太の全て
4歳の彼は決心した。
誰もいない、薄暗い部屋で彼は起きた。特に不思議には思わなかった“当たり前”のこと。しかし今日は当たり前だとは思わない。
布団を畳んで、着替えると寝室と居間を隔てる襖を開けた。居間の真ん中にある位置のズレたテーブル、その上には冷えた食パンが置かれていた。
それに手をつけず、彼は足元に散乱している変なオモチャやバイク特集の雑誌、武器の雑誌、タバコの灰皿や箱なんかを踏まないように避けて外に出た。
「ジンジャに行こう。サイゴかも知れないし」
4歳の彼は静かにそう言った。崩れそうなアパートの外階段を降り、歩き慣れた道を進む。すぐ近くの行きつけの神社まで。
途中道に落ちた小石を蹴飛ばしてしまった。
長い階段を登り、鳥居をくぐり、神社に着くとまず初めに巫女服を来た女性に声をかけられた。
「あら、颯太君。おはよう。今日はいつもより早いわね」
「………」
「颯太君?」
巫女はいつもどおり挨拶をしたつもりだが、子供はそれに一瞬挨拶を返さなかった。いつもとは違う雰囲気に巫女は首をかしげる。
そんな彼女を……静かに見つめてから……彼は『おはようございます』とだけ返した。そして巫女から離れて住職の元へ向かった。
後ろでは巫女が、まるで4歳とは思えない据わった目つきを見て、しきりに首を傾げていた。
「おはようございます、センセー」
「おお、颯太君か。おはよう。今日、やるんだね」
「はい」
彼の決心を住職だけが知っている。何度も覚悟を聞いて、何度も颯太は覚悟を示し続けた。住職はもう何も言わないつもりでいる。
そうして颯太は鳥居の下に行って、そこで時が経つのを待つ。
後ろで住職と巫女が颯太に聞こえないくらいの声で話し合っていた。
「どうしたんでしょう颯太君。いつもと様子が……」
「見守ってあげよう。これから颯太君は“勇者”になるんだ」
「ゆうしゃ?」
「そう。勇者とは勝てない相手に戦う決意をするものさ」
住職のその言葉は颯太には聞こえなかった。
そして昼ご飯を鳥居のそばまで持ってきてもらい、ご馳走してもらった颯太は夕方になると立ち上がった。
住職と巫女の視線を背中に感じながら彼は階段を降りて、帰路に着く。家に帰るとドアに鍵がかかっていなかった。喉が乾く。ゆっくりと玄関の扉を開けていく。
「ただいま」
意外とハッキリと言えた。
けれど返ってくる返事は。
「んー」
スマホを弄りながらめんどくさそうに、言葉ではなく唸り声で返事した、母の声。
全身が震えるが、颯太は母のそばまで行くとそのスマホを持った腕を掴んだ。
「痛っ! ちょ、なにすんのよ!」
迫力のある怒鳴り声。元総長の彼女の声は大きくて怖い。
だが母は颯太の顔を見上げて固まる。颯太は据わった目をしていた。
「ママ」
「な、なに? と言うか、カッコつかないからオフクロって呼びなさいっていつも言って……」
「このままでオレは幸せになれるの?」
「あ?」
母が子供にガンを飛ばす。威圧的な声と顔とは対照的に、頬にはひやりと冷や汗が流れる。口元も震えて歪んでいた。
そんな母に対して、怯えを一切見せずに、ただ颯太は母を見下ろす。
「パパが帰ってくるまで待ってて」
「はあ? だからって腕を掴まなくても……と言うかパパじゃなくてオヤジでしょ?」
「うるさい」
「はあ~?」
母は子の見たことない態度と、聞いたことない声の質に戸惑っていた。
そこへちょうど父親も帰ってきた。
「ただま~……くっそ、今日も負けだ……あ?」
大柄な父はいつも通り帰ってきて居間に来ると、不可解な光景があるのに気づき、変な声を出し首を傾げた。
「なにやってんだお前。子供にそうやって掴まれるのがシュミになったのか」
「ちげーよハゲ!」
「ハゲてねーよ」
「コイツが勝手に掴んできたのよ! 待ってろとか訳のわからないこと、エラソーに……ほら! 帰ってきたんだから離せよ!」
母は子の手を振り解く。父は訳がわからないと言ったふうに、それでいてバカにしたように鼻で笑った後、寝室に着替えに行った。これから行きつけの居酒屋に行くつもりだ。
