十・おやすみ前の説明会ですか?
「旦那! ヴァンの旦那! つきやしたぜ!」
「……ああ、ここがそうか」
頭を振って思考を邪魔していた靄を払う。
トンプソンズの入り口広間まで、ホッグに手を引かれて辿りついたのだった。まぶたが重すぎたためどういう道順で来たのか覚えていない。
ロネンティを出るとすでに街は闇に包まれていて、明かりを灯す必要があった。ヴァンはやけになり、わざと長い時間をかけて初歩中の初歩である明かりの呪文をあえて通常詠唱した。ワンドに灯した光は必要以上にまばゆく輝き直視できないほどになったので、彼はなおさらうんざりしたのだった。
「お客様方はおふたり一部屋で?」
「先に仲間と子供たちが来たと思うんだが……」
「ああ、皆様ご入浴中です。当館では地下に大浴場を設けておりまして」
「そうか。あんたが対応してくれたのか?」
「はい。あの、何か問題でも……」
ヴァンは彼の手に金貨を一枚手渡した。
「全員じゃないが、しばらく厄介になる。よろしくな」
若い従業員のお手本のような返事で少し頭がはっきりして、ヴァンは宿帳の記入にかかった。
「先に部屋だけ確保しておきたい。大部屋に寝台を十人分、四人部屋とふたり部屋をそれぞれひとつずつだが、空いているか?」
「ご用意できます。ご利用の日数は?」
「大部屋は一泊でいいんだが、ひとりだけ滞在期間が分からないんだ」
「では、今回は皆さんの一泊分の料金だけお支払いいただきまして……」
説明の途中でルーシャとパティが顔を見せた。ふたりとも肌を火照らせ、湿った髪が頬や額に張り付いている。
「よう。温まったか? ふたりとも」
「思ったより早かったわね。久しぶりにちゃんとお湯に浸かったわ。パティちゃんがのぼせちゃって少し休んでたの」
「おっきなお風呂っていいですね! はしゃいでたらフラフラしてきちゃいました」
「そうかそうか。パティはしばらくここに世話になるし、思う存分のぼせていくといい」
「それ面白いこと言ったつもり? ともかく、分け前ちょうだい!」
「寝る前にでもと思ったんだが、どうした? 買いたいものでもあったか?」
「大衆浴場に行ったときには絶対に買うべきもの! 早く! 銀貨二枚でいいから!」
「なんだそりゃ? ……ほれ」
「パティ、急ぐわよ!」
「うん!」
そしてふたりは階段を降りていってしまった。
***
大部屋へ案内された女の子たちは早々に寝入ってくれた。何しろ何週間も夢にまで見た柔らかい寝床だ。さぞかし良い夢を見ることだろう。パティだけはふたり部屋に呼んでおいた。四人部屋は男たちの寝室なので、今は唯一の男の子カートとホッグだけが寝ているはずだ。残る三人もふたり部屋にいる。
ヴァンとルーシャが手前の寝台に、向きあって奥の寝台にパティとレンダルが腰掛けている。中断したいくつかの話の続きを眠くなる前に済ませておこうと提案したのだが、言い出したヴァンが賞金の分配をしながら夢の世界に入りかけた。そのたびにルーシャに起こされていたが、まださほど遅い時間でもないのにと残るふたりは不思議がっているようだった。
「わりぃ、すっかり忘れてたわ……そうだよ。オレたちは夕方に前の世界を飛んだんだった……でもこっちじゃまだ日が高くて……眠くてしょうがない」
「……なあ、こいつ今も半分夢を見てるんじゃないのか? 意味がさっぱり分からん」
「レンダル、何とか起きてるよ。とりあえずそのくらいは通じるだけ説明しとかないと寝るわけにはいかねぇ……ルーシャに任せると、オレがその後で倍以上の説明をする必要が出るからな……」
「悪かったわね。どうせ説明下手ですよ! あんたみたいな理屈屋とは違ってね!」
「声がでけえって」
「前の世界を飛んだってのはどういう意味だ?」
「順序良く説明したいから多少長くなると思うが聞いてくれ。まず、オレたちはこの世界の人間じゃない。違う世界から来た。というか、もう十を超える世界を転々としてるんだけどな。世界渡り、と呼んでいる。異なる世界を行き来する者とか、世界間の移動の両方をな」
「違う世界? 世界に違うも同じもあるのか?」
「違う世界ってどういうところなの? 天国とか地獄にも行ったの? ……あ……あたしは黙ってた方がいい?」
