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双極魔術の迷い人──双極魔術第一集  作者: 青朱白玄
五章:反ラドイッツの傾向と対策
16/22

十六・話の流れが変わってませんか?

 傘を持って来ればよかったと思ってから考え直す。この世界に傘はないようだ。少なくとも街行く人々は誰も傘を差していなかった。

 日傘の方はあるのだろうか……そんなことを考えつつ、給仕が無償で貸してくれた布で顔とローブを拭う。水気をたっぷり含んだローブは相変わらず重かった。

 布を当てるくらいでは気休めにもならない。早く乾かすつもりなら魔術を使えばいいだけだったし、すぐに礼を言って布を返した。



 天気の悪さも無関係と言わんばかりに、竜の手羽先と言う名の酒場は盛況だった。

 給仕に案内されたヴァンは、奥の特別室に通された。

 中にはすでにフリードリヒと、昨日面倒を起こしたふたり、それから見覚えのないふたりの合計五人が席についていた。ヴァンが入ってきても立ち上がったのはフリードリヒだけだった。


「よく来てくれた。手紙を読んでくれたようで安心したよ。掛けて欲しい」

「へえ、かたつむりは治ったみたいだな」


 昨日、剣を突きつけてきた戦士とかたつむりにされた魔術師は、睨むような視線を向けていたが、ヴァンは意に介さない。


「紹介させてもらう。まず昨日のふたり、剣士がコルテオで魔術師がエドウィンだ」


 ヴァンはふたりが何か言うかと思って目をやったが、コルテオは口の中で小さく何事か呟いただけ、エドウィンは剣呑な視線を絡ませてきただけだった。


「そっちの連接棍使いはコルテオの親友デクスター、賞金稼ぎだ」

「ど、どうも」

「最後がエドウィンの先生であるアガトナ師」

「この度は不出来な弟子めが大変迷惑をかけた。申し訳ない」

「まあ、気にしちゃいないさ。食い始めていいか? 腹が空いてよ」

「待ってくれ。先にふたりから話が……」

「フリードリヒ、魔法で窓から投げ落とされたオレとしちゃ、先に謝罪するってお前の提案はまだ受け入れがたいんだがな」

「僕もだ。なあヴァン・ディール、謝れと言うなら先に手本を見せちゃくれないか?」


 ヴァンはエドウィンの言葉を聞くと黙って椅子から立ち上がった。警戒した五人に注意を向けることもなく、おもむろにエドウィンに深く頭を垂れた。


「悪かった。お前が火球爆発の呪文で仲間もろともオレと女の子を火だるまにして、ついでに高級宿に放火したかどで賞金首の仲間入りをしたり、愉快な牢獄生活を楽しむ機会をふいにしてしまって、本当にすまなかった」


 ゆっくり頭を上げて、完全に固まっている五人に目を合わせもしない。

 のんびりと椅子に掛けてから、改めて全員を見渡し、最後にエドウィンに向かって不敵な笑いを見せつつ、ヴァンは言った。


「手本としちゃ十分だったと思うが。それで、あんたは何を見せてくれるって?」


 エドウィンは真っ赤になった。


「舐めやがって……てめえいい加減に……」

「いい加減にするのはおのれじゃ!」


 エドウィンの喉笛を指三本でしっかり掴んで揺さぶりながら、怒鳴ったのはアガトナだった。魔術師とは思えぬ力で弟子の体を激しく揺さぶり、咳き込むのを軽くかき消す大音声で続ける。


