客人No4 彼女の美味しいご飯・後編
実は、僕の恋人のことなんです。
彼女はギィナといって、僕の家の二軒隣に住んでいる幼馴染なんですが、ついひと月ほど前から同棲を始めました。僕らはそろそろ結婚を考える年で、一緒になる前にしばらく同棲してみようということになったのです。なぜか、彼女の両親は、それに最後まで反対していました。同棲までして、もし破局などということになれば、その後の縁談にも支障が出るというのがその理由でしたが、僕は彼女とギィナと別れる気なんてありませんでしたし、また、彼女の方でもそのつもりだったようで、半ば強引に同棲生活はスタートしました。
彼女の両親が反対していた本当の理由がわかったのは、一緒に暮らし始めて半月程経った日のことです。
それまで引っ越しの荷解きなどがあって、食事は近くの店で済ませていたのですが、やっと荷物が片付き、ギィナは僕に手料理を振る舞うのだと張り切っていました。僕も、彼女の料理が食べられると、楽しみにしていました。別々に住んでいたころ、ギィナはよくお弁当を作って来てくれて、それがとても美味しかったのです。
しかし、出て来た料理は、見た目も、味も、酷いものでした。とてもあのお弁当を作った人とは思えませんでした。ギィナは、それを慣れない調理器具のせいだと言いました。恥ずかしながら、僕は料理がまったく出来ないもので、そういうものかと思いました。だから、慣れてくればまたあの美味しい料理が食べられるのだと思っていたのです。
それから一週間経っても、二週間経っても、ギィナの料理は変わることなく、いえ、何だか最初に食べたものよりも酷くなっているように思えてきました。それでも、彼女が僕のために一生懸命作ってくれている姿を見ると、何も言えず、ひたすら水で料理を流し込む日々でした。
――ねぇ、もしかしてそのお弁当って……。
――もしかしなくても、さぁ……。
そうです、アレは彼女が作ったものではありませんでした。
――とすると……?
――誰が作ってたの?
作っていたのは義母でした。ある日、ギィナの料理を食べた直後、凄まじい腹痛に襲われて、医者を呼んだのです。食中毒でした。心配して駆け付けてくれた義父母が、彼女が席を外した時にこっそりと打ち明けてくれたのです。同棲に反対していたのは、彼女の料理の腕がばれてしまったら婚約を破棄されてしまうと思ったからだそうです。だから、結婚させてしまえば簡単に別れられないだろうと思っていたとも言われました。
――家族ぐるみで騙してたのね。
騙してた……。そうですね。でも、僕はギィナを愛しています。料理なんて、これから少しずつ覚えていけばいい。だから、僕は彼女と別れたりなんかしません、と言いました。それに、どうやら彼女の方では、その自覚がまったくないらしく、少なくとも、彼女は騙すつもりはなかったと思います。
――でもさぁ、ギィナさんは大丈夫だったの? 同じものを食べてるんだよね?
そのはずなんですが、僕の前で食べているところは見ていません。料理中にちょこちょこ味見していると、それだけでお腹が膨れてしまうと言ってテーブルには着くのですが、僕が食べているのを見ながらコーヒーやお茶を飲んでいます。僕の母もよく同じことを言っていましたので、そういうものなのかと思ってましたが……。
――で、あたしにどうしてほしいの?
出来れば、彼女の料理の腕が上がるような魔法をかけてもらいたいのですが……。
――料理がうまくなる魔法ね……。プーヴァ、どう?
――残念だけど、そういうのは見たことがないなぁ。それに、料理はやっぱり慣れっていう部分が大きいと思うな。僕も最初はうまくできなかったけど、何度も何度も練習してるうちに上手に作れるようになったし……。
ないんですか……。
そうだ! それなら、僕が、どんなものでも美味しく食べられるようになる魔法というのはどうですか?
――どんなものでも美味しく……ねぇ……。ね、プーヴァ、ちょっと耳貸して。こういうのはある?
