十七・手始めは反撃からですか?
(やれやれ、苦労はしたが準備はようやく整った。肝心要の伯爵を引き込めば、後は楽になることだろう)
準備に随分かかってしまったので、昼下がりの紅茶の時間のこと。ヴァンは目星をつけた中で一番の有力者、ホーンブル伯爵の屋敷を訪ね、門番に封をした手紙を預けた。
形式的な手順を踏んでから、中庭の白い円卓を挟み、伯爵との会談が始まった。
「ヴァン・ディール君、最初に言っておくが、私は余生を静かに過ごしたいと思っているのだ。すまないが、君の力にはなれないだろう」
そう言いつつ、伯爵は手ずから紅茶を注いで手渡した。礼を述べつつ飲もうとすると、受け皿の上に小さな紙の切れ端が隠されているのに気づいた。
「聞かれてはいないか?」
と小さな文字で綴られていた。
「ひとまず、お話だけでもできればと思い、うかがった次第です」
ヴァンは覚え書き帖と筆記具を取り出すと、何気ない会話をしながら
「魔法でお話しする許可を」
と書いて伯爵に見せ、すぐに墨でそれを塗りつぶし、適当な日付けと金額の羅列を書きつつ伯爵の顔に注目した。首が小さく縦に振られた。
(心話の呪文をかけさせていただきました。考えたことを伝達する呪文です)
(知らぬでもない。心に秘めたことまでは読めない。そうだったね?)
(はい)
(しかし奴には子飼いの魔法使いもいる。いかなる方法で必要な情報を集めているのか、予測もつかん)
(黒魔法の使い手が蝙蝠、魔術師が虫を使って街中の情報を集めていました。あとは、それなりにできる盗賊がひとり)
(なんと!)
(ご安心ください。すべて対策済みです。我々の弱みとなるようなやりとりは見聞きできません)
(たった三人なのか。名前を教えてもらえぬか?)
(契約者がイスコット、魔術師はローレル、盗賊はニールセン。ニールセンには数名の手下がいます)
(ローレルが? 彼女はれっきとした旧家の出で……)
(広く信用も得て、賞金首の死体検分をしていますね)
(君は私が想像したより優秀なようだ……)
(ありがとうございます。これでもヘインの一味を壊滅させてますので)
(それが信じられぬのだが、いったいどうやって?)
(幸運の助けがあり、心臓を止める魔術で。お疑いでしたらどうぞ賞金稼ぎたちの協会に上げられている報告書をご覧ください)
(君を信じていいのだな? つまり、本気でラドイッツの打倒を目指していると)
(はい。ご存じないかもしれませんが、心話では嘘をつけばすぐに分かります。私は六日後までにラドイッツの力を奪い、牢に入れてご覧にいれます)
(なるほど。六日後、という部分にかすかな自信の揺らぎを感じた。もう少しかかるかもしれないと思っているわけか)
(準備は十日分しました)
(私についてはどの程度、知っているね?)
(四年前の夏にラドイッツの企みで、隣国と通じているとの汚名を着せられ、以来、政治権力をほぼ奪われたこと。ラドイッツに敵意を持っているものの、脅しで何もできずにいること。一番心配しているのは、王都にいる子息ご一家の行く末)
(調査能力も一流か。すべて正確だ)
(実のところ、調査のための呪文が最大の特技でして)
(私に何を望む?)
(まずこちらにご署名いただきたいと。ラドイッツの悪行を証言すると言う宣誓書です。奴を捕縛し、裁くときに証言していただきます。ついでにこちらにも。私を支援し、ラドイッツを無力化して牢に入れたあかつきには、報奨金を与えると言う宣誓書です。金額も記す欄があります)
(もし署名した後でそれが奴の手に渡ったりすれば……)
(心配はいりません。これを隠し場所から取り出せるのは合言葉を知る者のみ。合言葉は私しか知りません。そして合言葉を私が誰かに教えた場合、取り出すことは永久にできなくなります)
(……騎士の名前が三……彼らも君を信用したわけか)
(有力商人おふたりの次に正騎士ペンドルトン卿を説得したのですが、この方が一番手間取りましたね。このお話が終わったら、男爵と騎士もうお三方にも署名していただくつもりです。名前を挙げましょうか?)
(不要だ、心は決まった。筆を貸してくれ。報酬は金貨千五百枚でよいかな?)
