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「彼女は守るべきです!」と義妹を選んだ王太子へ。では私は、王宮の裏方仕事を全部返上します

掲載日:2026/03/20

翌朝、王宮の段取りは止まった。


 式次第も、外交順も、来客帳も。

 昨日まで当然のように滑っていた裏方仕事が、まるで歯車を抜かれた機械のように一斉に噛み合わなくなったのだ。


 私はその報告を、朝食の席で静かに聞いていた。


「王宮から使いが来ています、お嬢様」


 侍女のクララが困惑を隠せない顔で言う。

 私は紅茶を置き、頷いた。


「応接間へ通して」


 使いはまだ若い書記官だった。

 額に汗を浮かべ、手にはぐしゃりと握られた紙束を持っている。


「エルシェリア様、至急お戻りいただけないでしょうか」


「何が起きていますの」


「その……本日の王宮査閲会の順序表が確定しておらず、南方諸侯への案内状も一部差し替えになりまして……」


 私は紙束を受け取り、目を通した。


 案の定だった。

 諸侯家の入室順が逆転し、記念品目録には封印番号の抜けがあり、来客帳の記入欄には誰が誰を案内するかの印すらない。

 それだけではない。午後に予定されていた王宮監査局の立会いと、夕刻の楽団合わせまで同時刻に重なっていた。


 ここまで綺麗に崩れると、むしろ感心する。


「王太子殿下は」


「マリアンヌ様のお支度に……」


 書記官は口ごもった。


 だろうと思った。


 昨夜の夜会で、セドリック殿下は中央広間の真ん中に立ち、皆へ聞こえるように言ったのだ。


「彼女は守るべきです!」


 隣に立つ義妹マリアンヌを庇う形で。

 その直後、私へ向き直って婚約解消を告げた。


「君は冷たすぎる。彼女のような素直さがない」


 そう言われた時、私は泣かなかった。

 驚きもしなかった。


 ただ、ああやっぱり、とだけ思った。


 殿下はいつだってそうだったからだ。

 表に見える華やかさと愛らしさへは惜しみなく手を差し伸べるくせに、その背後で段取りを整える手がどれほど必要かには一度も目を向けない。


 マリアンヌが「この色の方が可愛いですわ」と思いつきで卓布を変えれば、私は慌ててそれに合わせて席札の色を刷り直した。

 彼女が「辺境伯令嬢にも同じ贈り物を」と言えば、私は両家の格式差で不快を買わないよう中身を差し替えた。

 殿下が「式次第は明日見ればいい」と後回しにしたものを、私は夜更けまで残って書記官と照合し、外交順の衝突がないよう補助線を引いた。


 誰も気づかなかったわけではない。

 ただ、見なくても回っているように見えていたから、仕事として数えられなかっただけだ。


 そして昨夜、その見えない仕事ごと、私は手を離した。


 婚約解消を告げられた瞬間、私はただ一言だけ返した。


「承知いたしました」


 それだけで十分だった。

 婚約者としての席を降りる以上、王太子婚約者の名目で担っていた非公式な業務も、同時に終わる。

 私は帰宅後すぐ、侍従長と会計係へそれぞれ短い書状を送った。


『婚約解消に伴い、本日以降は私個人の裁量で補っていた非公式調整業務を終了いたします』


 誰かを責める文ではない。

 ただ、今まで空気のように回していた歯車を一つ抜いただけの通知だ。


 結果が今朝のこれだった。


「申し訳ありませんが、私は戻りません」


 書記官は真っ青になった。


「で、ですが、このままでは査閲会が……」


「そうでしょうね」


「エルシェリア様がいらっしゃれば、すぐに」


「婚約者としてはもう関係がありませんもの」


 私は紙束を机へ戻す。


「それに、今お戻りして片づけたら、また誰も何が止まっていたのか気づかないままになります」


 書記官は何も言えなかった。

 気の毒だとは思う。だが、ここで私が情に流されて戻れば、また同じことが繰り返されるだけだ。