――え? ああ、それならある。あるけど……。でもね、それは副作用の方なんだ。
あるんですか?
――あるにはあるみたい。ただ、あなたの願いが百%叶うってわけではないけど。まぁ……、八十%くらいかな。それでもいいなら二週間後に取りに来て。
部屋の中にはチョコレートの香りが充満している。
その日のおやつはトリュフチョコレートである。テナは一つ口へ放り込んでみると、店で買うようなまろやかな口どけに満足気な表情を浮かべた。それに反して、プーヴァの表情は晴れない。
「どうしたの?」
「……あまりに簡単すぎて」
「いいじゃない、簡単で美味しいだなんて」
「そうなんだけどさ……。いままでお店で買ったチョコレートはこんなに簡単に作られていたのかと思うとね」
「まぁ、お店のはさ、もっといろんな種類もあるし、きっと、中にはプロにしか作れないようなものもあるわよ」
「そっか。そうだよね、きっと」
それから二週間後の吹雪の日、その男は再びやって来た。何だか二週間前よりも痩せたように見えた。コートを脱ぐと、そんなに大きくは見えないセーターがぶかぶかに余っている。ガタガタと窓を揺らす風の音にも負けないような腹の音が聞こえ、プーヴァは男が恐縮しないように「残り物だけど」と言いながら、本当は彼のために作った具だくさんの煮込み料理とサラダを勧めた。
彼は涙を浮かべながらがつがつとそれを貪るように食べた。
テナとプーヴァはそれを複雑な思いで見つめながら、生姜入りの紅茶を飲んだ。
男の食事が終わり、紅茶を一口飲んだところで、テナはテーブルの端に避けてあった薄桃色の液体が入ったグラスを手に取った。
「そろそろいいかしら。これが二週間前に言った魔法の薬よ。いい? これを飲んだら、もう二度と飲む前の身体には戻れない。プーヴァも言っていたけど、料理は慣れてくればそのうちにうまくなると思う……。それでも飲む?」
男の目を見つめ、ゆっくりそう言うと、彼は「もちろんです」と笑った。
「わかった。じゃ、最後までちゃんと聞いてね。この薬は、あなたの耳をよく聞こえるようにする薬なの」
「えっ? 何でも美味しく食べられる薬ではないのですか?」
「まぁ、最後まで聞いてってば。あのね、やっぱり何でも美味しく食べられる薬ってのはなかったのね。でも、この薬は、副作用として、味覚をなくすのよ。だから――」
「ギィナの料理を食べても、味がわからない……」
「そう。ただ、彼女の料理に限らないけどね。残念だけど、ウチにある魔法書ではこれが限界だったわ。さっきも言ったけど、ギィナさんの料理の腕は、時間をかけてじっくり練習すればきっと上達する。料理上手なお義母さんがいるなら、習えばいいのよ。だからね、あなたが無理にこれを飲む必要はないの」
男はだいぶためらっていたが、ぶんぶんと首を振り、決心したように固く口を結んでじっとテナを見つめた。
「飲みます。このままだと僕は、ギィナの料理の腕が上がる前に彼女のことを嫌いになってしまうかもしれない。本当に大好きな彼女なんです。これさえ解決すれば、これから先もずっとうまくやっていけるんです」
その言葉でテナとプーヴァは顔を見合わせ、ほぼ同時に頷いた。
「わかった。それ程言うなら、どうぞ。ちなみに、この薬は、飲んでるうちにどんどん味が変わる。最初は甘く、次に酸っぱく、そして、苦くなって、辛くなって……。口の中の味が完全に消えるまで、何も食べたり、飲んだりしちゃダメよ」
そう言いながらグラスを手渡す。男は受け取った薄桃色の液体をじっと見つめ、一度、ごくりと喉を鳴らしてから、一息にグラスを呷った。