(十分です。伯爵のご署名があれば、後の説得はずいぶん楽になるでしょう)
ホーンブル伯爵は流れるような書体で二枚の誓約書に署名をした。魔法のかかった墨汁はすぐに乾き、ヴァンはそれらを丸めてワンドの中に落とした。もちろんワンドにそんなものを入れる穴などないのだが。
「では、あとは朗報をお待ちください。もし事前にご支援をいただけますなら、トンプソンズ・スイートに伝言を届けていただければ受け取りに上がります。失礼いたします。良い香りの紅茶についてもお礼申し上げます」
伯爵に伝えたとおり、残りの協力者たちは短時間で署名をしてくれた。
***
「なあ、聞いたか? ヘインの首を取ったヴァンって奴の次の狙いは、あのラドイッツらしいぜ?」
「ラドイッツに手を出すとは、ヘインを倒していい気になっているんじゃないか?」
街のそこここで噂が流れ始めた。一方、ラドイッツの保護下で闇の商売を手がけていた者たちは、異なる噂を聞きつけてラドイッツの部屋を入れ替わり立ち代わり訪ねていた。
「今度はあんたか、トーマス。手短に頼みたい。昨日と今日でもう十八人目なんだ」
「ビダー、あんたが貴族位を得るために闇の仕事から手を引くって聞いたが本当か?」
「デマだ」
「あんたはそのために、オレたち闇商人の名簿をまとめていると聞いた。あんたの身辺で動きが慌ただしくなってるのはオレも知ってるんだ。どうなんだ?」
「見当違いだ」
「ヘイン殺しの魔術師を抱き込んだそうじゃないか。チェーンエイジ伯爵を騙し討ちにして濡れ衣を着せ、その後釜に収まろうって話だって分かってるんだ。何年か前にホーンブルをその手で追い詰めたが、最大の支援者を裏切るとは思わなかったぞ」
「偽情報だ。すべてその魔術師ヴァンの仕業だ」
「そうか。なら何でそいつはまだ生きている? あんたが本気になれば、相手が魔術師でも生卵と同じように叩き潰せるだろう?」
「奴は手強い。どうやってかこちらの手をすり抜け、好き勝手に動いていて掴みようがない。相当にできる男だ」
「女子供の連れがいるだろう。なぜ狙わない?」
「その泊まっている宿が完璧に護られている。呪いにすら近い魔術によってだ。一度は暗殺者を二階まで送ったが、そこは巨大な迷宮となっていたらしい。打てる手を探しているのだ。これ以上、私の時間をすり潰さんでくれ」
「……お前の言葉、ひとまずは信じておこう。だが、オレの裏をかけるとは思うなよ?」
ビダー・ラドイッツの神経質そうな目が閉ざされ、扉が乱暴に閉められる音がしたので、苦々しげに呪詛の言葉を紡いだ。すっかり温まってしまった葡萄酒の杯を持ち上げかける暇もなく、扉が叩かれる。
「会わんぞ。疲れたのだ。疲労で睡眠を取っていると伝えろ」
「私です、ニールセンです」
「……先に言え。入れ」
盗賊は音も立てずに入室した。
(やはり……機嫌が悪いのか……当然か……)
ニールセンは過敏になっていた。これから起こることのほとんどは疑心暗鬼の影響を受けてのものである。
「ニルス、失態を取り戻すような収穫はあったか?」
(迷宮に誘い込まれたことが失態か? オレは力を尽くして余人の限界を超えたというのに……)
「いえ、そこまでの報告ではありません」
「では何だ、くだらぬ報告は聞き飽きたぞ?」
ビダーは執拗にニールセンに絡む。ただの八つ当たりなのだが、疑心暗鬼の呪文に蝕まれている盗賊の心にそれはどう響くのか?
