二十一・大暴れの応酬ですか?
ヴァンは失態を呪った。手にした瞬間、海のど真ん中にでも飛ばしてしまえばよかったのだ、あの短刀を。
偽竜を操るための短刀と、それを手元に呼び寄せる効果を持つ品があることまでは分かっていたが、その形状を知らなかったのも痛かった。
(せっかくの不意打ちも台無しで、偽竜を使われるとはな……ぼやいても仕方ない。準備もしてあることだし、やることやるか!)
全知の呪文で先ほどの小さな女中の状態を調べる。
健康、精神状態も正常。どうやら、操っていた魔法は効果を失ったらしい。
(で、偽竜が動き出すわけか……被害を最小に抑えるには……)
呪文の効果でふわりと浮かび、加速しつつ上昇してさっきまでいた店を探す。
すぐに分かった。なぜなら、煙を上げて崩壊している最中だったからだ。若干の猶予がありそうだ。
(必要のありそうな呪文を可能な限り遅延かけて待機しておく!)
***
ヴァンが準備を整えている頃、ビダーは不気味な貌を目前にし、すくんでいた。
巨大な頭部とそれを支える首だけが見えていた。
何かの本か絵画で見た竜に似ていないこともない。
その皮膚は銀を曇らせたようなねずみ色で、表面のそこここに意味の分からない古代の文字か記号のようなものが記されている。
頭部の大きさと今いる屋敷の高さから考えて、立った状態での足から頭頂部まで五メートルくらいか。
「我を呼び出せし者よ、命令せよ」
「な、なに……?」
「我は汝の命令に従おう。殺すも、壊すも、腐らすも、思うままにするがよい」
「く……くくくくく……」
ようやくビダーは状況を理解した。
「では命ずるぞ! 蠅のようなヴァンを殺せ! できうる限り残酷な手段で!」
「心得た。しかし、我はヴァンを知らぬゆえ……」
偽竜はビダーを鷲掴みにした。
「な、何をする!?」
「汝の感覚と記憶を借りる。我と融合し、我に命令を遂行させよ!!!」
絶叫しながらビダーは、縦に開いた偽竜の胸に喰われた。
***
偽竜は天井を突き破った。
瞬時に偽竜はヴァンを、ヴァンは偽竜を認めた。
衝撃波のような咆哮を上げて周囲の建物を破壊しながら、その歪な翼で空に舞い上がった。鼻先から尾の先端までおよそ九メートルほどあるのが見て取れた。
「手抜きのできる相手でもなし、問答無用の先手必勝。最初から全力だ!」
初手は高速詠唱の神剣召喚の戦術級攻撃呪文だった。
戦術級とはその名の通り、戦場で使うことを想定して開発された、長射程、広範囲、高威力の攻撃呪文である。当然ながら、マナの消費も通常の呪文の比ではない。
青玉ひとつがマナをすべて失い灰となってなお、ヴァンのマナを大量に削ったこの呪文、その効果とは全長三百メートルに及ぶ巨大な霊剣による、絶対の斬撃を繰り出すと言うもの。
宙に浮いたばかりだった偽竜は、突如出現した輝く刃の斬り上げをその身深く受けた。一瞬遅れて衝撃波が襲い、剣の軌跡を追うように斜め上へ吹き飛ばされた。
輝く癒えない傷がその皮膚に現れていたが、そこが切り離されて落ちるようなことはなかった。その代わりに、傷口は迸るマナの噴出口と化していた。
魔法生物である偽竜に蓄えられたマナが尽きたとき、その体は砂のように崩れ落ちる。偽竜に残された時間は最長で三十八時間弱となった。
「いい位置だが、もう少し離れてもらおうか」
高速詠唱による混沌大瀑布の呪文、これも戦術級。
偽竜の平衡感覚が狂い、いつの間にかヴァンのいる場所が上になっていた。そして次の瞬間、巨大な滝に飲まれていた。