プーヴァの目論見通り、手作りチョコと手袋や帽子のセットは飛ぶように売れたらしい。それでなくともテナの作った品々は見た目も良く評判だったので、ここ最近は街に長居しなくともあっという間に売れてしまうのだが、十三日の売れるスピードは尋常じゃなかったと彼は興奮気味に語っていた。
男のために魔法薬を作っているうちにヴァレンタインは過ぎ去り、プーヴァはやっぱりなと思いながらも少々寂しい思いをしていた。何せ、彼は異性のために目の色を変えてチョコを買い求める女性の姿を嫌というほど見て来たのである。心の片隅では、そんな淡い期待をしないでもなかった。しかし、すでに十八日である。まぁ、テナが外出するわけもないから、仕方ないよね。そう思いながら男が食べた後の食器を片付けていると、くいくいとエプロンの紐が引っ張られる。こんなことをするのはテナしかいないと思い振り向くと、後ろ手に何やら隠し持っている彼女の姿がある。はて、前にもこんなことがあったような、と思っていると、テナは無言で小さな包みを渡してくる。見覚えのあるその包装紙をはがしてみると、中に入っていたのはアルミホイルに包まれたチョコレートであった。長いこと手で持っていたためであろう、若干溶けかかっており形が崩れていたが、それはもしかしたら元からそういう形だったのかもしれない。
「テナ……これは……?」
「見てわからない? チョコレートよ」
テナは頑なに視線を合わせようとはせず、ぶっきらぼうにそう言うと、すたすたとテーブルに戻り、無言で自分の席に着いた。プーヴァはその様子を不思議そうに見つめた後で、その一つを口の中に放り込む。テナは編み物をしつつも、彼の感想をハラハラしながら待っていた。
プーヴァは、口から衝いて出そうになる「どうやって作ったの?」という言葉をぐっと飲み込んだ。これはおそらく、直火で溶かしたな……。それに、水も混ざってしまっているだろう。甘さのなかにあるこのほろ苦さは焦げだろうか。でも……。
「ありがとう、テナ。とても美味しいよ」
そう言うと、残りのチョコレートを全て口の中に放り込んだ。お世辞にも美味しいとは言えない出来であったが、あのテナが作ったのだ。チョコの味を保っていただけでも奇跡だろう。
テナはプーヴァの言葉に少しはにかみ、頬を赤く染めながらふん、と鼻を鳴らした。
「ただいま、ギィナ」
晴れやかな顔で帰宅したロロゴはキッチンに立つギィナに向かって声をかけた。彼女は料理中だったようで、首だけを彼の方に向け「ごめんね、ちょっといま手が離せなくって」とだけ言うと、また作業に戻った。
ロロゴはいいよいいよ、と言いながら、コートを脱ぎ、それをコートハンガーに掛けると、ソファに腰を下ろした。何気なく、置きっぱなしになっていた新聞に目を通していると、トントンと包丁で何かを切っている音や、沸騰しているらしい鍋の中に何やら具材を投入する音までもが鮮明に聞こえてくる。ああ、これがあの魔女の言っていた『耳をよく聞こえるようにする薬』の作用なのだろう、と思った。吹雪いている屋外ではそれが近くの音なのか、遠くの音なのかがなかなか判別できなかったのだ。まぁ、そのうち慣れるだろう、とロロゴは思った。
「あら、この野菜、傷んでるわね……」
そんな声が聞こえてきた時、ロロゴは空耳かと思った。しかし、どうやらそれはギィナの独り言だったようで、特に耳をそばだてなくても聞こえてしまう。
いままでそんな独り言をつぶやきながら料理をしていたのだな、と何だか微笑ましく思いながら再度新聞に視線を落とす。
「やだ、こっちのお肉も腐ってるわ」
おいおい、そんなにダメな食材ばっかりなのかよ、と彼は苦笑した。まぁ、しかし、傷んでしまったものは仕方がない。もったいないが捨てるしかないだろう。
「まぁ、いっか。アタシが食べるわけじゃないし」
彼は耳を疑った。聞き間違いかと思ったが、何せ魔女の薬を飲んで『よく聞こえる耳』を手に入れたのである。まさか聞き間違いであるわけが……。
