第90話 秋雨
ここ数日、目の回るような生徒会活動は多忙を極めていた。
いよいよ来週に迫った文化祭。準備もだんだん煮詰まってきた頃で、だからこそ最終チェックや確認作業が山積みになっている。本番一週間前は最終下校時間も十九時から二十一時へと延長されていた。
時刻は二十時半。すっかり日も落ちて月が顔を覗かせている。生徒会は見回りも兼ねて最終下校時間まで活動していた。
「さて、今日はこんなところかしらね」
音心は書類をトンと机で整える。大きな溜め息を漏らした。
「本当に疲れるわねぇ。この時期は」
「俺正直舐めてたよ。裏方ってこんなに忙しいんだな」
「うちは特殊な部類に入るとは思うけどね。教師がするべきこともこっちに回ってきてるし」
うんと伸びをする。音心と同じく愛哩も疲れが顔に出ており、未耶ちゃんに至ってはぐでっと身体を机に投げ出していた。
「悟くんはよく働いてくれてますよね。やっぱり男の子だからかな」
「そうね。重いものとかも簡単に運んでくれるし」
「肉体労働の分他の事務作業は任せがちだしお互い様だよ。……っと」
一瞬ふらっと視界がぐらつく。疲れが身体に出た。
「悟先輩、大丈夫ですか?」
「ありがとう。でもあと一週間だし、音を上げてはいられないよ」
「……辛かったら言ってくださいね? 身体を使う仕事なら文化祭実行委員の男子生徒に手伝ってもらえれば良い話ですので」
未耶ちゃんは身体を起こして心配そうな目を向けてくれる。無意識に覗いた本心でもそう思ってくれてることに、俺は何だかありがたさと同時に申し訳なさを覚えた。
今日は帰ったらすぐに寝て身体を休めよう。みんな頑張ってるんだし、絶対に成功させたい。
「じゃあ帰るわよ。……うわ、気付いてなかったけど雨降ってるのね」
「マジか……」
窓の外はしとしとと秋雨がアスファルトを叩いていた。秋の長雨とも言うし、多分帰る間は降りしきりだろう。どうしよう、傘持ってきてないや。
「アタシ傘持ってきてないわよ。みんなは?」
「俺も無い」
「わ、わたしはあります!」
「私も折りたたみ傘なら」
綺麗にガサツ組と几帳面組に分かれた。こんなことなら俺も常備しておくべきだったなぁ。
「悟? アンタ今失礼なこと考えた?」
「いや」
「会長、悟くんは持ってきてる組と持ってきてない組を几帳面組とガサツ組に分けただけですよ」
「やっぱり失礼なこと考えてるじゃない!!!」
「ちょっ落ち着いて音心ってか愛哩も何でそれ言ったの!?」
「んふふ、そんな気分だったから」
今にも襲い掛かりそうな音心を抑える。小さいように見えて意外と力強いんだよな……気を抜いたら殺られる……!
ふんと鼻を鳴らした音心はカバンを手に取って立ち上がった。
「未耶、帰るわよ。ビニール傘買いたいからコンビニまで傘に入れてちょうだい」
「わかりました」
流れるような音心の要求に未耶ちゃんは間髪入れずに了承する。まあ二手に分かれるとしたらこの組み合わせが自然か。とはいえちょっとだけ恥ずかしい。
「アタシ達は先に帰るし、鍵の始末はよろしくね。……あと神聖な生徒会室で変なことするんじゃないわよ」
「しないよ」
「そ。じゃあまた明日」
そう言って二人は生徒会室を出ていく。足音が遠くなるまで、俺と愛哩は無言のままだった。
「……変なこと、するの?」
「しないって」
「んふふ、そっか。まあまだキスだってしてないもんね」
「……」
思わぬ発言に俺は言葉を詰まらせる。
前にしたデートの時、あの時にしておけって操二に言われてたんだよな……。その日の夜に掛かってきた電話でしなかったって言った時は、それはもう大きい溜め息をつかれた。最終的には急ぐものでもないって言ってくれたけど……、それでもやっぱり頭の隅には残ってしまう。
「悟くん?」
「ん、ごめん。俺達も帰ろうか」
キスのことを振り切るように俺は帰るよう促す。愛哩も特に引き止める様子は無く、隣をついてきた。
学校を出ると、止む様子の無い雨は鬱陶しいくらいに降っていた。地面に跳ねる雨水がズボンの裾を濡らす。
「んしょ」
愛哩はカバンの中からパステルピンクの折りたたみ傘を取り出す。普段の服装が大人っぽい分ちょっと意外だ。
「意外かぁ。まあ確かに私が選びそうな色じゃ無いかも」
「今日は疲れてるし勝手に心を読んでることにはツッコまないよ」
「やめろって言われても出来ることじゃないしねー。耳が聞こえるのに物音を聞くなって言ってるようなものだもん」