 便利で、手際よく、波風を立てないから、最初からそこにあるものだと思われる。

 私はもうその扱いに戻るつもりはない。


     ◇


 昼前には、王宮全体がさらにひどい混乱に陥ったらしい。


 後で聞いた話を繋ぐと、まず査閲会の席順で南方諸侯と西方伯家の案内が逆転し、控室で侍従たちが蒼白になった。

 来客帳には筆記欄しかなく、誰がどの貴族をどの控室へ導くかの整理が抜けていたため、同格の家が同じ入口へ集まってしまったという。


 それだけではない。

 午後の会談で渡す予定だった贈答目録には、封印番号の抜けた箱が二つあり、確認役の印も欠けていた。

 夕方には王宮監査局が来るのに、その応接室準備と楽団の搬入口が同じ動線へ割り当てられていたことも発覚した。


 式次第。

 外交順。

 来客帳。


 全部、昨夜まで私が黙って見ていたものだ。


 華やかな場ではない。

 だが一つ噛み違えれば、王家の面目も、諸侯家の機嫌も、王宮内部の信頼も崩れる。

 私はその綻びを、ずっと見えない位置で拾っていただけだった。


 そして今、その綻びは誰の目にも見える形で表へ出ている。


 少しだけ、胸がすく。

 復讐心と呼ぶには静かすぎる感情だった。

 ただ、自分のしていた仕事が仕事として現れたことに安堵しただけかもしれない。


 午後、父が外套も脱がぬまま私の部屋へ来た。


「エルシェリア、お前本当に何をしていたんだ」


「いろいろと」


「そんな曖昧な返事で済む状況ではないぞ。王宮から三度も使いが来た」


 父はいつになく焦っていた。

 私は机上の封筒を整えながら答える。


「夜会後の礼状振り分け、来客帳の整備、査閲会の席順確認、贈答目録の封印番号照合、各家の案内役の割当、監査局立会い時の応接動線調整」


 挙げていくうちに、父の顔がみるみる強張る。


「全部、お前が?」


「婚約者として『ついでに』しておりました」


 父は額を押さえた。


「そんな大事なことを、なぜ黙って」


「申し上げても、殿下も周囲も『そのくらいは気の利く婚約者なら当然だ』とお考えになったでしょう」


 そして実際、そのとおりだった。

 殿下は何度も私を褒めた。細やかだ、頼りになる、気が利くと。

 だがその褒め言葉に、仕事としての重みは一度もなかった。

 便利に整えてくれる人への感謝であって、私個人の席を認める言葉ではなかったのだ。


「お前は……」


 父は何か言いかけ、結局飲み込んだ。


 そこへまた使いが来る。

 今度は侍従長本人だった。


「王太子殿下がお会いしたいと」


「お断りします」


「エルシェリア」


「今すぐ片づけてほしいなら、なおさら戻りません」


 侍従長は困り切った表情を浮かべたが、私は首を横に振った。

 ここで戻れば、全部が元に戻る。

 殿下が頭を下げる必要もなく、王宮はまた何事もなかったように回り、私の仕事は空気へ戻る。

 それだけは嫌だった。


     ◇


 夕刻、結局、王太子本人が来た。


 応接間へ通されたセドリック殿下は、昨日の余裕が綺麗に消えていた。

 後ろにはマリアンヌもいる。さすがに昨夜のように晴れやかな顔ではない。


「エルシェリア」


「ご用件を」


 私が促すと、殿下は一瞬だけ視線を泳がせた。


「王宮の業務が止まっている」


「存じております」


「お前が抜けたせいだ」


「ええ」


 はっきり認めると、逆に殿下の方が言葉に詰まった。

 否定してほしかったのだろうか。そんな気遣いはもう必要ない。


「ならば戻ってほしい」


「婚約者として?」


「それは……」


「補助線として、では困ります」


 私は静かに言った。


「殿下は昨夜、『彼女は守るべきです』とおっしゃいました。結構ですわ。守って差し上げればよろしいでしょう。ですが、そのための後始末まで私が無償で請け負う理由はありません」