「いや、質問歓迎だパティ。オレたちがこれまで見てきた世界はここと大した違いはないところばかりだ。並行世界って用語で解説してくれた奴もいたっけ。そいつの話だと、夜空に現れる星があるだろ? あれのひとつひとつが似たようで微妙に異なる世界らしい」
「よく分からんが、まあ適当に聞くことにする。質問だ。微妙に違うと言ったがどこが違う?」
「どっかしら、だな。経験上、陸地の広さや形、国や住んでいる人物、歴史伝承神々は違う。逆に言葉はなぜか通じるところばかりだ。文字も同じ。理由は不明。あと、人間に似た種族が存在したりしなかったりってこともあるな」
「エルフ族とかのこと?」
「ああ、この世界にもエルフがいるのか」
「お伽話には出てくるが本当にいたのか、今もいるのかは分からんぞ?」
「ふぅむ……エルフは古い知識に通じてることが多いから、いるんだったら会ってみたかったんだがな……なんだ? ルーシャ」
「全知の呪文で調べてみたら?」
「そうか……探知範囲には少なくともいないな。もう少し馴染めばもっと遠くまで調べられるんだが……」
「馴染む?」
「世界渡りをすると全知の呪文がなぜかとても弱くなっちまうんだ。時間が経つほど馴染んで強さを取り戻していくが……オレが生まれ育った世界では全知で世界の隅々まで探査できたんだぜ? 超高難度だから本来それくらいでなきゃおかしいんだ。世界渡りを始めてから何度も思うのが、この呪文を苦労して固定化しといて良かったってことだ。ここまで性能がばらついちまう呪文を使うたびに、大量のマナを使うのは悲しすぎるからな」
「固定化?」
「特定の呪文を、常に有効な状態にする、または使いたいと思うだけでいつでもすぐにマナも減らさず使用できる状態にする、固定化の儀式てのがあるんだよ」
「それは便利すぎやしないか?」
「便利だが儀式がかなり大変なんだ。高度な呪文を固定化するとなるとなおさらな。好きなだけ呪文を使えるようにする手続きだ。簡単なはずがねえ。ちなみに全知はさっきも言ったように超高難度呪文だ。儀式の準備に半年と少し忙殺された。その間、常に睡眠不足で疲労の極み。儀式に使う品の盗難事件を知らされたときには発狂しかけた。全知で犯人と隠し場所を特定して報告したけどな。そいつは魔術の使用と学習を五年間禁止って処分食らって退学してったがな……すまねえ話が逸れた」
「準備ってのはどんなものなんだ?」
「呪文はマナを消費して使うのが大原則だ。だが固定化した呪文はその原則を超越する。そのあたりの帳尻合わせを儀式で行うわけだが、これに必要なものは何だと思う?」
「えっと、たくさんマナを集める?」
「よく分かったな。実際にはマナを抽出できる物体を集めたり、マナを吸収して保持する薬液の瓶を月光にさらして効率良く集めたり、乱暴な方法では金にあかせてマナを込めた魔法の品を買い漁るってのもある。マナを吸収して育つ植物は質のいいものに絞って乱獲しまくった。宝石を掘り当てるのはさすがに諦めた。マナの薬は瓶を呪文ででかくして、割れないように保護と自動修復呪文をかけてってのを六つ用意して屋根の上に放置した」
「必死にもほどがあるだろ……」
「まだある。瓶に入れる薬液も大量に必要だったから少しだけ分けてもらって、それを専門書と首っ引きで試行錯誤の挙句、効果的な増量方法を開発した。固定化後に師匠に勧められて研究報告書を提出したら、薬学の評定で最上級の評価をもらったのが手始め、魔術論文集に載って最優秀研究賞を受賞したら何かしらんけど母国と隣国からいろんな招待やら援助の申込みやら就職の斡旋やら……めんどくさかったんで手紙はほぼ開けてないけどな。世間が騒いでる頃にはオレは遠く離れた国でルーシャと遺跡探索の修行をしてたし。師匠の話じゃ手紙のほとんどは害意のあるものだったらしい。最高だったのは王室からの秘密集会招待状に偽装した十三大呪を仕込んだ手紙……また話が逸れたな、すまん」
「世界渡りもお前が発明したのか?」
「違う。最初のうちは事故だと思ってたが……最近は誰かの罠かもって考えるようになった」
「罠?」
「ちょっとそこのとこは置いておこう。最初に世界を渡っちまったのは、幽霊大陸……別名、終焉の大陸と呼ばれていた所の十世紀くらい前の遺跡でのことだった……」