十一・そんなところでお昼寝ですか?
タフトルスティン教授は名の知れた考古学者であり、真実の探求を司る女神ナールデの非公式神官でもあった。
非公式神官とは神殿に正式に所属しないので階位と勤めを授けられていないが、聖魔法は使える術者のことだ。教授の聖魔法使いとしての力量は高司祭に匹敵した。
彼がディール家の屋敷を訪ねてきたのは、魔法薬増量法の研究でヴァン・ディールという名が広まり始めるより十日ほど前のこと。手紙すらなしの唐突な訪問だった。
家族や使用人たちの目が届かない屋根の上は、雪を溶かすという役目を終えた風とまだ控えめな火力で万物を温める陽光を感じられる、お気に入りの場所だった。
まぶたを閉じて、すでに必要なことは学び尽くしてしまった王立魔術大学院の思い出を振り返るのに飽き、これからのことをつらつらと考え始めていた。
「オレは大魔術師になるってのが昔からの夢だったわけだが、問題は……」
ヴァンを呼ぶ女中たちの聞きなれた声……掃除道具にかけておいた芸術家の呪文──触れた場所に写実的な躍動を描かせる──それが誰かさんに絵描きという天命を与えたのだろう。始まったら持ち主の体は自分の意志と無関係に作業を続け、疲労しきるか部屋の壁の全面に絵が現れるまでは止まらない。
「問題は大魔術師になるために何をするか、だよな。凶悪な怪物でも倒すか、はたまた国に仕えて何かの仕事をもらうか、呪文そのものの研究はだるいからないな。魔法薬関係もあれだけやりゃ十分だろう。旅に出るのもいいな。いろいろな知識を身につけて、魔法の可能性を探れるだろうし……」
不意に閉じたままのまぶたを通して感じていた光が遮られた。目を開くと、見下ろしている深い青の瞳に、やましいこともないはずなのに心臓が跳ねるのを感じた。
若く見える男だった。広いつばのある帽子をかぶっている。着ているのはどう見てもおろしたての、帽子とも男自身とも似合っていない出来合いの礼服だった。
「お昼寝の邪魔をして申し訳ない。近くにヴァン・ディールという青年が寝ていると思うのだが、起こしてきてくれないかな?」
「あんたの目の前……いや、足元にいるからあんたが起こした方が早いんじゃねえかな?」
ヴァンが右手を男に差し上げると捕まれて一気に引っ張り起こされた。細く見える割には腕力がある。
「私はタフトルスティン・ペンドラリス。一応ソトロルトのネックウィラー魔術大学の教授職にあるはずなんだが……もう三年ほど顔を出していないのでいい加減、免職になっていないか心配している。真実を探求する女神ナールデの非公式神官でもある」
タフトルスティンとやらの話を聞きながら、全知の呪文で調べてみた。
実年齢は四十三……結婚歴なし……現在の主要な関心事は神託の青年を勧誘すること……神託内容とは、野心に満ち探究心と魔術に秀でた青年ヴァン・ディールは、必ずやタフトルスティンの探索において歴史に残る貴重な発見をもたらすであろう……。
「……私を調べてみたかい? 何か気になる点はあったかな?」
この青い目は見えるはずのない思考をも見透かすのだろうか?
