第六章 突然の宣告
それから二週間程、沙織は何も手につかなかった。寒さがまだ残る朝、ひとり、窓の外を眺めていると、柔らかな陽光が部屋に差し込んできた。だが、いくら陽が差し込んでも、心の中の冷えた空気は、いっこうに温まることがない。
「奈緒……」
沙織は小さな声で呟き、瞼を閉じた。もう触れることのない娘の笑顔が、心の中に鮮明に蘇ってくる。あの温もりをもう一度感じたくて、手を伸ばすことができたら…。
奈緒は、沙織に似て色白で、クリクリとした瞳に、愛くるしい表情が印象的だった。伸び伸びとした環境下で育ったこともあり、皆に愛されるような素直な子に成長した。
「パパァ、おかえりなさい。はやく、あいたかったぁ。だっこしてぇ」
健太の帰宅時は、沙織と手を繋ぎながら必ず一緒に出迎えた。
「ただいまぁ。いい子にしてたか。今日は、奈緒が好きなマダムコローのケーキの詰め合わせだ」
健太は顔を綻ばせながら、奈緒を片腕で抱き上げる。そして、もう片方の手に持っていたケーキの箱を、奈緒の目線まで掲げて見せた。
「やったー。パパ、だいすき!」
奈緒は、健太の腕の中で両手をパチパチと叩きながら、大はしゃぎする。沙織は、そんな二人を愛おしそうに見守りながら、ありふれた日常の幸せを噛みしめていた。
しかし七年前、奈緒は小学三年生に進級して間もなかったが、突然、体調が悪化した。何もないところで転倒することが増え、体重がどんどん落ちていった。
思い返せば、宣告を受けた日も、今日と同じように冷たい風が吹いていた。奈緒が病気になり、彼女の笑顔が次第に失われていったことを、沙織は今でも鮮明に覚えている。
「一度、病院に連れて行った方がいいんじゃないか?」
健太の助言でかかりつけ医を受診し、その後、秋田大学医学部付属病院を紹介された。
「お嬢さんは、筋萎縮性側索硬化症です」
一瞬、病室の空気が止まったようだった。
「筋萎縮性側索硬化症……」
聞いたことのある名前。だが、それが自分の娘に降りかかる現実とは、すぐに結びつかなかった。
「この病気は進行性で、症状が改善することは……基本的にありません。最終的には、呼吸ができなくなります」 。医師の言葉が、沙織の耳の奥で響いた。
その瞬間、沙織は目の前が真っ黒になった。倒れそうになった沙織を、隣にいた健太が支えた。
「何か良い治療法はないんですか。あれば、海外だろうが、どこへでも行きます」。呆然としている沙織を椅子に座らせ、健太は医師に必死に食らいついた。
「指定難病です。……治療法は、確立されていません」
「治療費は、いくらかかっても構いません。何とか、あの子を…、奈緒を…、助けてください。お願いします……。お願いします……」
健太は、すがるように懇願し、何度も頭を下げた。医師は苦しそうに顔を歪め、見守るしかすべはなかった。
足元がおぼつかない二人は、無言のまま診察室を出た。するとすぐさま沙織は、健太の胸の中で号泣した。
「なんで…あの子が、こんな目に……。奈緒が、何をしたっていうの……」
うっすらと涙を浮かべていた健太も、沙織を両腕で強く抱きしめた。