しかし皮膚を叩いているのはただの水などではない。ただの水は、魔力を練りこまれた銀と鉄の混合物からなる皮膚を腐食したりはしない。
流れているのは強酸の液体だけではなかった。腐食されつつある弱った皮膚に沁みるようにして、不快感を催す蠢く魔力までが侵入してきていた。それは目標とする深度に到達すると急速に燃え尽き、同時にそこを構成する金属を石に変えていった。
溶かされる激痛と不快感に吠えながら、偽竜は抗えずに流されていった。地面と並行に近い方向に。
世界の上下感覚が回復するのは唐突だった。強酸の滝も消えていた。
ヴァンがずっと遠く見えた。
偽竜は全力で口を開いてそこからマナを吐き出した。それは本来ならすべてを腐らせる猛毒の霧となって吐き出されるはずだった。
何も出ない……機能に異常を来たしていることを偽竜は認識し、現状での最善手──逃亡を選んだ。
「それも織り込み済みなんだ。わりぃな」
ふたつめの青玉が灰化するのを落とし、新たな青玉を取り出して次の戦術級呪文……高速詠唱で漆黒の門を使った。
ヴァンに尾を向け全速で逃げはじめた偽竜の加速がぴたり、止まった。のみならず、すさまじい加速で落下していく……後方へ。
後方に存在する漆黒の球、それが恐ろしい力で偽竜を引き寄せていた。
「そこに最後の戦術級だ」
通常詠唱による歪みの生成の呪文を、漆黒の球の中心周辺に配置する。
ヴァンは青惨酒、マナの実の最上級果汁、その後に竜胃種を飲み込み、緑真珠をひと袋まとめて口の中に流し込んだ。
「けふ。これ飲むのに慣れちまうってのも……なあ……」
緑真珠は本来、飲むものではない。
しかし、胃を魔法的に強化して、魔力を込めた品を飲めばたちどころにマナへと変換し、吸収させてくれるのが竜胃種だった。
偽竜が漆黒の球体に飲み込まれた。そしてすべての歪みの生成の発火点に触れ、呪文が効果を現した。
苦しい!
押し潰される!
重い!
体中の血液替わりの流体が、体の中心に凝集される!
偽竜は生物ではないため、それによって意識がどうなることもなかったが、次に襲った異変は、偽竜の意識をも飲み込んで荒れ狂った。
偽竜の心臓に当たる部位は一定間隔を置いてマナを体中に送り出し、それによって魔法生物としての機能を維持していた。
その間隔が不規則に伸び縮みする!
数えることすら追いつかないほどの高速になったかと思うと、一時間以上間隔が空く──この時間経過の混乱こそが歪みの生成の本質に近い。
ただ、外部からはわずか一分にも満たぬ効果時間が三十三時間にも及び、その中で与えられる破壊的な苦痛とマナの喪失は紛れもない本物であった。
最初の神剣の傷から三十三時間分のマナが流出し、偽竜は弱りに弱っていた。
ようやく三十三時間の牢獄を抜け、今は体の中心と重なっている漆黒の球の中心に破壊の意志を向けると、自らの体内を粉砕しつつ、漆黒と圧力地獄を霧散させた。
偽竜はヴァンの姿を探し、激怒と狂喜と殺意と憐憫を込めた視線で睨んだ。
ヴァンはその視線を浴びただけなのに、腹部に百発の拳撃を受けたかのように体を折った。呼吸が止まり、激痛を声に現すことすらできない。
体力と生命力とマナが同時に消耗させられ、さらに酷い嘔吐感がこみ上げてきて口を抑えた。吐けば必ず大量にマナをもっていかれる……それだけは絶対に避けるべきだった。
(やって……くれる……じゃねえか……!!!)