「儂に報告したのと話が違うが、先方の言い分の方が正確なのであろう? 儂はおのれをどうすればよい? もう一度かたつむりになりたいか!?」

「あ、アガトナ師、それくらいで……」

「なあ爺さん、変身強制を解除したのはあんたかい?」


 ヴァンは騒ぎを無視して尋ねた。師匠の方は地属性らしいなと思いながら。


「儂にはどうやっても無理じゃった。師の友人に解呪系統の専門家がいたので、無理を言って解いてもらった。なっとらん弟子でまっこと申し訳ない」

「なるほど。なあフリード、もういいだろ?」

「いや、ふたりはまだ何も……」

「無理に言わせる謝罪の言葉なんざいらねえさ。オレは飯をおごってもらうため、ついでにあんたと無駄話でもしようと思って来たんだ」

「フリードリヒ、気分が悪くて殺しちまいそうなんで帰るぜ」

「おいコルテオ!」


 コルテオはさっさと身支度をすると本当に部屋を出てしまった。その後をデクスターが慌てて追った。

 フリードリヒは止めようとしたが間に合わなかった。


「ヴァン・ディール、申し訳ない、こんなつもりでは……」

「あんた、損な役回りをただ引っ被ってるだけだろ? 気にすんな。あんたに落ち度はないさ」

「おのれは謝罪せぬうちは帰れぬ。帰ればおのれを蚯蚓にするぞ」

「ぐ……く……!!」


 ヴァンはすでに料理を次から次へと口に放り込み始めていた。歯噛みしていたエドウィンは搾り出すような声で言った。


「ぼ……くが……わ……る……かった……」


 ヴァンは取り合わず、フリードリヒに上機嫌で声をかけた。


「ここの料理もなかなかいけるな。飲み物頼んでもいいかい?」

「ふ……ふざけやがって! 謝ったのにその態度か! お前は僕が焼き殺……」


 すべて言い終わる前にエドウィンの体は小さくなり始め、持ち上げたアガトナの手の中で蚯蚓に変じた。


「重ねて非礼を詫びる。申し訳ない。こやつにはもう少し躾が必要なようじゃ……すまぬが今日は帰らせていただきたい」

「気にしねえからあんたも気にすんな……火の弟子ってのは苦労が多そうだな」

「情けないが儂も御しきれんところがあり……ご免」


 アガトナもいなくなって、フリードリヒは溜め息を吐いた。


「ひとつ言わせてもらっていいか? エドが謝罪したとき……」

「あいつは呪文で操られて言葉を言わされただけだった。ま、そういうこった。飲み物頼ませてもらうぜ」


 ヴァンは卓上の呼び鈴を軽く振った。給仕に葡萄酒をひと瓶、注文する。


「なるほど……私は何をやっているのだろうな。仲間から人望があるだの何だのとおだてられ、まとめ役など押しつけられたがこの有様だ」

「降りちまえよ。あんな奴らまとめようったって無理な話だ」

「あいにく、途中で放り出すことのできない性分でね」

「そればかりはどうにもならんな」

「お待たせ致しました。こちらは……」

「ああ、すまんが酒には詳しくなくて、銘柄を言われても分からないんだ」

「かしこまりました。ではごゆっくりどうぞ」

「さ、飲もうぜ」


 しばらく無言で料理と酒を堪能する。もっともフリードリヒの方は味など楽しめはしなかったろうが。


「そう言えば、私と話したいと言っていたな。レンダルは南へ向かったようだ。南門の門衛が変装したレンダルと思われる男を覚えていた。それを知った仲間が三人ばかり、制止も聞かずに後を追って街を出てしまった」

「ふうん。まあ、手足を減らさずに帰ってきてもらいたいもんだな」

「まったくだ。見失って諦めてくれることを願っている。もし出会ってしまったら……貴殿はレンダルを見たんだろう? どんな感じだった? つまり……」

「レンダルが逃げようと思っていたら、昨日来た全員で不意をついても問題なく逃げるだろう」

「……逃げるつもりがなかったら?」

「他の話をしないか? オレは少しの間この街に留まって、ここに潜伏してる賞金首連中を金にするつもりでいる。で、聞きたいんだが……」

「……そんな噂、どこで買ったんだ?」

「ま、いろいろさ。あんたは潜伏してる賞金首をどのくらい把握している? 今からいくつか名前を言うんで、知ってたら教えてくれ。サイード」

「……舞い戻っていたのか……」

「キャス、メンティス」

「……すまないが役に立てそうにない。まったく知らなかった」

「そうか。なら、オレが狩っても問題はないな」

「……他にどんな奴がいるか聞いてもいいか?」


 問う声にかすかな違和感を聞き取ったヴァンは、しばらく考えてから言った。


「……なあフリード、オレに狩られて困るような奴がいるなら、名前さえ教えてくれりゃ見逃すぜ?」

「……」

「例えば、悪党でもないのに賞金首になっちまった奴、とかな」

「……君は……君は何者なんだ?」


 フリードの言葉が崩れてきたのは意図的なものか、無意識か……。


「旅の魔術師だよ。ちょっと金に困ってるだけのな」

「……君を信用したい……」


 ヴァンはフリードの言葉にしばし飲食の手を止め、じっと見つめてきているフリードの瞳にめんどくさそうな視線を返してから、また食事を再開しつつ投げやりに言った。


「信じたかったらそうしろよ。嫌ならやめとけ」


 フリードは下を向いて考え込んでいたが、やがて意を決して言葉を紡ぎ出した。


「賞金首じゃない名前だが……ビダー。ビダー・ラドイッツ。表向きは豪商だ。多くの行商と取り引きをし、あらゆる品物を分野別の店で扱っている。いくつかの神殿にも多額の寄進をしていて、貴族にも顔が利く」