 マリアンヌが唇を震わせた。


「お義姉様、そんなつもりでは」


「そうでしょうね。けれど、そういう“つもりではない”の積み重ねが、今の王宮の混乱です」


 殿下が苛立ったように机へ手をつく。


「そこまで言うなら、なぜ前もって」


「申し上げました」


 私は殿下を見る。


「外交順が危ういことも、来客帳が曖昧なことも、贈答目録の確認役が足りないことも。ですが殿下はいつも、『後で見ればいい』『彼女はまだ若い』『細かいことにうるさすぎる』と仰った」


 沈黙が落ちる。


「私は殿下の婚約者であって、殿下の影ではありません」


 それはずっと言えなかった言葉だった。

 だが今なら言える。


「王宮を回していたのは殿下の威光ではなく、見えない裏方の連続です。その裏方を“気の利いたついで”としてしか扱わないなら、いつか必ず止まります」


 殿下の顔が強張る。

 けれど反論はできない。もう実際に止まってしまっているのだから。


 その時、控えていた侍従長が新しい書類を持って入ってきた。


「殿下、監査局から。来客帳不備により本日の査閲は一部延期、とのことです」


 さらにもう一人、会計係が飛び込む。


「西方伯家から、贈答箱の封印不備について抗議が」


 応接間の空気が、ひどく慌ただしくなる。


 私はその中心にいながら、不思議と冷静だった。

 見慣れた光景だからだ。綻びを後回しにし、誰かが拾ってくれる前提で進めた盤面が崩れる時は、いつもこういう顔が並ぶ。


「エルシェリア、頼む」


 殿下はほとんど初めて、本気でそう言った。


「今なら条件も聞く」


 私は少しだけ息を止める。

 条件。

 その言葉自体は悪くない。けれど出るのが遅すぎた。


「もう遅いのです」


 私の声は穏やかだった。


「殿下が求めているのは婚約者ではなく、盤面の尻拭いでしょう」


「違う」


「では、私個人の席として呼んでくださいませ」


 殿下は黙った。

 たぶん、その発想自体がなかったのだ。

 婚約者でなくなった私へ、独立した役目と権限を提示することなど。


 そこへ、さらに別の来客があった。


 王宮監査局の使者。

 濃紺の外套に銀の縁取り、きっちり封蝋された文書を抱えている。


「エルシェリア・アストレア様へ」


 応接間の全員が息を呑んだ。

 使者は私にだけ一礼し、文書を差し出す。


 中を開く。


 文面は簡潔だった。


『王宮内の記録統制および査閲準備における実務能力を高く評価し、婚約関係とは独立した条件で臨時監査補佐官への就任を打診する』


 思わず、指先が止まる。

 婚約者の情けではない。

 王太子の都合でもない。

 私個人の仕事に対する正式な打診だった。


「……監査局から?」


 殿下が信じられないものを見るように言う。


 私は別紙を開いた。

 そこには権限範囲と報酬、閲覧可能帳簿、差し戻し権限まで明記されている。

 曖昧な「助けてほしい」ではなく、明確な席としての条件だ。


 胸の奥が、ゆっくり熱くなった。

 今まで欲しかったのは、たぶん最初からこれだった。

 便利だから呼ばれるのではなく、役割と条件が先にある席。


「お義姉様……」


 マリアンヌが呆然と呟く。


 私はその言葉に振り返らない。

 必要なのは、もう彼女の反応ではなかった。


「エルシェリア」


 殿下が何か言おうとする。

 けれど私は静かに首を振った。


「殿下。昨夜の時点で、私は席を降りました」


 それから、手元の文書をそっと閉じる。


「ですが今、私個人へ新しい席が差し出されました」


 応接間が静まり返る。


 父でさえ、何も言えない。

 私は使者へ向き直った。


「受諾の返答は、いつまでに」


「本日中にいただければ」


「では、お受けします」


 言葉にした瞬間、胸の中で何かが綺麗に定まった。


 王太子の婚約者としてではない。

 誰かの影としてでもない。

 私自身の名で、私のしてきた仕事に対して席が差し出される。


 殿下はしばらく無言で私を見ていた。

 やがて、ようやく掠れた声で言う。


