出立は月光と人魂に挟まれて
時刻は夜の九時を過ぎた頃。平成の世にあるとは思えないほどの、古めかしくも荘厳な雰囲気を残している、その和風邸宅の庭にて、その「何か」は暗躍する。都心にほど近い立地にあるにも関わらずその庭は静寂が支配していた。その家の主の趣味なのか、その庭は池や松といった風情ある工夫が施され、奥に目をやると枯山水が目を引く。松の梢にかかる満月の光だけが、その庭を照らす唯一の光源であった。
さて、そんな月光に照らされる男が一人、その庭の中に目を閉じて胡坐をかいていた。
見た目はとても若く、どう見ても十代半ば。顔立ちはとても整っており、若者特有の肌荒れなど一つも見受けられない。飾り気のない黒髪は宵闇に溶け込みそうなほどに黒く、若者らしい瑞々しさと無造作な型をしていた。そしてその下の服装は、和風邸宅や和風な庭に似つかわしい和服ではなく、青い生地で腕に二本の白い線が入った普通のジャージである。月を拝む庭に座る、ジャージ姿の青年。これ以上なくミスマッチで、滑稽にも見える風景がそこにはあった。
しかし、この平成の世に置いて最も不釣り合いな物は彼の手元にあった。未だ目を瞑り、瞑想のようにぴくりとも動かない彼の手元に置かれている、黒光りする細い姿を晒しているそれは、一振りの日本刀。周囲を包み込む闇よりも、その青年の髪よりも黒いその鞘は、空から唯一降り注ぐ月光に照らされて鈍い輝きを落としていた。
すると、彼の周囲に突然小さな爆発音と共に月光とはまた異なる光源が出現した。それは桃色の光を放ち、その青年の頬を照らす。瞬く間にその桃色の光源は増え、数十個もの数に増殖してその青年を取り囲んだ。その光源の形をよく見て見ると、その形は、漫画で見るような人魂の形をしていた。空中で何の火種もないのにその不自然な桃色の炎が燃え盛り、ふわふわと怪しい動きで浮遊している。そんな炎に包まれているというのに、その青年は焦るどころか、汗一つかいていなかった。
刹那。青年が開眼したと同時に眼前に青白い軌跡が閃き、そこにあった桃色の人魂が三個ほど消えた。その青年の手にはいつの間に抜刀したのか、手元にあった日本刀が握られていた。その刃は月光を体現したかのように青白い銀色で、周囲の夜闇を鮮やかに、鏡の如く刃に映していた。
他にふわふわと浮遊していた人魂はそれを契機に一斉に青年に襲いかかるも、その刃の軌跡の上に届いた瞬間まとめて撫で切りにされていく。刃が人魂を切り裂いた瞬間、桃色の火の粉をわずかに残して、淡雪が解けるように静かに消えていくのだ。そして最後の一つの人魂が突きによって消えると、慣れた剣捌きで黒い鞘に納刀した。青年はふうと一息つくと、何事もなかったかのように涼しい表情で振り向き、その屋敷の屋根の上に目を向けた。
「まさか手ぇ抜いてないよな、晶」
声がかけられた瞬間、その屋根の上に先ほどの人魂と同じ桃色の炎が上がった。それは空中に移ると、次第に人の形をとる。完全に人の形と視認できるようになると炎は弾けるように消え、そこから子供くらいの大きさの人間が飛び出してきた。
服装は巫女服。袖には赤い飾り縫いが施され、布地は桜色。だが穿かれている袴は恐ろしく短く、膝上何十センチ程度。そこから伸びる細い脚は純白のニーソックスに包まれ、脚先は黒い漆塗りの下駄が履かれていた。しかして、その服装から少女とわかるそれの髪が月光に晒されると、火の玉から現れたという時点で普通の人間などではないことはわかりきったことではあるものの、その色はまず普通ではありえない物であった。その髪の色もまた、彼女が作った炎と同じ桃色。腰ほどはあろうかというその長髪も、消火の余波の風の揺らぎでなめらかに流れる。
だが決定的に人間と違う箇所はもう一か所あった。その桃色の頭の頂きには一対、狐の耳のようなものが生えていたのだった。その晶と呼ばれた少女は空中で一回転して庭先に危なげなく着地すると、赤く丸い瞳で青年を見上げた。
「いやいや、そんなことないですよ。光様がお強くなられただけです。いや本当に」
「そうか。じゃあそういう事にしておくよ」
光と呼ばれた青年は、胴につけるよう鞘を持って晶を見下ろす。その瞳は何かを探るようで、晶は身が縮む思いを毎回している。歳を重ねるごとに、彼の眼光の鋭さは先代とよく似てきているのである。
「それより晶。そろそろ聞かせてもらえないか。毎晩毎晩こんなモグラ叩きさせられる理由を」