偽竜は射出された後なお加速する矢のごとく、ヴァンに急接近していった。
ヴァンは無詠唱で瞬間転移してその軌道のわずか外に移動すると、腰に差していた剣を引き抜いた。その刃を斜めにして軌道に重ねる。
偽竜が通過した。剣はその表面を浅く、しかし確実に傷つけた。直後、衝撃波でヴァンは吹き飛んだ。
「我が求むるは、鋭き槍……」
安定を立て直しながらのヴァンの声に応え、魔剣はその姿を槍に変えた。長さ、太さ、重さ共にヴァンの愛用している槍と一致した。
しかしそこに込められたマナと魔力の強さが桁違いなのは確かだった。
「……これこそ自在武器だよなぁ。よくまあ総督の手元にあったもんだ」
偽竜は急制動をかけ、衝撃波で飛んでくるヴァンを待った。
浅く腹を捌かれかけたが、これまでの攻撃に比べればかすり傷だった。
掴もうとした両手にヴァンは収まることなく、心臓のあるはずの位置目がけて槍を突き入れ、中を抉った。
抉ると同時にマナを送り込むと、穂先から崩壊の魔力が溢れ出し、偽竜の体内を侵食し始めた──ほぐし、崩している。全知でその様子を観察したヴァンは、これは使えると感じた。
偽竜は再び激昂したが、すぐに槍は引き抜かれ、その持ち主は背中側に回った。
そして右の翼を穂先で切り裂きつつ崩壊の魔力を送り込んでいき、槍を半回転させて背後から打ちのめそうとしてきた尾を突き刺した。
だがその勢いでヴァンは偽竜の背中に叩きつけられ、偽竜は尾を何度も振り下ろして自らの背を打った。
ようやく首が回って頭部がそこを見える位置に来るまで、ヴァンがすでに消えていることに気づかなかった。
「お礼だ……」
口の端から血を流したヴァンの槍が首の腹側を薙いで、その傷口に崩壊の魔力を流し込んだ。
偽竜はここでようやく悟る。魔力を使った攻撃ならば、マナを集中させて打ち消せばよい。
マナを制御してどうにか全身の崩壊を止めたときには、ヴァンは無詠唱で大火炎召喚の呪文を使っていた。
偽竜の真下に丸い穴が開き、そこからこの世のものとは思えない超高温の火柱が立ち昇って哀れな犠牲を包み込んだ。
偽竜はマナを最大限に動員させてその火炎を遮断しようとした。
しかし炎から放たれる熱だけで皮膚は赤熱を通り越して白熱し、熱は内部まで深く侵食した。
「さて、今度は冷やしてやるよ」
ヴァンは無詠唱で氷山顕現の呪文を使った。
自身の水属性のマナが強く呪文と共鳴するのを、ヴァンはこのとき初めて実感した。
大火炎召喚の呪文が効果を終了すると同時、偽竜の下に新たに開いた穴からは、鋭い氷の槍が信じがたい速度で無数に生えてきた。
それは成長しながら偽竜を穿ち、削り、なおも成長して巨体を完全に包み込む氷山を形成した。
「凍……すべてを静止せよ」
ヴァンの声で氷山の表面が一気に白く曇った。
急激な冷却で、空気中の水蒸気が氷山の表面に霜となって貼り付いたためである。
もちろん冷却は内部にも及んでおり、氷山は内と外に体積を増しつつ際限なく冷えてゆき、呪文の持続限界と共に粉々に砕け散った。
偽竜の体表に無数の亀裂が生じていた。もはや体表の強度は、せいぜい木製の扉よりいくらか丈夫といったところまで弱っていた。
「焼轢嬲殺腐呪穿削斬殴噛飲喰」
偽竜の言語が破綻していた。
しかし偽竜はヴァンを喰うことを思い定めていて、大きく口を開いてその牙を突き立てようとした。
偽竜の死角で光条の呪文の印を描いていたヴァンは意表をつかれた。迷わず振り返って開いた顎を近づけてきたからだ。
とっさに槍を振るったが、下半身が口の中に隠れ、噛み合わされた。