「調べるって……今初めてあんたを知ったのに、調べる暇はないだろ?」
「本当かな? まあいい。私は君の計画を現実のものにする手伝いができると考えた。遺跡の探索はしばしば怪物と対決することになる。この度、見つかった大陸は世界的な発見だから、国の担当部署へ遺跡の探索計画を提示すれば公的な支援も得られるだろう。当然、旅をすることにもなる」
「ナールデ様の誘惑か。目が眩んじまうぜ。何よりいいのが、オレにとっての不利益ってものがひとつとして見当たらないところだ。あまりにおいしい話すぎて信じがたいが……」
「お客さんかな?」
「ヴァン! この場所はふたりだけの秘密じゃなかったの?」
幼馴染みのルーシャリエは、いつものようにヴァンの背後から声をかけてきた。昔はふたりとも、使われなくなった暖炉から煙突の中を登って屋根の上まで行き来していたが、今はヴァンは飛行や短距離転移などの移動系呪文を使うようになっていて、ルーシャの方はどうやって登っているのかまったく分からなかった。
「ルーシャリエはオレの知り合いです。ルーシャ、この人はタフトルスティン教授だ。教授、あなたは魔術師でもないのにどうやってここまで登れたんですか?」
「ああ、この皮長靴に壁歩きの呪文が付与されているだけだよ」
「なるほど……まずい! 飛びますよ」
「飛ぶ?」
教授の問いに答える代わりに、無詠唱で瞬間転移した。直後、屋根裏部屋の天窓が開いて女中頭が身を乗り出し、屋根の上に誰もいないのを確かめてから内側に引っ込んだ。
***
ディール家の屋敷は無駄に広い。だから無理もないことだが、ヴァン以外の家族も当然ながら使用人も知らない隠された部屋があった。
手入れする者もいないのにいつも埃ひとつ落ちておらず、調度品も整っている。応接室として完璧だった。紅茶の道具一式の棚には真新しい茶葉まで入っていた。初めて入ったとき部屋にあって古くなっていた物は、有名で危険な魔獣の孵ることがなかった卵だけだった。
「いい部屋だね。窓がないのが残念だが……この紅茶は私の知識にない味だ。どこの何という銘柄か教えてもらえないかな?」
「……入れ物に文字らしきものが書いてあるのですが、知らない言葉です。呪文で読んでみます」
「ああ、その前に、見せてもらえるかい?」
「……どうぞ」
「ホリゾネル王国産出、銘柄はソティウス……」
失策に気づいたが遅かった。
「ほう! ほう! ほう! さすがは魔術の名家の家柄! 素晴らしい! 三百年以上前に滅んだ王国の茶葉をここまで完全に保存しているとは! しかし……」
教授はヴァンにいたずらっぽく笑いかけ、続けた。
「君は知らなかったようだね?」
「……参りました。この地方の古語だったんですね。でも名家とはどういう意味ですか?」
「聞いていないのかね? ディール家は系図をたどれば大魔術師ネックウィラーの次女に至るのだよ。優秀な魔術師をたくさん輩出してもいる。文句なしの名家というわけだね。ところで、茶葉を少しいただいても構わないだろうか? 分析すれば喜びそうな友人がいるんだ」
「試したことがあります。部屋を出た瞬間に見事に腐り果てました」
「ほう! 実に興味深い! 失礼、忘れないうちに少し書き留めさせてもらうよ」
教授は背負袋から分厚い本を一冊ずつ取り出した。三冊目が教授の覚え書きらしかったが……。ヴァンは二冊目の本を見て興奮した。
「無限の謎の味わい方! 共著ペンドラリスって……あなただったんですね!」
「ああ、あの本はかなり受けが良かったからね。文章を書いてくれた彼には本当に感謝しているよ。私は知識収集癖が過剰にあるだけで、読みやすい文章なんてのは大苦手なんでね」
「じゃあ、やっぱり噂は本当だったんですか!? 筆者の叡智の筆氏はペ……教授の集めた資料の山を読みやすい文章にして発表しただけって……」
「いや、あれはやはり彼の著作だよ。多くの子供たちに探究心を与えた功績も、ね」
ヴァンもルーシャもその本に書かれていた数多くの謎について質問攻めにしたため、教授は困惑しながらも丁寧に問いを返したり、考え方の手助けをしたりして、とうとう夕食の時間を過ぎてしまった。それはまさしくタフトルスティン教授の特別授業だった。
翌日、改めてヴァンを探索の旅へ誘いに来た教授。返事など決まっていた。学校と師匠と家族に簡単な報告をすると、ふたりはすぐさま教授と街を出た。
「よかったのか? というか、なんでルーシャがついて来るんだ?」
「あたしは手先が器用だから、遺跡の罠くらい少し勉強すればどうにでもできるようになるわよ」
