四・死んだ感じってどんなですか?
闇の中に小柄な老婆が座っている。
そのすぐ前には木製の古い机があり、乱雑に本や巻物などが載っていたが、小さな水晶球を置いている周囲だけは物がなかった。
最小限の照明は二つの燭台に乗った三本ずつの蝋燭の光だったが、それらの燭台はふわふわと気ままに浮いていた。
「……来たようです。全知の呪文を短時間に六回使用しました」
しわがれ声はどこへ向けて放たれたのか……。周囲に生き物や亡者の気配は一切ないというのに。
「はい。準備はできております。死なずに探索をすればいずれここに参りましょう。その時こそが奴らの最期でございます」
老婆は不気味に笑った。
「……仰る通りにございます。機会はまだまだ有りますれば、たとえ此度は敗れても……必ずや奴らが死ぬ日をご覧に入れまする。お待ちください、我が主よ」
断言すると同時に、蝋燭の炎が風もないのに震えた。
烈しい殺気を受けて。
***
ヴァンは猛烈な速度で空を駆けていた。地面を蹴ってからまだ一分も経っていないが、なお加速している。
急にルーシャの頭に直接、自分のものではない言葉が割り込んできた。
(お嬢様?)
(ちょ!? 待ちなさい! 心話呪文なんて何考えてんのよ! あたしの心覗こうとしてるの!? このバカ! スケベ! 変態! 今すぐ解除しないと縊り殺すわよ!?)
(ですが高速飛行中に普通の会話は不可能でござ……いいから聞け! 大事なこと教えるから!)
(敵戦力とか言わないでしょうね? そんなの着けば分かるんだからどうでもいいわよ! とにかく解……)
(正解だけど不正解。全知が探知されたのを探知した! 以上! 着くからすぐ目を開けろよ!)
(あ! 着地は優しくしてよね! あれ半端なくこ……)
(速度落として着地なんてしてたら、飛び道具や魔法で狙ってくださいって言うも同じだろうが! 捕まれ!)
***
パティは手中の石から説明しがたい何かを感じた。
最初の休憩が終わり、移動を再開したすぐ後だった。
それは温度の変化でもないし、振動とか脈動とかでもないし、気持ち悪いのとも違うし、およそ手のひらで感じることができる感覚にないものだった。いや、味覚や嗅覚や視覚聴覚などのどれにも当てはまらない、知らない感覚。それがどんどん強くなっていく。
「え? え? な、なに? なによこれ!?」
思わず大声を出していた。
「パティ! なんだ? どうした!?」
レンダルが声を聞きつけて走ってきた。他の子供たちや山賊たちも足を止めて注目している。
何となく気恥ずかしくなり、次にこの石を見られたくないと焦り、直後に最大化したその感覚に手を開こうとしてできないことに気づき、すぐさまそれは来た。
轟音と衝撃……と言っても耳が痛くなったり、吹き飛ばされたりするほどのものではなかったが……。
「~~~~~~!」
「ほらお嬢様、さっさと目を開けて自分の足で立ちやがれ!」
「~~~~~~~~~!!」
「もうしっかり見られてんだよ! 目を開けねえなら教えてやる。剣が六、子供が十、縄! 十分だろう。落とすぞ!」
「~~~~~~~~~~!!!」
「分かった落とすからな! っておい、なんで首にぶら下がんだよ! てか首がいかれる! あー、えーと……」
言うまでもなく、矢のような速度で飛んできて轟音と共に着地したヴァンとルーシャであった。しかしルーシャは固く目を閉じて言葉にならぬ声を上げ続けてヴァンの首にしっかり捕まったままであるため……非常に何というか……みっともない。
「……うぬ?」
レンダルがその奇妙な男女に声をかけようとし、言葉探しに失敗して間の抜けた声を出してしまった。
とはいえ、後の対応は早かった。瞬時に地を蹴ると腰の剣を抜きざま、足を地につけたときには闖入者を間合いに捉えており、そこからさらに加速しつつヴァンの首を横薙ぎに斬りつけた。静止状態からの二歩で七メートル以上の距離を軽く跳んでいた。
「あのな! 別に攻撃されることは想定済みだから何とも言わねえよ。けどよ、せめて口上ぐらい聞けや! あとルーシャ、避けるついでにわざと別々の場所に飛んだ。三歩と五歩ちょいでお前を斬れる奴らがいるからさっさと戦闘体制に入らねえとオレが困るんだ。いい加減立ち直れ」
「ふざけた奴だがやるな若造。無詠唱での瞬間転移を自分と女それぞれ別座標を指定して使うか。それもオレの剣を避けるついでに……」
レンダルは言い終えると同時に、背後のヴァンに対して振り向きざまの薙ぎ払いを放った──深く歩を踏み出して間合いを詰めながら。右脇腹を狙う剣が届く前に敵の脇をすり抜ける方向に跳んで距離を取る。
薙ぎ払いの回転をそのままに元の向き、即ちヴァンのいる方を向いて止まる。
「名乗っていいぞ、魔術師」