「あら、塩がちょっとだけ余っちゃったわ。新しいのに詰め替えたいし……。いいわよね、残り全部入れても。その分お砂糖入れれば中和されるわよね。それに、アタシが食べるわけじゃないしね」
ギィナは、途中、菓子やパンで腹を満たしながら料理を続けた。何かあるたびに「アタシが食べるわけじゃないし」とつぶやいていた。
彼女はこれまでもずっとこうやって来たのだろう。自分の食中毒も、なるべくしてなったのだ。自分のことが嫌いだとか憎いだとか、そんなことは一切言っていないから、悪気があってやっているのかはわからないが、これまで一口も食べなかったのは、不味いものを作っているという自覚が実はあったからだろう。彼は愕然とした。
僕はこんな女のために自分の味覚を犠牲にしたのか……。
「別にお世辞を言ってくれなくたっていいのに」
テナはそう言いながらも、まんざらでもない顔をしている。
向かいの席でコーヒーを飲んでいるプーヴァは、まさか、と言った。
「お世辞じゃないさ。だって、テナが僕のために作ってくれたんだよ? いままで君がキッチンに立ったところなんて僕は見たことがない。まぁ、今回も作ってるところは見られなかったけど。でも、初めて作ったのに、ちゃんとチョコの味がした。これはすごいことだよ」
プーヴァはチョコレートが包まれていた包装紙を丁寧に丁寧に折り畳んだ。これはプーヴァがヴァレンタイン用に買ってきたものの余りだろう。
「でもさ、テナ、チョコレートはどこから調達してきたの? まさか、街で買ってきたなんてことはないよね?」
「そんなの、貯蔵庫からいただいたに決まってるでしょ。あれはあたしが作ったものを売ったお金で買ったんだし、その権利はあるわよね?」
テナは得意気に胸を張ると、目の前のホットココアに口をつけた。
「貯蔵庫……。たくさん買ったから、減ったことに気付かなかったよ。でも、よく届いたね。チョコレートはいちばん上の段にしまっていたんだけど……」
「あたしが空を飛べることを忘れてない?」
「ああ!」
プーヴァは口をあんぐりと開けて、テナの部屋の入り口に立てかけられているマァゴの箒を見た。そうだ、テナはマァゴの箒を使えば空を飛べるのだ。
「わざわざそうまでして作ってくれたんだね……。何だか、なおさら美味しく感じてきたよ」
そう言って、胃の辺りを撫でた。
「もう作らないもん」
テナは赤い顔をして顔を背けた。
「ねぇ、プーヴァ。たとえばさぁ、あたしでも料理ってうまくなる?」
「どうしたの? 急に」
「まぁ、プーヴァがいてくれる限り、作る気はないよ。ないんだけどさ。でも、あたしでも料理がうまくなるんだったら、あの男の人の恋人もきっとうまくなると思うんだよね」
真っ赤だった顔はいつもの色に戻ったが、テナはまだ顔を背けたままだ。背もたれに肘をつき、その上に顎を乗せる。
「なると思うよ。彼女が彼のことを本当に大切に思っていれば、美味しいものを食べさせたいと思うのは自然なことだし、そう思ったら少しずつでも自分の悪いところを直そうって思うはずだよ」
「そうだよね……」
でもあの人、薬飲んじゃったからなぁ……。
テナはちくちくと痛む右手の小指にはめられた指輪をなぞった。何となくだけれど、少しだけ痛みが和らいでいる気がする。お守りって偉大だと思った。
テナのハチミツ色の髪はまたほんの少しだけ伸びた。一体あといくつ年を取ればこの髪は肩に届くのだろう。それが待ち遠しくもあり、また、憂鬱でもある。年を取るたびに自分の顔にしわが刻まれていくのではないかと、何度も鏡をチェックした。そこにはつるりとした肌の少女の顔が映し出されていて、テナは安堵の息を漏らした。
そうして、テナは十七歳になった。