第十二章 秋田の空
晩夏の涼しさが混じった風が、色づき始めた木々を優しく揺らす。空はどこか薄曇りで、静かな風景が広がっていた。
離婚から数年後、秋田から沙織宛てに届いた手紙は、彼女にとって予期しないものであった。差出人は、尚子。内容は、沙織に対する謝罪と、直接会って話したいというものであった。
沙織はその手紙を手にし、しばらくの間、考え込んだ。もし会うなら、何を話すべきだろうか、何を伝えたいか。かなり迷ったが、最終的に沙織は会う決心をし、一ヶ月後に予定していた奈緒の墓参りの前に、尚子と顔を合わせることにした。
約束の場所は秋田市内の人気がないカフェ。午後の柔らかな光が静かに店内を照らしていた。
店に現れた尚子は、写真で見るより、おっとりとした雰囲気で、秋田弁がやや混じる口調に、親近感を覚えた。ただ、時折見せるあざとそうな目つきが、違和感を感じさせる。子どもを連れていないことに沙織が気づくと、尚子は健太が預かっていると告げた。
「今さら謝ったどごで済む話でないってのは、ちゃんと分かってます。ただ……どうしても、一度お会いして、直接お詫びしたくて……。ほんと、申し訳なかったです」。弱々しい声で謝罪した彼女は、その場で深く頭を下げた。
二人の間にしばし沈黙が流れた。両手をきつく握っていた尚子は、意を決したように自分の過去を語り始めた。沙織は黙って彼女を見つめ、静かに耳を傾けた。
「当時付き合ってた彼に妊娠のこと話したら、あの人、急にいなくなってしまって……。どうしたらいいか分がんなくて、すごく迷ってたときに、健太さんと出会ったんです。健太さんは、私の話、真剣に聞いてけれて……。そしたら、あの人もあの人で、精神的にずいぶんつらい思いしてるって分かって……。私も、その気持ちに共感して、なんとか力になりたいと思ったんです。それが、だんだんと…」
彼女は涙を浮かべた。
「それから私は、妊娠した子は健太さんの子だって、自分に思い込ませるようになって……。この人とちゃんと向き合って、生きていこうって思いました。子どもが障害あるって分かったときも、健太さんは逆にその子に心動かされて、私のことも、前よりずっと優しくなって……。それで、私たちは新しい家を持って、健太さんが経済的にも支えてくれました」
尚子はさらに話を続けた。健太との再婚後、幸せだと思っていたが、次第に彼が元妻と娘のことを引きずっていることに気づいたという。そのことが彼女にとって苦しみとなった。
その上、ある時、尚子の子が、実は健太の子ではないことを、健太に知られてしまった。これまでだまし続けてきたことがばれてしまい、彼女は「全て終わったと思った」と言い、言葉を詰まらせた。
「それでも、健太さんが『一緒に暮らしていこう』って言ってくれたのは……今思えば、愛情っていうより、なんか“償い”みたいな気持ちからだったんじゃないかって…。最近になって、そう思うようになりました。私が嘘ついて、家庭壊して、健太さんを裏切って…。そのことが、今でもずっと、私の中で重くのしかかってるんです」。尚子の声は震えていた。
沙織は静かに、顔色を変えることなく彼女の話を聞いていた。そして、泣きながら謝罪する尚子を見つめて、静かに言った。
「かつて、最愛の娘が生死を彷徨っている時、私はあなたの存在を、心から憎んでいた時期がありました」
沙織は少しだけ間を置き、続けた。
「あの頃、私もあなたと同じように、最愛の娘を失うかもしれない恐怖で、夫に父親としての役割を押し付けていました。むしろ、私はそうあるべきだと、当然のように思っていたんです」
沙織は穏やかな声で言った。「あの時、私は彼を支えることができなかった。今、振り返れば、彼を支えてくれたあなたに感謝すべきだったのかもしれない。彼があなたに惹かれたのも、彼が抱える弱さに共鳴したからなんでしょう」
沙織は一口紅茶を口にし、一呼吸した。
「あの時の私は、心身ともにボロボロでした。でも、時間が経ち、周りの支えを受けて立ち上がることができた。そして今、私は自分の選んだ道を歩んでいます。健太と過ごした日々も、今では大切な思い出です。あなたも、妻として、母として、これからは覚悟を持って歩んでください」
沙織の言葉に、尚子は涙を流しながら頭を下げ、何度も「ありがとうございます」と繰り返した。
その後、沙織は市街地にある奈緒の墓参りに向かった。太平山を遠くに望む墓前に立つと、静かに話しかけた。
「奈緒、ママ、やっと過去と決別できたわ」
空はどこまでも広がり、赤や黄に染まった山々が静かに沙織を見守っていた。秋の冷たい風が頬を撫でる中、沙織の胸の中には小さな火が灯り続けている。それは、誰かの言葉に救われた記憶と、今度は自分がその温もりを別の誰かへと届ける使命のようなものだった。
――人は誰しも迷い、過ちを犯す。自己に向き合えない間は、新たな扉があることすら、気付かない。けれど、全ての痛みを力に変え、自らの力で立ち上がった時、必ず扉は開かれる。そして、その人生の痛みが、人と人をつなげ、その中に小さな実りを生みだしていくのだ
秋田の空は、静かにその物語を包み込んでいた。