手を離された颯太は一瞬顔を暗くさせたが、手に汗握り込み、居間から玄関に繋がる唯一の仕切りのところに立つと、仁王立ちして立ち塞がった。
「はあ? な、なにしてんの? あ! と言うか今日置いてた食パン食ってなかっただろ。せっかく作ったのに捨てるの勿体ないんだから……」
「あれ、3日前のだよ」
「え……あー……そうだっけ」
「なんだなんだー、なにしてんだお前ら~」
のんびりと呑気そうに現れた父は、出入り口を塞ぐ息子の姿を見て、眉をひそめる。
「は? なにしてんの」
「さっきからおかしいんだよコイツ」
「はあ~?」
父親も颯太を見下ろして、睨む。父も元総長でありその迫力に怖気付きそうになるも、颯太は腹に力を入れて叫んだ。
「このままじゃオレ! 幸せになれない!」
両親の息を呑む音が部屋にかすかに響く。
「な、何言ってんだ。おい! どけよ、今日マーちゃんと呑む約束してんだから」
父が第一にそう言い始め、颯太を退かそうとするが颯太は力一杯踏ん張って退かない。父は苛つき始める。
同じくして母も苛ついた様子で声を荒立てる。
「なんなのよ! 幸せ? なんの話よ! ちゃんと私らは面倒見てるでしょ! 忙しい中で!」
「そうだ! ワガママ言うな! 面倒見てもらってる分際で」
「いい加減にして!」
「早くどけ!」
両親から交互に怒鳴られる。体を掴まれて揺すられるが、颯太は歯を食いしばって退かない。
そこで母がついに言う。
「言うこと聞かないと殴るよ!」
拳を振り上げてそう言った。
次に父が何かに気づいた様子で、言った。
「もしかして小学校に行きたいのか? でもそんな金ないぞ」
「ワガママばっかり……子供の幸せのために私の自由が無くなるのは嫌よ!」
その瞬間、颯太の中の何かがキレた。そして大声で言い放つ。
「二人とも、いっぺんナグらせろ!」
呆気に取られる両親。
殴り飛ばされて壁に激突する母の姿。
殴られて膝を付ける父の姿。
その姿を颯太は一生忘れないだろう。
△▼△▼△▼△▼
男はふらりと近くに初めてできた喫茶店に入った。本当はコーヒー苦手なのに。
「いらっしゃいませ」
マスターは少し貧乏っぽい感じだった。
「ん? あれ? ど、どうされましたそのほっぺ!」
そしてマスターは男の頬が腫れているのを見つけて、心配して駆け寄る。
男はそれを軽く押し退けて、力無く、入り口近くの席に座った。
「あ、あのーご注文は」
「……ブラック」
「はあ……かしこまりました」
マスターは客の様子が気になりつつも、コーヒーを淹れて、テーブルに差し出した。そしてやつれた男は一口飲んだが、すぐに噴き出してしまった。
「うわあ! そ、そんなに味悪かったですか⁉︎」
マスターはタオルを持ってきて謝る。
だがそれを止めて男は懺悔する。
「謝るのは、俺の方だ」
「え? いえ、本当に味が悪かったら……」
「俺の方なんだ……うっ、くっ」
男は泣き出してしまった。体の大きい男が急に肩を震わせて泣き出したのでマスターも困る。
「な、なにかあったんですか?」
「ううっ、ぐっ……俺は、部下を大勢率いた暴走族のドンだった……それなのに、腐るほど喧嘩してきたはずなのに……今日の、息子の拳が一番イテェ……」
飛び掛かられて、殴られた頬をさする。そこで自分が泣いていることに気がついた。頬を触る手が硬直して、頬から手を離す。
そして頭を抱えて、嘆く。
「どうして……なんで……どういうことかちっともワカラねぇ……なにも」
「えっと……とりあえずお冷やをどうぞ」
差し出された水を一気飲みすると、さらに涙が溢れ出す。
「おれがっ……くぅ……オレが、俺がダメなのはずっと、分かってた……けど、初めて人の親ってのになって……!」
何をすればいいのか、何をするべきなのか、何をしていいのか、子供にどう接すればいいのか。わからないので自分はずっと逃げていた。逃げて逃げて……逃げた。
「こんなことなら……子供なんて産まなきゃよかった」
———ガシャーン!