折りたたみ傘を広げ、愛哩はどうぞと俺の方へ向けてきた。
「俺が持つよ」
「んふふ、ありがと」
決して大きくはないそれをバレない程度に愛哩側へ調整し、雨に濡れないようにする。
俺と愛哩は水溜まりを避けながら歩く。靴に染み込んだ水の感触が気持ち悪い。
「話の続き。何で私は好みじゃないこの傘を使ってるでしょう?」
「何でだろ。昔から使ってるとか?」
「惜しい。昔お父さんから貰ったの」
なるほど。親から貰ったものは確かに好みじゃなくても使うか。惜しいってことはそれが昔の話ってことなんだろう。
「私にとって重荷とはいえ、ここまで育ててくれてるしね。無下には出来ないよ」
「……重荷」
「うん。私って基本何でも出来るし人当たりも良いから、あの人達にとったら自慢の娘なの。だからすっごい期待されてるし、私にはそれが透けて見えるから」
愛哩は四歳の頃から心を読めるって聞いてる。そんな頃から親のエゴ(って言うと言い方が悪いけど)を受け止め続けたら、良い印象だけを抱くのは難しいか。
でも。
「多分それは普通だよ」
「何が?」
「親に対して良くない印象を持つこと。俺だって両親には自重して欲しいことだってあるし、何なら愛哩はむしろ良い子の部類に入ってると思うよ」
「……そっか。良い子」
「両親への感謝なんて、近過ぎて見えない人の方が多いくらいじゃないかな」
かく言う俺も感謝を忘れて偉そうに物を言ってしまうことがある。自分を肯定したいわけじゃないけど、それはどこの家庭にも存在するありふれたこと。愛哩が特別で酷い娘なんてことはないはずだ。
「んふふ、ありがと。励ましてくれたの?」
「余計なお世話かもしれないけどね」
「んーん、そういうところが私は好きなんだから。間違っても余計なんて思わないよ」
「そう言ってもらえると──おっと」
咄嗟に愛哩を車道から隠す。雨の日にしては速い車は道路を駆け抜け、水しぶきが一気に俺の背中へ浴びせられる。背中がびしょびしょになって制服が肌に張り付く。ちょっと気持ち悪い。
……寒っ。
「悟くん! 大丈夫!?」
「うん。水がかかっただけだよ」
「風邪引いたらどうするの! これ使って!」
手渡されたのはタオルだった。俺はありがたく受けとって背中と髪の毛を拭いた。
「ごめん、コンビニ寄って良い? 早いとこ傘買って風呂に入るよ」
「そうして。ただでさえ身体が疲れてるんだから」
俺は背中と髪を拭く時に持ってもらっていた傘を持ち直し、さっきよりも愛哩側へ傘を傾ける。俺はもう今更濡れたところで変わらないくらいだしね。
その後も愛哩は何度も俺を心配してくれた。
……役得だったと考えてしまうのは不義理かな。そんなことを考えながら家路についた。
◇◇◇
そして翌日。俺は自室のベッドで重い身体を起こしながら熱を測っていた。ピピ、と完了の音がする。
「三十八度六分……。久々にこんな熱出したな……」
俺は体温計をベッドの脇に置いて再び寝転がる。学校への連絡は親が済ませてくれており、今日は休むことになった。
頭にもやがかかった感じがする。寝ていなきゃ平衡感覚を保てないくらいには、俺は参っていた。
コンコン、とドアがノックされる。入ってきたのは泣きそうになりながら心配してくれる琴歌だった。
「ね、ねぇおにぃ……大丈夫……?」
手には冷却シートと水を持っている。ありがたい。
「大丈夫だよ。一日寝たら治ると思……ゴホッ!」
「ししし死んじゃダメだよ!? 死んじゃダメだよ!!!」
「はは、死なないよ」
わかりやすいくらい取り乱してる。そんな様子に俺は自然と笑ってしまった。
「……」
「? どうしたの?」
琴歌は何かを言おうか悩みながら手を顎に添えている。
そこまで考えて、俺はある異常事態に気付く。
……ちょっと待て。
何かって何だ? 俺は心が読めるんじゃなかったか?
「なあ琴歌」
「なっ何!? あっシート貼ってなかったね! ごめん今すぐ貼る!」
「さっきは何を考えてたの? それとも何も考えてなかった?」
「し、失礼だよおにぃ! 乙女には悩むことの一つや二つくらいあるの! さっきだって今日は琴歌が頭を撫でてあげようかなって……あっ今の無し!」
……なるほど。もし今琴歌の言ったことがさっき考えてたことなら、頭のもやにも説明がつく。
ある意味では熱のせいだけど、熱が引き起こした症状はもやだけではない。
今の俺は、相手の心が読めなくなっていた。




