十八・槍使いとしても一流ですか?
ラドイッツと水面下の戦いを始めてから二度目の朝が訪れようとしていた。まだ太陽は気配すら見せず、相変わらず空は暴君たる月の圧政下にあった。
ヴァンがいるのはフリードリヒ邸の一室だ。ところどころに荷箱が積み上がっていて、普段どんな用途で使われているか易々と想像できる。
使用人に掃除をさせるという提案を断ったので、書き物机の周囲くらいしか片付いていない。それで十分なのだ。紙を一枚、覚え書き用に広げて座っている。
偽竜を調べろ。
差出人不明の手紙にはそう書かれていた。聞いたことのない単語だった。
それを今から調べるつもりだった。もちろん、全知の呪文を使って。
(全知……)
「全知術式、諸要素初期化済み、鍵または指示を待つ」
全知の返答は術者の頭の中に一瞬で展開される。
(鍵は偽竜、存在を探知)
「該当、零」
(もう少し基本的なことから行くか……鍵は偽竜、条件なし、知識取得)
「該当、なし」
(……鍵は偽竜、条件は、その単語を発音した者、ヴァンを除外)
「ビダー・ラドイッツ、ローレル・メアリ・マグネリア、ニールセン」
(やっと来たか。しかし全員ラドイッツと関係者じゃないか。偽竜ってのはオレを引っ掛けるための造語の疑いが濃くなったか……並び替え、早く発言した順)
「ローレル・メアリ・マグネリア、ビダー・ラドイッツ、ニールセン」
(あの魔女ってことは、書物から知った可能性もあるが……鍵は偽竜、条件は単語が含まれる書物)
「該当、零」
(てことは、よく閲覧されるような資料は探すだけ無駄ってわけだ。人目にほとんど触れない書物は全知が調べられないからな……)
悪夢の味とすら言われる青惨酒を一本丸呑みする。小瓶でなければできない芸当だ。覚悟していても眉間に皺が寄る。
(鍵は偽竜を含む会話の時期、範囲はローレルとビダー)
「五月五日より八日の各日、五月十一日、五月二十一日」
(鍵は今日の日付け)
「五月二十二日」
すべての日付けを控える。
(会話内容は大雑把にしか分からないんだったな……まあ、一応……鍵は会話の推移、範囲はローレルとビダー、先ほどの日程、日付け明示は略)
「ローレルが偽竜について報告、ビダーの質問とローレルの返答が四往復、ビダー歓喜、ローレル懸念を表明、ビダー命令、ローレル報告、質問と回答三往復、ローレル警告、ビダー一喝……」
(停止。ふう、警告が必要なものか。危険物、武器か、毒か……いや、名前から考えるに魔獣などの怪物の可能性があるな)
偽竜なのだから、竜に似た生き物かもしれない、というわけだ。
(鍵は竜と共通点のある生物、範囲はビダー所有の建物内および敷地内すべて)
「該当なし」
(外れか? 鍵は竜と類似部分のあるもの、範囲は同じ)
「該当なし。警告、類似の範囲が不明確、推定影響度、中」
全知で探れるのはこれくらいかと考え、筆を置き、覚え書きを見る。
「ローレルかビダーに直に聞くのは無理。記憶を読む呪文は、隠したいと思っている事柄について引き出せないし……」
扉が控えめに叩かれた。誰何するとフリードリヒだった。
「ちょうどよかった。入ってくれ」
「寝ていないのか?」
「眠らずにいても平気な薬を使ってる。なあフリード、偽竜ってのは……知らないよな?」
「知らないな。偽の竜? 怪物か?」
「竜に似たような怪物の心当たりは?」
「私は賞金稼ぎだぞ。怪物に賞金が懸かることはそうそうない」
苦笑に苦笑を返す。
「その手のことに詳しそうな知り合いはいないか?」
「……一昨日のアガトナ師くらいだが、急ぐなら仲間全体に協力を求めようか?」
「いや、目立つことはしたくない。アガトナさんに内密で頼めるか?」
「やってみる。報告があったとき君が不在の場合、どうすればいい? 急いで知りたいのだろう?」
「急ぐと言っても緊急性がまだ分からない。そうだな……この机の上に概要だけでもしたためた紙を置いてくれるか?」
「そうしよう。まあ、すべては日が昇ってからだが……私はもう一寝入りする。無理しないでくれ」
「ありがとよ。おやすみ」
***
朝の街道でひと仕事終えたヴァンは、伸びをした。
「やっぱり体を動かすのはいいねぇ。たまにはだけど」
槍をワンドに戻し、しまう。その足元には護衛の戦士たちが点々と倒れている。全部で六名、誰ひとり死んではいなかった。
「さて、御者さんよ、左手に見える森まで頼むぜ」
「あんた! この馬車はラドイッツさんの……」
「知ってるさ。あんたよりも詳しくな。証拠を集めてるんだ。嫌なら席を譲ってもらうだけだ。力づくでな」
「く……」
馬車は森の中に完全に姿を消した。
***
「到着が遅れている行商は何組だ?」
「十一組です。それに商船が一隻、消えました」
「やってくれるな魔術師……ヴァンの居所はまだ掴めぬのか?」
「報告は、街にはいない、そればかりです。宿に戻った形跡もありません」
「役立たず共が」
「旦那様!」
「今度は何だ?」
「ご報告を……お屋敷及び店に配置している者、それに取り引き先や権力者の元に潜らせている者まですべて、雇った兵が……消えました」
「馬鹿な……手練も少なくはないはずだ」
「並以上に腕の立つ者は残っています。それらを除くすべての並以下の兵が消え失せたのです……」