「で、正体の方は?」

「闇商人の元締めだ。役人への賄賂やら貴族からの圧力やらで、荷の検分をさせずに違法な品を大量に仕入れ、捌いている。毒薬、魔酒、贋金、それに契約者が使う薬なども扱っていると聞く。猛獣や奴隷も取り揃えているそうだ」


 契約者とは魔族と契約することで魔法を使う、黒魔法使いの総称だ。


「賞金の懸かってる連中より、よほどたちが悪いな」

「一年ほど前、検分において賄賂を拒んで、ビダーの手の行商をひとり牢に入れた若い役人がいた。押収したのは、飲めば暗闇の中で目が見えるようになる魔酒ひと樽と、闇闘技場に出すための円舞誘いと呼ばれる蠍に似た魔獣など」

「手広いねえ」

「名前はジョーン。詐欺のかどで賞金が懸かった。いち早く知った私は、彼を捕らえに行く仲間に先んじて忠告し、身を隠させた。もしビダーが役人の手で捕らえさせようとしていたら、打てる手はなかっただろう」

「あんたの友人か?」

「従兄弟だ。ビダーはそのことも知っていたはずだ。今も楽しんでいる。配下の魔術師や契約者、それに盗賊も使って街中探させている。見つかっていないのが不思議なくらいだ」

「……賞金首狩りはやめにするか」

「……なぜ?」

「この街に住む信用できる貴族や騎士の名前を知りたい」

「ヴァン……君はまさか……」

「オレも予定が狂っちまったが、そっちの方が稼げそうじゃないか。オレが把握してる賞金首全員の情報をあんたに売ろう。それと、戦争を始めるにあたって軍資金を少しばかり提供願いたい。合わせて金貨八百枚は欲しいところだが……」


 空になった硝子の杯を通してフリードを見ながら、こう続けた。


「モスフレイムの店で最高級の樫の枝を三割引きしてくれるような紹介状を書いてくれるなら、その半額でいい」


 ***


「正気!? あたしとパティが巻き添え食うとか考えなかったの? ヘインみたいな化け物がいないにしても、敵さんずいぶんと多そうじゃない? 本気でどうにかなると思ってるの?」

「最後の仕上げなんだ、ちょっと静かにしててくれルーシャ」


 ヴァンは慎重に宝石の内側に魔術の印を沈み込ませ、そこにマナを流しこんでいった。

 マナは青白く輝き、印に吸収されていくのが見て取れた。ほどなくして輝きがすべて印の中に消えた。


「樹齢五百九十八年で魔力流出防止の儀式を施し伐採された樫の枝を、パティの魔力と属性、性格、今後の成長の傾向と現在の身体に合わせて魔術だけで加工し、芯には人魚の大魔女セセラが提供してくれた金の毛髪を通し、先端部に澄んだアクアマリンの珠を嵌め込んで内部に印を沈め、そこにマナを十分に染み込ませた。先端の宝石は偽装用の覆いで完全に隠せるようにしてある。その他の仕込みも終わった」


 ヴァンはマナを活性化させて、できたてのワンドを振ってみた。

 青い光が杖から溢れて壁まで飛び、そこで噴水のように弾けた。


「パティ、やってみな。何も考えなくていい。オレが杖の方を活性化させたばかりだから、ただ振るだけで勝手にお前さんのマナを放出してくれる」

「う、うん……」


 パティが同じように振ると、ヴァンの時とは異なり、拳大の青い泡のような光が漂いだし、非常に遅い速度で壁に向かって浮遊していった。


「珍しいなこいつは。ワンドをあれに向けて、自分のマナを少しずつ伸ばすよう思い描きながら、戻って来いって念じてみな」


 パティは二度、ワンドを向け直してから思い切って念じてみた。

 すると青い光の球はすぐに進行方向を変えた。


「完成。仕上がりも奇跡的な出来。パティのワンドだ。一生もんだぜ」

「先生ありがとう。すごく嬉しいんだけど……」

「ん? どうした?」

「でもあたし、何にもお礼できない……あ!」


 パティがワンドを寝台の上に置こうとしたとき、ヴァンは注意した。


「一応、折れようが砕けようが元通りになるようにしてあるが、ワンドをしまうならローブを着てたら袖の内側、そうでなければ腰に差すのがいい。それと、小妖精の月なら受け取らないぜ。あれはお前さんを気に入ってるしな」