水を入れていたコップの割れる音が響いた。コップで殴られた男は、別に痛くも何ともないが、倒れ込んだ。
そしてそんな彼にマスターは千円札と小銭を投げつけた。
「傷害罪の弁償ならいくらでもくれてやる。だから二度とそんな言葉を口にするな」
「うっ、クッ……ううっ……」
「もし子供の前で言った時、その時は殴るだけじゃ済まない」
「ううう……ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい……」
男は、父は頭を抱えて泣きながら何度も謝り続けた。
マスターは自分の店に初めて来た、念願の初客を見下ろして、ソッとため息をついた。
父は家に帰る。玄関に置いてあった靴につまずいて転けてしまう。そしてまた泣きそうになって……そこで寝室の方から誰かの泣く声が聞こえて来るのに気がつく。
「……たしか、颯太を閉じ込めて……」
それから自分と妻は逃げ出すように外に出た。
寝室の襖を神経質のようにゆっくりと開いて中を覗くと、暗闇の中、息子が背中を丸めて泣いていた。そして息子はぐしゃぐしゃの顔でこちらに振り向くと。
「パパ~……ごめんなさい~!」
「え?」
「パパとママをナグった、手が、イタイくて……」
息子は泣きながら謝ってきた。自分を殴った拳を見せながら。
瞬間、父の中にはいろんな感情が入り乱れて、そして子に抱きついて力一杯抱きしめた。
「ゴメン! ゴメン……! おれ、おれ! どうしようもねぇよな……ゴメンな……」
「オレ、オレね……さみしくて」
「いい! 何も言わなくて……ゴメンな……ゴメン!」
父と子は泣きじゃくり、謝り続けた。
少しして寝室の隣、風呂場の方から音が聞こえてきた。勢いの強いシャワーの音。そしてしばらくして居間の方に服ごとびしょ濡れになった母が現れた。
父はその姿を見て。
「もしかしてお前、俺より先に帰ってたのか……それでずっと風呂場に」
「……は、はは……行きつけのバーに行ったら、バレちゃったのかお酒出してもらえなくてね……それでこれは、その、すぐそこの川に落ちて……」
自分でもよくわからない事を言いながら母は寝室の暗がりで抱き合う二人を見た。するともう言葉が出なくなって、二人ごと抱きしめた。
「ゴメン! ごめんなさい! 本当……私、馬鹿でさ! 本当は颯太を愛したかった! でもどうすればいいか何にも分からなくて……」
「俺もだ……父親、失格だった」
颯太は両親に抱かれて思いっきり泣いた。二人もそれにつられて泣いて、誓う。
「俺、絶対パパになるから!」
「私もママになる! ずっと寂しい想いさせてごめんね、颯太」
「颯太……許してくれるか?」
「俺もナグってごめんなさい……でも、これしかって思えなくて」
「うん、うん……」
「わかってる。わかるから……」
△▼△▼△▼△▼
———小学生時代。
「———それでボクらは家族になれました。オレがいなきゃ何もできないパパとママだけど、大好きです!」
参観日、両親についての作文発表会で颯太の両親は泣き崩れた。周りから心配されるているのも知らずに、とにかく泣いた。今ではもう着慣れたスーツが濡れるのも、おとなしめになった化粧が崩れるのもお構いなしに、二人は泣いた。
———中学生時代。
「ギャアアア!」
「ぐうっ! つ、強え……!」
颯太に殴り飛ばされた男たちは死屍累々に颯太の周りに倒れていた。そこへ颯太の友人達が現れた。
「わー、ヤベェ……今日は何人やったんだ? 全部ひとりでやったのかよ」
「さすが“錦の喧嘩師”だな!」
「やめろよそれ。錦に喧嘩師も似合わないし、喧嘩師に錦も似合わないだろ」
颯太はからかってくる友人の頭をはたいてツッコむ。横では女友達から羨望の眼差しを受けて、うざったく顔を逸らす。
「はあ、帰るぞ」
倒れた奴らをほっといて、友人達と帰路につく。
「おい颯太! あれ、お前の初恋の巫女さんじゃね?」
帰る道すがら、友人が見つけたものを見れば確かに颯太の初恋の巫女が歩いていた。巫女は巫女服ではなく普段着をして、男と一緒に歩いていた。
「あれ、こないだお前に連れてってもらった神社の、巫女さんだよな。修学旅行の時に初恋だって話してた」
「あの男だれだろ……」
「颯太君の初恋相手……あ! そ、颯太君……大丈夫?」