「……残りの手勢は、十三人か……」
「いえ、ひとり、いなくなった熟練の傭兵が……斧の将軍です……」
「……仕方ない、賞金稼ぎを動かすぞ。罪状は連続強盗殺人だ。賞金は五……いや、八百! さらに、弱みを掴んでいるものは脅し、奴に恨みを抱いているものはけしかけろ!」
***
ヴァンがルーシャたちの部屋に出現したのは、昨日と同じような時刻だった。
「……パティ、もう十回だ。五回ずつに分けて」
「はい!」
ルーシャはパティの魔法を弾く構えを見せ、実際に集中して弾きながら言葉を交わした。ホッグはそんなふたりを、袋入りの駄菓子を頬張りながら見ている。
「今日も順調?」
「順調も順調。あんまり順調過ぎてラドイッツの野郎、切れやがったぜ。賞金稼ぎの溜まり場でオレの似顔絵を発見した。八百金貨だとさ。へっへっへ」
「あんたって……あたしたちどうするのよ?」
「ここの店主に事情を説明して直談判してみた。おっさんもラドイッツを快くは思っていない。三人はオレと無関係ってことでそのままいていいことになった。逆に、宿を出るようなことはしないでくれ。しばらくの辛抱だが、不便をさせてすまん」
「まったくね。まあ、やることがあるだけマシだけど」
「オレの名前は宿帳から消して、ここにはなるべく来ない。来たとしても姿を見られないようにし、短時間で立ち去る。そういうことになったから、頼んだぜ。それから、練習回数はもうパティの感覚に任せる。じゃな」
そのまま瞬間転移したヴァンに呆れながらルーシャは呟いた。
「もう少しいなさいよ。少しは気を利かせて欲しいもんだわ」
***
深夜、ニーズの街の中央を流れる運河。川で運用するには限界の大きさの船が入港していた。
港の隅、明かりすらほとんどないそこで行われていた荷の積み下ろしは完全に中断し、船員や人夫はほとんどが武器を持ったままで倒れていた。合わせて三十人はくだらない。
「まあ、準備運動はこんなもんか。用心棒の先生、あんたは何で手出ししなかったんだい? オレにとって好都合だったのは確かだが少々、納得が行かなくてね」
「美学だ」
「は?」
「真の戦いとは強者と強者の一騎打ち。それを邪魔されたくはなかった。ヴァンというそうだな。ヘインを討った魔術師も同じ名だったが……」
「それもオレだよ。魔術師が本業でね」
用心棒の双刀使いは片眉を上げた。
「魔術師が何ゆえ、槍で戦う?」
「節約してんだよ。無駄な魔法を使ってて、いざというときに困らないためにな」
「ならば宣告しておく。槍を置け。私にお前の槍は通じん」
「確かに、あんたは強そうだ」
「それでもなお槍を構えるか……何のつもりだ?」
「槍を使いながら魔術も併用する。始めようぜ」
「なるほど。見せてもらおう」
同時に距離を詰める。
槍による力任せの振り下ろしを双刀が受け止め、横に流しつつ踏み込んだ。
ヴァンは体ごと回転しながら斜めに踏み込み、同時に後ろ手の石突きで胴を狙った。
低く屈んだ用心棒は脛を狙って左右から刃を走らせたが、何もないはずの場所で止められ、斬ろうと武器を引いてもまったくその透明の壁は超えられなかった。
「結界か……」
器用にころんと後ろに転がるとその後をまず槍、次に凍てつく霧が襲った。霧はわずかに触れただけにもかかわらず、手足の先の感覚がなくなるまで体温を奪った。
双刀使いは後方に跳躍して、かがり火の上に立ち、すぐにそこを降りて刀身を熱して手足を温め直した。
「とっさの判断でそれをできるあたり、さすがだな」
暗闇の中から無数の光の矢が襲いかかった。かがり火の明かりで呪文の光を発見するのが遅れた。
周囲を確認し、一箇所だけあった矢の死角に迷わず飛び込んだ。そのまま前に転がり足が地についたところで殺気を感じ、勢いを殺さずさらに一回転すると、後方で頭上から突き出された槍の穂先が砂に吸い込まれた。
落下中のヴァンの顔めがけて掴んだ砂を投げつける。腕でかばうヴァンの死角に潜り込んだ用心棒は、急所を連撃で狙ってきた。
「曲刀の間合いに捉えた。離れることは叶わぬと心得よ!」
間合いを外そうとするヴァンに追いすがり、攻撃を途切れさせない。斬りつけた刃が、受け止めた槍の柄で火花を散らした。
角度と速度を変え、不規則に虚実を織りまぜて繰り出される斬撃に、ヴァンの防御が少しずつ間に合わなくなってきた。
言葉の通り、完全に曲刀の間合いだった。そして技量の差は間合いを外す隙を与えなかった。
防御に全力を傾け続けなければ、一瞬で致命傷を与えられる。目まぐるしく舞うような斬撃を加速させながら用心棒は吠えた。
「選べ! 死か、虜囚か?」
「勝利を」
「その道は、ない!」
槍が双刀を揃えての強打に泳いだ。
直後の左右同時の突きは、ヴァンの首の両脇を正確に滑り、血の赤が暗闇で踊った。
すべてがゆっくりに見えていた。
ヴァンが笑っている。
血飛沫は勢いを増している。
用心棒も笑った。
首を切り離して、雇い主に届けよう。
報酬はいかほどか?
三百といったところか?
ふと疑問を覚えた。
なぜ眼の前に星空が広がっている?
なぜ体が言うことを聞かぬ?
意識が永遠に失われる寸前、ヴァンの声が届いた。
「あんたの武器に呪いをかけた。その刃が敵の肉に触れると、あんた自身を傷つけるように、な」