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砂と明滅

作者: ゆん

 宿舎の窓にぶら下がり、一階のひさしの上に降りるとすぐ近くの太い枝に飛び移る。そこから反対側の枝に移動し、馬小屋の屋根に飛び降りる。

 少女の眼下には、乾いた土と家畜の臭いをはらんだ、柔らかい闇夜が広がっていた。

 誰もいない。ただ風が吹けば、砂っぽい空気とともに大通りの喧騒が届いてくる。楽器の鳴らす陽気な音楽。平たい屋根が並ぶ向こうの、こうこうとした灯りと人の動きが、馬小屋の上からでもぼんやりと見える。あんなに楽しそうなお祭りに、どうして自分だけが参加できないのか。そんな理屈はなかった。


 絶対に行ってはいけない、と言われた。

「本当はこんな日にここに泊まりたくはなかったんだ」とお父さんは言った。

 何で? と聞いてもはっきりと返してくれず、ただ「自分たちはこの町の人たちとは違う」ということだった。けれどそんな曖昧な理由で少女が納得するわけもなかった。


 歩けば歩くほどざわめきは大きくなっていく。日干しレンガの高く積まれた狭い裏道を何度も引っかかりながら進み、ついに本通りへ出ると、そのあまりの眩さと熱気に目がくらむ。

 暗がりにちりちりときらめく光彩の中を、たくさんの人が歩いていた。

 馬や羊の声。幅の大きな道の両側で、食べ物や生活用品や刺繍ゆたかな布を広げたお店がどこまでも並んでいる。

 市場を歩いたことは何度もあった。中継地に停泊したときだ。だけどこんな大勢の人の流れを見るのは初めてだった。

 あまりの人ごみに、誰か連れてきたらよかった、と思ったが、そもそもみんなに隠れてここへ来たのだった。

 きれいな服で身を包んだ同い年くらいの子供たちが目の前を横切り、さらさらの髪のつんとする香料がにおった。

 少女の足は、裏通りをちょっとはみ出したところで動かなくなっていた。強烈な色彩とただよう粉じんに気が遠くなったがそれ以上に、不安と心細さのためだった。

 通りの向かい側を見ると、土釜の上に巨大な鍋が置かれ、客の目の前で焼き飯が作られ始めた。たちまち肉と野菜と米の焦げる香りが辺りにただよい出す。

 激しい火にあぶられてじりじりと照り上がる黒い鉄鍋を見つめながら意を決し、ようやく一歩を踏み出しかけた時、

「何してんだお前?」

 少年だった。

 精霊が着ているような真っ白い絹の衣に身を包んで、なのに油のしたたる串焼きを豪快に頬張りながら、こちらを見ていた。背は同じくらい。

 きれいな目だ、と思った。

「見ない顔だな、遊牧民か?」

 首を振る。

「じゃあ、商隊の人?」

 うなずく。

「砂漠の手前の町だから、ここ」

「式典には行かないのか?」

 それには、首を振ることもうなずくこともできなかった。ただ黙りこくった。

 少年はしばらくこっちを見ていた。何かと思うと、首飾りが気になるようだった。

「これがどうかした?」自分でもなぜつけているのか分からない物だった。ただ親からつけていろと言われてもらったものだ。

「いや」

 少年は通りのほうを向いた。「それより、何でこんな所でじっとしてるんだ」

 人ごみにひるんでいた、と言いたくなかったので理由を探す。

「……お金ないし」しかしこれも本当のことだった。

 そんなことか、と少年は大げさに驚く。

「ちょっと待ってな」

 そう言って近くの屋台へ走り寄ると、厚底の鍋をかきまぜている男に話しかけた。すると男は彼にスープの盛られた皿を手渡した。少年はもう一つねだったようで、両手に皿を持って帰って来た。

「どうして? お金払ってないのに」

 少年はどうしてか得意げに笑った。「内緒」

 どよめきが起きて、人の群れが通りの両端に寄った。そうしてできた広い道を馬の列がゆっくりと通る。きらびやかな装飾の施された祭壇が引かれていく。後方になると人を乗せた馬も現れる。大きな冠をかぶり分厚い布と飾りに覆われている。人々の注目を浴びながら、祭りの中心へ向かっていく。