「パティに余裕ができたときに、困っている心正しい人に手を差し伸べてあげればいいのよ」

「そういうこった」

「分かった……ありがとう!」


 パティはワンドを掲げ、灯火に煌く先端の宝玉を見つめた。


「ワンドができたなら話の続……」

「さて、次は腕輪に封じる守護獣を作るから、あんまり大声出してくれるなよ」


 ヴァンは袋から、真珠の嵌めこまれた銀の腕輪と、やはり銀でできた小さな狼の細工物を取り出して、机の上に置いた。


「いろいろ買ったわね。お金どうしたのよ?」

「フリードリヒが換金してない手形を貸してくれた。返すのはラドイッツの影響力を削いで、牢にぶち込んでからで構わないとさ。それで資金に余裕ができたわけだ」

「でも、どのくらい時間かかるの? あんまりのんびりしていると、二カ月なんてあっという間じゃない?」

「オレの見立てじゃかかって一週間だが、できれば五日で片を付けたいと思ってる」

「あーあ。なんでそんな慈善事業引き受けてくるのよ?」

「謝礼金のあてはあるぜ。味方にできそうな貴族がふたり、騎士が六人、それなり以上の資金力がある商人が五人、それと奴に迷惑を被ってる弱い商人が二十三人。あとは神殿……報奨をくれそうなとこは二箇所」

「すっごい楽観的な考え方に不安を覚えるんだけど……」


 ヴァンの作業は淀みなく進み、大きさを考えればはみ出さなければならないはずの狼の銀細工が、真珠の内側に収まった。


「流れさえ作っちまえばいいんだよ……よし、パティ、これに腕通して、これからオレが言うとおりに繰り返すんだ」

「うん……いいよ」

「我が名はパティ。そなたの守護すべき主なり」

「わがなはぱてぃ。そなたのしゅごすべきあるじなり」

「我に害意ある者を退けることを、そなたの使命とす」

「われにがいいあるものをしりぞけることを、そなたのしめいとす」


 腕輪が青い光に包まれ、すぐにその光は消えた。


「契約終了。パティに危険が迫ったら、腕輪から全身銀色の狼型の魔法生物が現れて守ってくれる。とはいえその数は一匹だけで、パティの保護を最優先するから、大勢に襲われたりして手に負えない場合は逃げてくれ。部屋からは極力出ない事、どうしても出るときはふたり一緒」

「あんたは大丈夫なわけ?」

「そのための準備もするさ。まずマナを溜めてある緑真珠を大量に購入した。次に徹夜してても寝たときと同じようにマナを回復してくれて、心身の負担も消してくれる休息薬を十日分。そしてこっちは傷や毒を受けるとすぐに治す効果の即時治療の薬、やっぱり十日分」

「……それで全部?」

「あとは、刻印化してある最上級身体賦活の呪文を活性化させる。活性化予定は十日間」

「肉体を限界まで強化する呪文よね。でもそれって活性化した倍の日数、けっこうきつい反動があるんじゃなかったっけ?」

「これが、その反動を身代わりしてくれる十日分の転嫁銀の首飾り。そしてマナを十分間だけ急速に回復させる、世界一不味い青惨酒二十本。仕上げに着用者が呪文をかけるとその効果が十二倍持続し、効果も増幅してくれる応呪の外套」

