名前で呼ぶ
「今日はもう夜も遅い。アリス嬢、今宵はこちらで過ごされると良い。案内はレイモンド君で良かろう」
国王様の薦めで、私は王宮の客間で一晩過ごすこととなった。王都まで届けてくれた御者と馬を待たせてしまっていることに不安を覚えたが、あちらも王宮の兵舎の方で一晩泊まる手筈が整っているとの事で、どちらも既にお休みになっているようだ。
オーラント様にエスコートされて王宮の廊下をゆっくり歩いていく。
「あ、あの…オーラント様は、王宮の中、よくご存じなのですね」
何か話し掛けたくて話題振ってみたけど、普通に考えて王配教育を受けているのだから、知ってて当たり前なのだと脳内にツッコミが入る。オーラント様は、そんな私の思考など気にせずに答えてくれた。
「そうですね。私が2歳くらいの時に陛下…当時はまだ殿下だったご夫妻と出会って、その時に許嫁が決まったから。5歳になってから13年間王宮と実家を行き来してるから慣れているかもしれませんね。私も、貴女に質問して良いですか?」
「は、はい…何なりと!やましい部分は何もございませんから!」
オーラント様は、私の返しに表情を崩した。何かおかしいこと言ったかしら?
「大したことじゃないのですが、さっきの話し合いでは私の事、『レイモンド様』て言ってくれたのに、今は『オーラント様』なっているから、どうしてかなと思いまして」
「それは…私、領地の外の方と今まで殆ど接したことなくて、何て呼べば良いのか分からなくて…両親も婚約者を用意する人ではなかったですから。呼び方を分けなければ行けない時は、名前で呼ぶくらいの切り替えは出来るのですけどね」
私の解答が意外だったのかオーラント様は、先程から驚かれてばかりだ。
「そうなのですね。先程の対応からは想像つきませんでしたよ」
「父から領主の跡取りとして政治的な部分は幼い頃から教わっていますから。社交の会話よりは堅い会話の方が得意かもしれませんね」
今夜の夜会を振り返り雑談をしてると、私が今夜泊めさせてもらう客間に着いた。
「私は隣の部屋を借りているから、何かあったら、頼ってください。では、私はこの辺で」
オーラント様は、手を離すと隣の部屋に行こうとする。
「オーラント様、あの!」
「どうかしましたか?」
「明日から、私の領地に一緒に来てくださるんですよね…話し合いの時は勝手な申し出をして、申し訳ございませんでした…」
私はオーラント様に頭を深く下げる。入籍自体は書類上のやり取りが中心となるため先延ばしとなるが、国王様からは事実婚として認められ、私が領地に帰るのに合わせてオーラント様も急遽来ていただく事となったからだ。
「ああ、その事…アリス嬢、顔をあげてください」
言われた通りに顔をあげるとオーラント様は、優しい眼差しに穏やかな笑みを浮かべていた。
「貴女が謝るどころか、私がお礼を言わなければならない身ですよ。私に帰る場所を授けてくださり、ありがとうございます。それだけじゃない、婚約破棄を決める時もアリス嬢は、私がどうしたいのかと案じてくれた。貴女が居てくれたから、私は納得いく答えを出して、ここにいるのです」
オーラント様は、私の手を掬い取る。
「もし、気になさるようでしたら、私の事を名前で呼んでくれませんか?私はもうオーラントではなくなりますし、夫婦になる前提の婚約中ですから。妻となる貴女には名前で呼んで貰いたい」
「は、はい…レイモンド様がおっしゃるなら……あの、レイモンド様も、私の事を『アリス』と、呼んでくれますか?」
「勿論、アリス」
自分の名前を、何も飾らずに呼ばれるのは両親以外で初めてだった。心地良い声で呼ばれるとくすぐったい気持ちでいっぱいになる。
「心配ごとは吹っ切れましたか」
「はい。レイモンド様、また明日ですね」
「はい。アリスもゆっくり休んでください。では」
レイモンド様は、踵を返し規則正しい靴音が隣の部屋に入っていく。その様子を見送って私も部屋に入った。