「一応その『狐火』作るのも道の力を使うんですが…。まぁ良いです。先代の許可も下りましたので、お教えします」
晶はその幼い顔立ちを精いっぱい引き締めると、光の顔を見上げた。
「先日、私は浄玻璃鏡で現世を覗いていたのですが…」
「お前、また蔵に忍びこんだのか。懲りないな」
「話の腰を折らないでください。…その時、見えたのです。この町に、この世ならざる存在の気配…悪鬼の影が集まっているのを」
「悪鬼が、か」
悪鬼。父より兼ねてからその存在は聞かされていたので光はさほど驚きはしなかった。彼が産まれた玄洞院家にはそう言う魔と闘う宿命があるものだと、生まれながらにして本能で感じていたからだ。それはこうして、目の前にいる桃色の狐娘と対等に話していることからも窺えよう。だが、晶は以前こそ悪鬼ではあったらしいが、今は人に危害を加える存在などではない。現に昨日も父の晩酌の世話に追われる小間使いのようなことをさせられていたのを光は見ている。つまり、悪鬼という存在は知っているがその実物に出会ったことは、彼には一度たりともなかったのである。
「現世に蔓延びる悪鬼…。陰陽師や霊媒師の力、そして信仰力の低下により多くは滅びたとされているが、確かにこの世界にはまだ生きながらえている悪鬼がいると気く。…晶、それなのか」
「仰る通り…。『妖乙女』です」
桃色の耳をぱた、と動かして、晶はきっぱりとそう断言した。
妖乙女。その起源は平安時代にまでさかのぼると言われ、まだ若い女性の魂に取り入っては次第に魄を乗っ取り、最終的にはその魄を食い破って魔としての本来の姿として世に現れるとして恐れられていた存在である。多くの悪霊払いや陰陽師がそれの殲滅に尽力したものの、実際にその姿が現れるまでは特定するのは難しいため完全に討伐することはできなかったという。勿論、それを見極めては魂に宿るその存在を炙り出し、刀の錆にしてきた名家は存在する。だがその数は片手で数えられる程。女性の数ほどいるとまで言わしめた「妖乙女」を全て討つにはあまりにも数が少なく、この平成の世までもつれてしまったのだという。
「光様はもう十分に悪鬼の存在を探知できる心眼を養うことができました。そして刀の扱いは少し未熟ですが、玄洞院家に伝わるその刀さえあれば、並大抵の妖乙女ならば容易に討つことができましょう」
「あんま過信はし過ぎたくないもんだけどな。…けど、その『妖乙女』って名前どうにかならないのか」
「と、いいますと」
「まるで女が妖怪みたいな言い方じゃないか。ひっくりかえして『乙女妖』とかにしたほうが女からしても遺恨が残らないと思うんだけどなぁ」
「平安から続くご先祖様が決めたのですから仕方がないですよ。…そこで、光様にお伝えしたかったのは、これを」
すると、晶は縁側に一度戻ると、手に少し大き目の箱を持って戻ってきた。光は一度刀を置くと、その箱を受け取って蓋をとった。
「…これは」
そこに入っていたのは、漆黒の詰め襟と同じく黒いスラックス。胸には近所の高校である六花学園のエンブレムが刺繍されている。光はそれを持ったまま、目線だけを晶に向ける。
「…制服、だな」
「そうです。これは先代からの勅命です。…光様には明日から、私と一緒に六花学園に転校生として潜入し、妖乙女の討伐に乗り出します」
「急だな」
実の所、光は義務教育を終えてからというものの高校に進学していなかった。否、する必要がなかったのだ。悪鬼を討つ特殊な力を継承する名家・玄洞院家の長男である彼の元にはそこいらの高校教師よりも優秀なお目付け役が、家の伝統や悪鬼の存在、対処法なども併せて教えてくれるからである。学力なら、普通の高校生よりも遥かに上回っている。
「俺、長い事家の人しか触れ合ってなかったからちょっとコミュニケーションとか不安だな」
「大丈夫です。私のこのコミュ力で一瞬で教室に溶け込ませてみせましょう!」
「頼りにしてるぜ。晶」
「…心配しなくても大丈夫ですよ。光様」
晶は、光の固く大きな、しかし指は細い手をその小さく柔らかく暖かい掌で優しく包むと、柔和な微笑みを投げかけてきた。
「光様の身は私と……『童子切』が護りますから」
藍色の夜空から一切の阻害なく降り注ぐ月光が、手をとりあう二人の背中に降り注いで、枯山水の上に長い影を落としていた。その童子切と銘付けられていた地面に置かれた刀は、相も変わらずその月光を静かに青白く反射していたのだった。