「ヴァン・ディール。よろしくな、おっかねえおっさん。で、あんたは何なんだ? その動き、ただの山賊ってだけじゃ納得しねえぜ」
喋っている間にヴァンの周囲の中空に氷の矢が十八本形成されてゆき、三本ずつが別々の軌道と不均等な時間差でレンダルを襲った。
「ただのレンダル、家名は捨てた。ゴミクズまで身を持ち崩した元傭兵だよ。槍の間合いだな。魔法戦士とか言う奴か?」
答えつつ無造作に右手で剣を振るい、複雑な軌跡を描かせて十一本の氷の矢を弾いた。同時に左手が腰に差していた短剣を抜き放って三本を逸らした。残る四本は始めから動かない限り当たらない軌道で飛んでいたので無視し、わずかに早く役目を終えた短剣を放り捨てるように投擲した。ヴァンは半身になって銀色の筋としか認識できない短剣を避けた。
舌打ちして袖からワンドを出すと即座に振り下ろして槍に変化させる。
「魔法戦士って言えば聞こえはいいが、両方極めようってのは弱くなる近道だと思い知った。オレの槍はただのおまけだよ」
ここにきてようやくレンダルの左右にひとりずつ仲間が駆けつけたが、対して見もせずに言い放つ。
「手を出すなよ。邪魔にしかならんから、オレの剣の軌道にいたら遠慮なく斬る。そのつもりならせいぜい良い死角になるような場所にいろ。嫌なら女を殺しに行け」
言葉の途中から散歩するような軽い足取りでヴァンに歩み寄っていった。唐突に後方に跳ねた。その足跡を囲むように地面から漆黒の剣、槍が突き出していて、わずかに遅れて鈍器や斧も殺到するが、その頃レンダルはもたもたしていた仲間を蹴り飛ばし、反動でヴァンの右方へ回り込み地に足を着けて走りだした。
「いろいろと鬱陶しいな! ふたりだけで楽しもうぜ!」
ヴァンは槍を複雑に動かして中空に光る印を描く。
「転がれ!」
レンダルは怒鳴ると自分も飛び込むようにして地を転がった。レンダルが通るはずだった空間を、印から伸びた光の奔流が虚しく撃ち抜いていた。回転を利用してすぐさま起き上がり、不規則な軌道でヴァンへの間合いを詰めていく。
一方、生死のかかった警告に反応しきれなかったふたりを、上空から雨のように降り注ぐ無数の光の矢が削り貫いて地面まで穿った。致命傷を与えたと確信するやヴァンはレンダルを睨む。死が確定したふたりめがけて降っていた、あるいは降ろうとしていた光の矢が進路を変えてレンダルを襲った。
すぐさまその全軌道を正確に予測する。回避不能な、前後左右上空あらゆる角度からの隙間なき一斉攻撃。凄みのある笑いを見せ吠えた。
「見事だ! だがオレを殺せはせん!」
「いや無理もう詰んでる。さよなら」
迷わず跳んだ先にはヴァン。前方面から高速飛来する十本の光の矢を剣と短剣で三本逸らしたが、七本をまともに食らった。深い傷、しかし急所はすべて外していた。
ヴァンは短距離転移の高速詠唱による離脱を選んだ。無詠唱が理想だが、元が緊急用で圧縮されている呪文をあえて無詠唱できる段階まで修練してはいなかった。転移先は視界内のさほど遠くない場所に限定されるのだが、選んでいる余地はほとんどなかった。光の矢がまだ飛んでいたためだ。その軌道上に飛んでしまえば当然自分の呪文の直撃を受ける。
レンダルは転移した魔術師を見失ったそのままに右方、子供たちから遠ざかる方向へ跳躍した。
一方ヴァンは、転移した先で直後に左肩を斬られて膝をつき、その剣の持ち主を見上げていた。
「が……ぁっ!!」
「名乗らぬぞ。しかし、加減をしたことは言うべきだろうな」
初老の大男だった。白髪と伸び放題の白い髭を風になびかせながら見下ろしている。
これまで感じたことのない寒気に震えがおさまらない。
痛みで呪文に集中できない。直感だが無詠唱しかこいつには通じない。
今呪文を使えば精度も威力も落ちる。加えて呪文使用直後のマナ喪失によるほんのほんの僅かな隙が死をもたらすことが予見できてしまっていた──実のところ、その種の隙を突けるのは高位の竜族や魔族のような化け物だけというのが常識なのだが、常識が通じない人間というのが稀に存在するのは知っていた。例えば目の前の剣士のような。
思考を加速させて最適な対応を模索する……精度を大幅に犠牲にした高威力破壊系呪文の無詠唱に賭けるしかないという結論に辿り着いたとき、かけられた言葉に耳を疑った。
「消えろ。あの女ごとな」
「頭……」
遠くからそう呼びかけたのはレンダルだった。今ようやく振り向き、彼の速度をもってしても一秒ほどを要する距離のふたりに目を向けた。
頭と呼ばれた男はヴァンの肩口に食い込んでいた剣を持ち上げ、その剣で自分の右肩をとんとんと軽く叩き始めた。
「しんどいな。いきなり一回死んじまったよ……手加減に礼を言っとくぜ……」