守りの護符が音を立ててひとつ爆ぜた。致命傷を肩代わりするというその効果に救われた。
牙は皮膚を突き破る前に止まり、血は一切流れていない。噛み合わせが阻害されている内にそこから逃れる。
そこに地上から五本の杭が射ち出され、偽竜の体を三本が貫き、派手に砕いて大きな傷跡を刻んだ。
長射程攻城兵器の一斉射撃だった。
ヴァンは顎から離れると、外れて通り過ぎた二本の杭を瞬間転移させ、その軌道上に目標がいる位置に戻した。二本も偽竜の体を派手に破壊した。
「遅延解除解除解除解除解除解除!」
遅延待機状態の攻撃呪文がまとめて撃ちだされた。
効果の異なる呪文の群れは別々の部位にあたり、それぞれが一定の破壊という役割を果たした。
ヴァンは偽竜がまさに停止しようとしているのを感じていた。
偽竜の急所を調べると、それは双眸の間から少し下だった。意図的に生物の急所を避けようとしたのだろうか。
槍でそこを抉ろうとした瞬間、偽竜の胴体に不自然なものを見た。
胸部の亀裂が一瞬開いたとき、その内側に人間の腕らしきものが一瞬見えたのだ──記憶に新しい短刀を握りしめている。
「……自業自得だ、ラドイッツ」
突いた。狙い過たず、槍は急所を貫き、そこで破壊の魔力を撒き散らした。
強烈な違和感に槍を引こうとし、腕が言うことを聞かないのに気づく。マナを送るのをやめたにも関わらず、槍、腕、体とマナが吸い出されていくのを感じた。マナだけではない、体力と生命力も同時に吸われている。
思い出した。アガトナの朗読した文献の一節を。
(弱った偽竜に留めを刺そうとしたそのとき、呪文で偽竜を撃った魔術師に異変が起きた。呪文の流れを利用して、ありとあらゆる種類の活力が偽竜に吸収され始めた)
まさに今ヴァンを襲っている状態そのものだ。偽竜は吸収したマナで活力を回復し、生命力と体力を変換して攻撃のための魔力を精製していた。
敵を弱らせ自分の力を得る、それは理想的な攻撃方法。
時が経つほど不利になる。神剣の傷はまだ偽竜のマナを奪い切れない。
「無駄にくれてやるマナはもうねえんだ……悪いが終わらせてもらう……」
多重詠唱で三つの呪文を同時に詠唱する。
加速の路、雪華の芽、射出の各呪文だ。
加速の路の効果で自分と偽竜の間に誘導通廊を確保、最大限まで活性化した水のマナを込めた雪華の芽で、攻撃用の小さな氷塊を九つ浮遊させ、射出の呪文でそれらを一気に偽竜に向け撃ち出す。
射出からさらに加速された氷塊は偽竜の体のそこここに深く食い込んだ。爆発にすら見える破壊をまき散らしながら。そして芽吹き……芽が極低温の冷気を吹き出しながら偽竜の体表向けてその身を伸ばしていく──その周囲を完全に凍結させながら。体表に近づくと芽は花開く……純白の花が徐々に開くのに要するマナは、熱をひたすら奪うという形で供給されていた。
熱がなければ生命を、生命もなくばマナを奪う。マナの喪失はヴァンから奪うマナの量を遥かに凌駕した。
偽竜の全身に大きな亀裂が入り、それは際限なく伸びて全身に行き渡る。
偽竜の双眸に最期の炎を見た。ヴァンは即座にそれに反応した。
小妖精の月の呪文強制効果を使用し、無詠唱の瞬間転移で偽竜とビダーを別の場所に転移させる。
次の瞬間……
天高くから太陽がふたつになったかのような白光が降り注いだ。
ふたつ目の太陽は国土の隅からでも目撃されていた。ある老人はそれを見ると跪いて祈りだし、ある子供は眩しさに家に逃げ込んだ。
偽の太陽は短い命を燃やし尽くし、何の前触れもなく消えて失せた。