 お祭りは初めてだった。

 目にする全てのことが、話にだけ聞いて想像していたものよりもずっと迫力に勝っていて、その刺激に頭がくらくらするのを感じた。

「食べないのか?」

 ふっと我に戻る。そして手元の、よく分からない練り物や切り身が色々煮込まれた茶色いスープを、おそるおそるすする。どろどろした触感と塩辛い味がした。

「ここ初めてか?」少女のそんな様子を見てか少年は言った。小さくうなずくと、「じゃあ案内してやるよ」と言って手をつかむ。

「えっ」

「はぐれるなよ。人が多いから」そう言って群れの中に飛び込んだ。強引に手を引っ張られ、慌ててついて行く。

 少年の人ごみの中を進む技術はすばらしく、水中の魚のように人をすりぬけながら、目当ての屋台のちょうど前で群れから飛び出す。

 色んなものを食べた。食べずらいものもあったが、揚げて棒に巻いた砂糖菓子と、中にいろんなものが入った丸いお肉はおいしかった。

 お腹がふくれると広場で出し物を見た。旅先で王様が異国の女性と結婚する影芝居。主人の合図に合わせて動きを変えるねずみ、何本ものナイフを同時に操る芸。

 主人の笛に合わせて駆けたり回ったりする小動物を見つめていた横顔が振り向く。

 背後で子供たちの騒ぐ声が聞こえた。


 そのとき、祭りの中心の広場から巨大な音がした。太鼓の音だった。再び音楽が鳴り出した。歓声がわっと高まる。

 それを聞いて、しきりに広場に目をやっていた少年はとうとう飾り屋の前で、「すぐ戻る」と言って駆け出してしまった。

 取り残された少女は、並べられた飾りの前にしゃがんでそれらを眺めた。

 色んな種類と形があった。金属のほか木彫りや竹や土でできたもの。丸いものや四角いもの。花の模様をしたものや鳥が獣が彫られたもの。

 自分の首飾りと見比べてみる。

 ひし形の木板に人物の顔のようなものが彫られている。改めて、じっくりと模様を見るのは初めてだった。神様だろうか。

 足元を黒い影が覆った。少年が戻ったのかと思い顔を上げると、お店の主人らしき男がこっちを見ていた。

 こわい顔だった。

「何だお前、その首飾り」

「え?」

 わたしに言ってるの、と思った。

 男は顔を引きつらせた。そしてわたしに向かって大声で怒鳴った。ーーーーの人間が何でここにいる、と言ったみたいけどよく聞き取れなかった。

 人の流れがぴたりと止まるのが分かった。少女はただにらまれた獲物のように身体を強張らせた。

 やがて色んな声が聞こえてきた。

「異教の人間がいるって?」「今日がどんな日か分かってるのかよ」

 刺すような視線を全身に感じた。明らかに危険が迫っていると分かっていても、恐怖に凍りついたように脚は動こうとしなかった。涙がじわりとにじんだ。

「何やってんだ」少年の声が鋭くさえ渡った。腕にぎゅっと熱を感じる。日に焼けた手。「こいつは俺の友達だ。何か文句あるのか」

 不思議と少年は一人でその場の空気と張り合っているようだった。店主はたじろいだ様子だったが、「しかし」とつぶやいた。

 それからどう走って、その場から離れたか分からない。気付くと、少年と出会った最初の場所に戻っていた。

 道は薄暗く、残り火の灯りがちかちかと点滅している。巨大な鉄釜は役目を終えたように油を光らせて、遠くから太鼓の音だけが鳴り響いている。

 そして少女は、嗚咽を上げて泣いていた。一度引っ込んだ涙はもう一度溢れ出すと、今度は止まらなかった。

 何を言ったかもよく覚えていない。言葉にならない悲痛を、少年は黙って聞いていた。

 それから少女は、ことの発端たる首飾りを首から外しその場に捨てようとして、

「それはだめだ」と少年に止められた。彼は少女の腕をつかみ、少女はそれを振りほどこうとし、二人はしばらく喧嘩をするようにもつれ合った。

「分かった。分かったよ」息も荒く、二人とも疲れきってぐったりしたときだった。

「どうしてもと言うんなら、それは俺がもらう」少年は言った。

「え?」

「その代わり、これをもらってくれ」

 俺のだと言って、右腕につけていた腕輪を外して少女に渡した。

 びっくりするほど細かい模様が彫られていて、それにきらきらと輝く腕輪だった。

「交換だ。ならいいだろ」

 少女は仕方なくうなずいた。しかし、少年がどうしてこんな高そうなものをくれるのか分からなかった。

 太鼓の音は激しさを増し、乾いた夜の空気を急き立てるように震わせている。

「祭りは二日あるんだ」少年は思い出したように言った。

「知ってる」

「……明日も来る?」

「夜明け前くらいに出る」

「そうか」

「……」

「ここからは帰れる?」

「うん」

 少女はそのとき初めて、少年が香水のにおいを漂わせ、うっすらと化粧をしていることに気付いた。

「行かなくていいの?」

 少年は一度だけうなずくと、さっと広場のほうへ振り返り、そのまま走り出した。

 白い後ろ姿は、一度も振り向くことなく暗闇の向こうに消えていった。腕に巻かれてぶらぶらと揺れている首飾りはいつまでも目に残った。腕輪は右腕にはめようとしたが太さが足りず、肘のあたりでぴったりとはまった。

 もと来た道を歩く。行きよりも暗がりは深く、慎重に進んでいても何度もけつまずいた。

 馬小屋の上から木に飛び移り、二階まで戻る。中は静かだった。みんなには気付かれてないようだった。布団に入るとすぐに眠たくなった。


 *


 青い朝焼けがまばらに生えた草に影を落としている。

 大地はひび割れて、風はきびしく、吐く息は砂気を交えて白く流れていく。

 穏やかな上下の振動を感じながら、粉っぽいにおいをすい込む。家に帰ってきたみたいで安心すると同時に、寂しさとむなしさを感じる。

「どうした寝不足か? しゃきっとしろ」後ろから叱咤の声が飛んでくる。

 逃げるように脱出してきた早朝の町はまだ今日のための熱気を静かにたたえているようだった。

 後ろを歩くお父さんが呼ぶ。

「なに?」

「次に泊まる町でもな、ちょうど大きなお祭りがあるらしい」

「……それで?」自分でも驚くくらい気だるい声だった。実際、喋るのもおっくうだった。

 おもむろに、低く間延びした音が、ぶるぶると大気を振るわせた。

 そのお祭りには行っていいぞ――というお父さんの声は、その巨大で柔らかな音に塗りつぶされた。馬が目覚めるような声でいなないた。

 振り返る。

 いまや手のひら大の大きさになって、地平線と近いところで転がっている、あの町からだった。

 初めは、牛が鳴いているのかと思った。それから笛の音だと気付いた。

 少年が吹き鳴らしているのだと、誰に言われるでもなく分かった。

「朝からにぎやかなことだな」呆れるように誰かがつぶやく。

 右腕の肘の辺りをつかむ。上着の下のごつごつした確かな感触。

 前方を見た。

 ひび割れた大地が果てしなく広がっていた。

 音は途切れることなく、波立ちながら、荒野の隅から隅まで行き渡らんと低くうなり続けた。

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