「ずいぶん散財したみたいだけど、お金は残ったの?」

「九枚も残ったぞ」

「失敗したらとか考えないわけ?」

「しないための準備だ」

「はぁ。で、見込める収入は?」

「最低でも金貨千五百枚、良くて五千枚ほどかな。十日かかったとしても一日百五十枚以上だ。悪くないだろ?」

「……根拠ある数字ならね……」

「全知がはじき出した金額だ。これだけでパティの学費は確保できるだろ。ところで、文字の勉強はどうだった?」

「特訓が必要」


 その言葉に頬を赤らめ縮こまるパティ。


「まあ、そんなもんだろ。そっちは後回しでいいから呪文習得の準備しとかんとな。ルーシャ、投げないで使うナイフ、ここに置いてくれ」

「呪文を弾く以外にも、切れ味良くしたり刃こぼれしなくしたりってできる?」

「ついでだからやっとくか。ただし、一カ月しかもたんぞ」

「え? なんで?」

「複数の効果を同時に付与するときには、基本的に持続時間を揃える。パティの呪文練習は一カ月も続けない。その前に王都について、学校の寮に預けちまうからな。だから効果は一カ月で揃える」

「長い方に揃えればいいんじゃないの?」

「……付与ってのはいろいろと材料が必要なんだ」


 ヴァンは言いながら水袋の中から小袋を三つ出し、中が見えるよう机に広げた。


「ほら、粉薬みたいだろ? 吹くなよ。高いんだから」

「三種類しかないんだ。案外少ないのね」

「いや、全部で二十八種類ある。広げきれないだろ。専門家だと最適な材料を使うから、確か二百を超えるはずだ」

「どう違うの?」

「いい材料は大抵の場合、限られた用途だが大きな効果を得られる。オレはそこまで金かけられないから、効果は劣るけど色々と使い道があるのだけ持ち歩いてるんだ」


 ヴァンは袋の中の小袋から少しずつ粉末を取り出し、二本のナイフに均等にかけながら呪文を唱え始めた。

 粉末は呪文に応えて淡く光り、ナイフの表面に吸い込まれていった。


「本来ならこれでひと晩、月光を浴びせたりするんだがな。まあ永続させるわけじゃないし省く。八十八年以上の付与をして欲しかったら一本につき最低金貨七十枚で引き受ける。この街に用がなくなってからだけどな。さて、パティ、お待ちどうさん。呪文を教えるから練習しようぜ」

「うん。ドキドキしてきた……」



 呪文文章の丸暗記と暗唱そのものはさほど難しくない。とはいえ、それだけで呪文を使えるようになるなら誰も苦労はしない。

 パティは三十一回目で呪文を正確に発音できるようになり、四十回目でマナの流し方を覚え、七十四回目で初めて呪文が効果を現した。

 もっとも、光の矢はごくゆっくりした速度でヴァンの頭上を通り過ぎ、二メートルも飛ばないうちに消えてしまったが。


「やった! 今の見た!?」

「いいぞパティ。今の感覚を忘れないうちにまたやってみな」


 次の一度目は杖の先端にぼんやりした光が宿るだけだったが、その次は先程よりしっかりした光の矢が、ワンドの先から飛んだ。

 その後は連続して成功し、少しずつ強く速くなっていくのが感じられた。六回目の成功でヴァンは練習を止めた。


「今日はここまでだ。あと一回は辛うじて使えるマナが残ってるが、魔法に慣れないうちは空っぽにしない方がいい」

「うん……うわぁ、あたしのマナ、ちょっとしかないや」

「明日もこの練習をしてもらうが、三回成功したら休息を半時間入れて、合計九回成功するまでだ。それ以上はできそうだったら夜に指示する。オレは立ち会えないからな。さて、部屋に呪文吸収の処理をしとかんとな」



 夕食は従業員に運んでもらうことにした。

 ヴァンに指摘されて分かったのだが、パティは少し立って歩いただけでふらついた。

 座っていてもときどき意識が遠のきかけるほどに疲れていたのだ。

 ヴァンが食器を持って部屋の扉を閉めた頃、パティは座ったまま完全に眠っていた。

 ルーシャはパティを寝台に寝かせ、自分も横になって、洋灯の火を消した。


(この世界に来てからまだ三日目……最初の二日であれだけ危ない目にあったってのに、なんでヴァンはのんきでいられるんだろう? そりゃヴァンは優秀な魔術師だけど、あんなに周到に用意までして……前に刻印化した呪文を解放したときは死にかけたっけ……今回も同じようなことになるのかな?)