友人の話は全部聞こえなかった。颯太の視線は一点に、普段着の巫女と男に注がれていた。
そして歩き出して、後ろからの友人達の止める声も無視して、歩み寄った。近づくと巫女は驚いた顔をした。そんな彼女から目を離して男に向かって頭を下げた。
「彼女をよろしくお願いします!」
それだけ言って颯太は友人達のいる方向に走って逃げ出した。友人達を通り過ぎてそのまま走っていく。それを慌てて追いかける友人達。
———そして……。
ガタン
ゴトン
ガタン
ゴトン
高校の制服を都会の方まで行ってわざわざ買ってきた、帰り道、その電車の中で。
ガタン
ゴトン
ガタン
ゴトン
電車に揺られながら、久しぶりの都会の空気に当てられて、疲れて眠ろうとしていた。買ってきた新品の制服を大事に抱えて。
そうして……そして……———
ガタン
ゴト
電車の揺れがなくなり、代わりに耳障りな人々の歓声に目を覚ます。そして頭を下げた目の前に、自分の胸に目を見張るほど大きな乳房が付いていた。
「え……なに、これ」
声も女の子になっていた。周りを見れば知らない人たち。
電車の中にいたはずなのに、なんだか絵画で見るような厳かな、神殿のような場所で、人の中に自分は座っていた。制服も無くなっている。
呆然と自分に生えた乳房を見下ろす。
さらに自分のいる場所から神殿の真ん中の方に目をやれば、なんと自分がいた。自分が歓声を受けているのを、これまた呆然と見下ろすしかできなかった。
△▼△▼△▼△▼
田舎の駅のホーム。人がぽつりぽつりとしかいない駅に、一人の女性が現れる。
髪がパサパサに乱れた彼女の姿を見て、駅員はまたかとため息をつく。
そして女性はホームの床に這いつくばり、何もない線路に向かって……。
「お願いします……お願いします……息子を……颯太を返してください」
何度も、何度も頭を地につけた。
線路に向かってお願いしますと繰り返しながら。
何度も何度も……。
「お願いします……お願いします……」
そんな彼女の姿を見るスーツ姿の二人がいた。片方は女性の旦那、片方は旦那の同僚。
「…………」
黙って見つめる旦那に、“見たことある顔”の同僚はなんとか慰めようと言葉をかける。
「あれですよ! えーと、異世界転移っていうのがあってですね! 神隠しとかで別の世界に行ったんですよきっと! だから向こうで元気に暮らしてますよ、きっと!」
「……その世界は死ぬ危険がない世界か」
「え……」
「俺の手が届かない場所で、何もできない、助けられない場所で、颯太が死ぬって考えると……」
父は歯を食いしばり、血が出るほど手を握り締めた。
「やるせねぇよ………」
そうして旦那は妻を迎えに行った。体を支えて帰ろうとする。
そんな時にカツンと靴の音がした。二人は振り返って“こちら”を見る。それは彼が通うはずだった高校の、女学生の制服を着たソニアだった。
「えーっと……女の子になっちゃいました」
スカートを揺らしながら彼女は照れ臭そうに両親に向かって言った。
姿の変わった“俺”に、パパとママは抱きついてきた。俺だとわかるのかと聞くと、当たり前だと答えられる。その温かさが気持ちよかった。
そして帰る途中に中学時代の友達にも出会った。あんまり変わってなかった。
「おかえり! 颯太!」
「おかえりなさい! 颯太君!」
「でっかいオッパイだな! 揉ませろよー!」
「揉ませるか!」
男友達からふざけて揶揄われて、それをいつもみたいにツッコミを入れる。そんないつもの風景。
どんどん、真っ白に薄れてゆく。
ーーーーー
ーーー
ー
「———ハッ!」
目を覚ますと、そこは勇者学園の部屋だった。胸を触ると乳房がある。
そして周りには親も友達もおらず、ルームメイトのロザリアが隣のベッドで気持ちよさそうに寝息を立てていた。
「……そうだよな。なんで駅のホームに親父もお袋も集まってて、顔も知らない親父の同僚が出てきて、そんでなんでその同僚が急に異世界転移なんて話し出したんだって話だよな……」
全部夢だった。どこから夢だったのかはわからない。
思い返してみればどう考えても夢でしかなかった。あまりにも自分に都合が良すぎる。親父の同僚の顔も小学校の時の担任の顔が当てはめられてた。
あれは夢だった。
「…………くっ」
布団を力一杯握り込む。目からこぼれる水滴が布団に染みをつくる。
「帰りたい………」