「……そんな席が、お前に」


「ええ」


 私は微笑んだ。


「やっと」


 使者が去った後も、応接間には妙な沈黙が残った。

 けれど私の中は不思議なくらい静かだった。


     ◇


 翌朝、私は監査局へ向かった。


 王宮の北棟にあるその局舎は、夜会場のような華やかさとは無縁だった。

 淡い石壁、無駄のない回廊、そして紙とインクの匂い。

 けれど私はその空気に、昨日の王宮広間よりよほど落ち着いた。


 案内された執務室では、局長自らが待っていた。


「エルシェリア・アストレア嬢」


「お招きいただきありがとうございます」


「礼は要らない。こちらが呼んだのは、実務が必要だからだ」


 あまりに明快で、少しだけ肩の力が抜ける。

 机の上には、既に三冊の帳簿と一枚の案内表が並んでいた。


「まず確認したい」


 局長は私を見る。


「貴女は、王太子殿下の婚約者としてではなく、貴女個人としてここへ来る意思があるか」


「あります」


「義妹殿を庇う構図の調整役としてではなく?」


「その役目は昨日で終えました」


 局長は短く頷き、条件書をこちらへ差し出した。


 閲覧可能帳簿の範囲。

 査閲会と諸侯家対応における差し戻し権。

 補助書記官の人数。

 そして、私の署名で修正案を回覧できること。


 私はその一点で、思わず頁を持つ指先に力を入れた。


 私の署名で。


 今まではいつも、私の引いた補助線に別の名前が載った。

 殿下の判断、侍従長の裁量、会計官の確認。

 けれどここでは、修正案の責任も手柄も最初から私のものになる。


「一点、確認を」


「何だ」


「私は、相手が王太子殿下であっても、帳簿不備や手順違反はそのまま戻します」


「そのために呼んだ」


「手柔らかには致しません」


「その必要もない」


 それだけのやり取りで、私は確信した。

 この席は借り物ではない。

 最初から、私が線を引くために用意されている。


 局長は机上の案内表を指先で叩いた。


「試しに見てくれ」


 私は紙を引き寄せる。

 南方諸侯の訪問順、査閲会の入室動線、応接室の割当。

 ざっと目を走らせただけで、三箇所の綻びが見えた。


「ここです」


「早いな」


「王宮広間で止まっていた理由と同じです。案内係がどの家を受け持つか不明確で、同格家が同じ入口へ流れる恐れがあります」


「他には」


「監査局立会いの前に楽団搬入が入っている。これでは西回廊が塞がる」


「もう一つ」


「辺境伯家より先に西方伯家を入れていますが、今回は進物の性質上、順が逆です。後で不快を買います」


 局長は無言で聞き終え、しばらくしてから言った。


「やはり、貴女のしていたことは補助ではなく骨組みだったな」


 その一言が、胸へ深く落ちた。


 補助線ではなく、骨組み。

 誰かの陰で気を利かせていたのではなく、盤面そのものを支えていたのだと、初めて仕事の名で言われた気がした。


「でしたら」


 私は条件書を閉じる。


「本日付で受任いたします」


「結構だ」


 局長は即座に返した。


「席は窓際の机を使ってくれ。来客帳の原本と、査閲会の差し戻し表も渡す」


 私は一礼した。


 窓際の机は広くはない。

 だが、必要な帳簿を三冊広げるには十分だった。


 誰かの隣に置かれた補助机ではない。

 最初から、私が座るための席だった。


 今さら呼び戻されても遅い。

 婚約者としてではなく、私個人へ新しい席が差し出されるのだから。


 そしてたぶん、それがずっと欲しかった答えなのだ。


 裏方仕事を全部返上した先で、ようやく私自身の席が見つかるなんて。

 少し皮肉で、ひどく気持ちがいい。

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『そんな席が、お前に』←どこまでも下に見てるし、名無しでこき使おうとしたのが透けて見える一言。 これ、王太子廃嫡の危機では?
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