 ルーシャはしきりに寝返りを打ってあれこれ考えていたが、やがて考えるのに疲れて、心と体を緩ませた。

 ルーシャの鍛え抜かれた聴覚も気づかなかった。

 窓の外を飛んでいた蝙蝠を、壁に張り付いた黒い影の手が一瞬にして捕らえ、首の骨を折って投げ捨てたことに。


 ***


 三匹目の蝙蝠で、ヴァンはやっと知識の糸を辿ることに成功した。直後に糸は切られたが、蝙蝠と意識をつないでいた者の名前と顔が分かった。

 通りを挟んだ向かいの路地から隠れて伺っていたので、ヴァンは気づかないふりをして全知で使役者の知識を得てから、微量のマナを通わせた蝙蝠の牙を投げつけたのだ。

 同族の呪術的共通性を利用した原始的な魔術により、正確に頭部に突き刺さった牙は激しい反応を起こして頭部を粉砕した。

 この攻撃で使用したマナは、初歩の攻撃呪文の三分の一以下である。


(イスコットか。契約者……なるほどな。腕はさほどではないな。契約している魔族は三体で、呪文は九つ。こいつは完全に偵察専門だ)


 全知で知識を芋づる式に取り出す。きっかけさえ捕まえてしまえば楽なものだった。


(ラドイッツに敵対するって話が漏れた経路は? ローレルからの密告……へぇ、ローレルってのは換金したときの魔女か。方法……街中の昆虫と感覚を繋いでいる!? そんなもん、全部同時に把握できないだろう……そこは呪文で自動化か。いくつかの単語に反応してその会話だけを……)


 見える位置にいた四匹目と隠れていた五匹目を同じ手で仕留めながら、さらに思考を進めた。


(偵察については先手を取られた。こっちはまだ必要な根回しもしてないうちに。状況を引っくり返すには……やはりローレルの対処が先決だな。密偵に関してはもうひとりいるのか。ニールセン、盗賊、部下四名……)


 次の蝙蝠はまだ来ない。警戒がありありとうかがえる。


(この三人を殺さずに気取られもしないで対処する、か。……魔法使いふたりは半自動の感覚偽装呪文で偵察を妨害。盗賊の方は疑心暗鬼の呪文でビダーとの間にひびを入れておこう。それが済んだらやはりトンプソンズ全体を運命隔離で災難から保護しておくべきだな。出遅れた分マナを使っちまうが、不味い酒で誤魔化すか……)


 階下のまだ明かりが漏れている窓に、ぶつかっては跳ね返っている蛾を調べると、やはりローレルと繋がっていた。


 魔術増幅の呪文を無詠唱で使って次に使う呪文の持続時間を大幅に伸ばしてから、蛾を経由して感覚偽装をかける。

 持続時間は七日。この間ローレルはいわば、ヴァンの検閲を通過した物事しか認識できなくなる。

 ヴァンはローレルの注意を引く事柄を逐一確認でき、必要なら揉み消したり、都合の良いように加工・偽造してから認識させたりできる。


 次にイスコットだが、蝙蝠を調べた瞬間に繋がりを切られたことから、魔族の介在する契約者には、例え無詠唱でも気づかれずに魔術をかけるのが困難だと分かっていた。

 ただし、それは蝙蝠を介しての場合だ。直接本人にかければ魔族も気づかないはず。

 呪文遅延を噛ませて起影独立の呪文を使う。

 影を切り離して実体化し、第二の肉体のように操る呪文だ。

 影の外見は本体とまったく見分けがつかない。

 遅延に合わせて不可知の呪文。

 こちらは高度な姿隠しで、短時間だがあらゆる認識から自分を隠したまま、自由に行動できる。

 当然すべて無詠唱。影で新たな蝙蝠を潰しながら、自分は全知で把握したイスコットのいる部屋とニールセンの寝ている部屋へ順に転移して、それぞれ呪文をかけた。


 転移で影の近くに戻り、不可知が切れるのを見計らって影を消す。

 イスコットは分身と透明化を組み合わせた一連の呪文にまったく気づけなかったはずだ。


(これでビダーの目と耳は奪った。次は貴族や騎士たち、大商人たちを味方に引き入れるための下準備だな。借りておいたフリードの屋敷の空き部屋が早速、役に立つか)


 捕食者召喚の呪文で梟を一羽召喚する。命ずると、蝙蝠を襲い始めた。一種の使い魔の呪文だ。

 そして窓から自分の部屋へ戻り、寝台に横たわってから寝ている姿を幻影で上書きし、転移した。

 熟睡しているホッグは気づくこともなくいびきをかき続けていた。


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