「奴がモスフレイムの魔法具店で、大量の買い物をしました。これが目録です」
「目を通せというのか? そんなくだらぬ紙に? 無能ばかりだ、揃いもそろって……」
「魔法具は奴の計画の一端を掴ませてくれる手がかり。くだらないとは心外です」
「ニルス、お前は何年目だ? 二年や三年ではなかったと記憶しているが思い違いか?」
「……申し訳ありません」
「結果だ。結果を持って来い。情報を集めるなら手がかりなどと言わず、結論だ。決定的な証拠だ。それができないのは無能の証だ」
「お言葉ですが、いかにお仕えする身であっても、愚弄されて喜ぶ趣味はない!」
「……謝罪の次の言葉がそれか?」
(駄目だ……冷静にならねば……冷静に……)
「盗賊風情がよく吠えたな。消えろ薄汚れた腐れ犬。重要な事実を掴むまで屋敷へも店へも立ち入るな。よいな?」
「……お言葉通りに……」
「このままでは本当に偽竜を使うことになりそうだ……」
「偽竜?」
「消えろと言ったはずだが?」
***
覚束ぬ足取りで貧民街を彷徨う。ビダーの言葉が渦を巻いて負の感情を掻き立てた。
道端に座っている乞食にわざと躓きながら彷徨う。ほとんどの者は無反応か、口の中で呪詛の言葉を唱えるかだったが、稀に怒声を飛ばす輩がいた。だが殺気を込めた一瞥で沈黙するのが常だった。
それが余計にニールセンを苛立たせた。
(狂ってやがる。狂ってやがる。狂ってやがる。このニールセン様を腐れ犬と呼んだのか、あの痩せ豚は?)
乞食の命を繋ぐ金受けを、わざと蹴飛ばしてみる。反応が大差ないので、苛立ちながらも同じ事を繰り返さずにはいられなかった。
そのうち、五人の目付きの悪い痩せた少年たちに道を塞がれた。
「楽しいか? 血と肉と命を長らえさせる最後の情けをぶち撒けるのは?」
「悔しいか? 力ないためにオレ様の足を止めることもできぬのは?」
「腐りきった野郎だ……」
「……今、何と言った?」
反応した。心が。体が。疑心暗鬼の呪文が。腐の言葉を直ちに犬と結びつけたのだ。
引き起こされた感情は、一言で言い表せない。
苦々しさ、怒り、悲しみ、興奮、そして狂喜。あるいは狂気か。
「あの痩せ豚と同じだなガキ……醜く、食えるような肉すらない。豚としてすら欠陥品だ」
「……来いよおっさん」
ニールセンは強いのか? それとも弱いのか?
ヴァンに敵わないのは明らか、ルーシャを倒すにも不意打ちが必要だろう。ビダー配下の手練たちにも遥かに及ばない。
しかし──路地裏で折れた奥歯を吐き捨てながら、最後に見下ろしていたのはニールセンだった。ふたりは殺し、三人は死ぬより辛い苦しみを味わっていた。
「腐れ犬などと言うときは、ようく相手を見定めてからにすることだ」
(そう。それは許せないことだ。ラドイッツは許してはならない)
ふらふらとその場を離れかけた盗賊の目に、日陰を求めて這いずる蛇が映った。立ち止まり、その動きをじっと見つめる。
(蛇……蛇……どこかで聞いたような……)
思い出そうとするのを酔いが妨げ、しかしかけられた呪文がその考えを頭から払うことを阻んだ。
(蛇……ではない。何か似たものだ……蜥蜴……竜……竜……ああ、偽竜、か。偽竜と、言っていたな)
ニールセンはいつしか微笑んでいた。どこまでも暗く、覗き込めば切り刻まれそうな、邪悪な笑みだった。
***
「旦那様、今度は薬商人の……」
「もうたくさんだ! 今日は誰にも会わん! 仕事で不測の事態が起き、その対処に追われていると言って追い払え!」
ラドイッツは長椅子に身を沈めて杯を煽った。このときはまだ知らなかった。本当に仕事への妨害がなされていたことを。
***
日没からほどなく、ヴァンはルーシャたちの部屋へ立ち寄った。
「お帰り。首尾はどう?」
「悪くない。むしろ非常に良いというべきかな。パティは?」
「九回じゃ物足りないって。あと二十七回できるって言ってる」
「できるよ!」
「……確かに。よし、九回成功で休憩を挟んで三周な」
「本当なの!?」
「今日は一回も失敗してないだろ?」
「でも変な飛び方してばかりよ?」
「ある意味それは仕方ない。ワンドと体質のせいだ。微妙なさじ加減で呪文が影響を受けやすいんだ。今は制御が不安定に見えるかもしれないが、ものにしたときには自在に呪文を操れるようになる。ま、そこまでちと長いがな。さて、んじゃオレは作戦に戻る。無理するなよ」
「顔出しただけ?」
「ああ。明日また来る。そうそう、ホッグがいじけてたから問題ないときは部屋に入れてやってくれるか? じゃな」
「ああ、ちょっと待って。これ、あんたに」
ルーシャは小さく折り畳まれた紙切れを手渡した。表にはヴァン・ディールと書かれている。そして開くと中には──
「偽竜を調べろ? ……何のことだ?」