「おじさんの怒鳴り声とおばさんの泣き声が聞こえた気がするんだがな。納得してないだろ、ふたりとも」
「ヴァンと一緒ならって言ってくれたから平気。半日の説得を耐えたご褒美にね」
***
終焉の大陸という呼び名は伝説に由来するものだ。
曰く、かつて大陸には二十九の分野に及ぶ失われた技術を誇った巨大国家ム・シスが栄えていた。大陸自体も同じ名で呼ばれていた。
ム・シスはわずか三日間の戦争により滅亡した。敵は竜族、魔族、巨人族、精霊群が尖兵だったらしい。しかしそれらをまとめあげて戦争を起こしたのがどんな種族の何者なのかはまったく不明。人間は大敗してほぼ全滅、歴史からその痕跡は消えた。九百年余り昔のことだ。
幽霊大陸なる呼び名は、滅亡の後から使われるようになった。東大海の紫水海域──ム・シス大陸があった場所、そこでは海の水が紫に見えるためにこの呼び名がついた──に稀に大きな陸影が現れることがある。しかし決まっていつのまにか消えてしまう。
まるで幽霊のように現れては消えるから幽霊大陸。
***
潮風に煽られる海鳥の鳴き声をよそに、ヴァンたちは石畳の上を揺られていた。他にも数人の客が乗っていたが、例外なく遠慮のない声で話していたので、三人も御者席まで聞こえそうな会話をせざるを得なかった。
「終焉の大陸が再発見されたんだ。もう幽霊大陸とは呼ばれないだろうと言われている。何しろ発見されてから二カ月弱の間、一度も消えていないからね」
「教授が今回調べたいのはそこの遺跡なんですね?」
「そうだ。いや、発見した諸国もよく秘密にしておいたもんだよ。先月、世界で最も読まれている超国家規模新聞ノーライズがすっぱ抜かなかったら、私たちのような一般人はいつまで隠され続けたか分からない。十以上の国が発見していながら、その全てがひた隠しにしたというのは、何だったのだろうね?」
「教授、信じられる? ヴァンったら教授に会うまでその話を知らなかったのよ。国が各家庭にノーライズ紙の大陸情報特集記事の特別翻訳版を無料で配ってから、どこもその噂で持ちきりだったのに!」
「しょうがねえだろ! 全知の固定化儀式の日程まで最後の追い込みをしてて、儀式でまる三日不眠不休、終わってから三十時間以上眠って、次の日には師匠から、発見した薬の増量法についてまとめて学校に提出しなさいって手紙が来たからそれにかかりきりで二週間。そんな新聞なんざもうどこにもなかったさ」
「大したものだ。私の知り合いにも何人か高位の魔術師がいるが、あの全知の呪文を固定化した人物なんて聞いたこともなかった。あそこまで高度な呪文の固定化は大変だったんじゃないかね?」
「誰も固定化したがらない気持ちは嫌ってほど分かります。オレだってまたやれって言われたらたぶんそいつ燃やしますから」
桟橋に近づくと、教授は中型の帆船を指さした。
「あの船に乗るよ。他にも探索隊が乗るってことだから情報交換をするのは大歓迎だが、揉め事はくれぐれも……分かるね?」
「全知を使いこなせる人間なんていないから誰も固定化しないんじゃない?」
「うるせえ、オレだってそんなこと分かってたよ! ああ、使いこなすどころか固定化してから百回くらいしか使ってねえや。いざ使おうと思っても調べたいことが何もないとくる」
「百……それだけ使えば十分でしょ……」
「ははは。まあ、目的地に着いたら毎日それくらいは使ってもらうだろうがね」
「そりゃいいですね! オレも使い方に慣れるだろうし」
「お客さん、早く降りてくれよ! 復路の客を乗せられないんだよ!」
「ああ! すみません! よっと。本当にすみません。まあ、これでご家族におみやげでも買ってください」
「いや、分かってもらえればいいんですよ、男前の旦那。お戻りになった折はぜひご贔屓に!」
「ありがとうございます。それじゃ!」
「……ずいぶん気前いいのねあんた。何枚渡したの?」
「ああ、三枚と四匹」
「え? 何よ四匹って?」
「無害化した金貨もどきの数」
「うわ……あんたそれ面白いことだと思ってる?」
「たぶんな。何しろ四匹それぞれに違う呪文をこめてあって……」
「ちょっと! あのおばさん、宝石で乗車賃払ったわよ!」
「げ! 人の迷惑考えろよな! お釣り、金貨百枚くらいじゃねえか!」
「あんたがそれ言う?」
「あ、平気だわ。一匹残った」
「三匹おばさんに行ったの? まずくない?」
「いいんだよ。金持ちは退屈してんだからさあ。常識のない奴は不幸を知って人生の勉強をすべし!」
「……あんたの心にその言葉を贈るわ……」