第十章 決断の時
「ここに座って」
その声は凛としていて、怒りや動揺は感じられなかった。健太は指示されるまま、黙って食卓の椅子に腰を下ろした。
沙織は、封筒の中から数枚の写真と調査報告書を取り出した。それをテーブルに静かに広げる。
「これが、あなたの“もう一つの家庭”ね」
写真には、由利本荘市で撮られた健太と尚子、そして幼い子どもの姿が鮮明に写っていた。子どもの手を取り、笑顔を向ける健太の姿。見覚えのあるその表情は、かつて沙織と奈緒に向けられていたはずのものだった。
「その子どもが脳に障害を持っていることも知っているわ」
健太は言葉を失い、顔を伏せる。手が震えていた。
「私たちの娘が病に倒れたとき、あなたはその現実から目を背けた。けれど今は、自ら選んだ女性と、障害のある子どもを育ててる。どうして?」
沙織は、封筒から新たな写真を一枚抜き出し、テーブルの上に置いた。
写っているのは、市内にあるレストランでの会食。
「奈緒が東京に転院した日、あなたはこの子と、彼女と、こうしてレストランにいたのよね。私たちが、慣れない場所と先の見えない不安で心細い思いをしていた夜、あなたは…その子の誕生日を祝っていた。違う?」。沙織の声は静かだったが、奥底に怒りがこもっていた。
しばらくの沈黙のあと、健太は声を絞り出すように言葉を口にした。
「……あの頃は、俺自身も壊れそうだった。仕事も絶不調で……。だから、君たちのそばにいられなかった。受け止めきれなかった……」
そして、意を決めたように本音を吐露した。
「そんな時、差し伸ばされた温かい手にすがってしまった……。弱い俺を丸ごと包み込んでくれる拠り所に……。あの子が生まれて、また俺にとって何かをやり直すチャンスが来たと思った」
「やり直す?誰と?私とじゃなくて、別の女と、別の子どもと?」
健太は何も言い返せなかった。
「でも、もうあなたを責める気はない。ただ一つだけ……あなたが父親としてそばにいたのが、奈緒じゃなかったってことが、私には……どうしても許せなかった」
沙織の声は静かだが、確実に相手の胸を貫いていた。健太はうなだれ、目を閉じたまま言葉を搾り出す。
「……沙織、ごめん。本当に」
沙織は立ち上がり、夫を見下ろした。
「離婚届、用意してあるから」
沙織は机の引き出しから、既に記入された離婚届を取り出し、テーブルに置いた。部屋の空気は、冷たく重かった。
「私の名前はもう書いてあるから。あとは、あなたがサインするだけ」
健太は黙ったまま、それを手に取り、しばらく凝視した。ゆっくりとペンを握るも、手が震える。意を決した健太は、それでもペンを走らせた。
書き終えた瞬間、沙織は小さく頷いた。
「あなたが父親である限り、あの子どもへの責任は果たして。私はあなたに復讐したいわけじゃない。ただ、あなたには“人としてのけじめ”をつけてほしいの」
そして、しばらくの沈黙。沙織の目には、うっすらと涙が浮かんでいた。
「私たちは、同じ痛みを背負って生きてきたはずだった。なのに、あなたは逃げた。私は、私の人生からあなたを手放す。でも、あなたが父親であること、それだけは消せない」
頭を垂らして聞いていた健太は、大粒の涙を溢し、両手を握りしめ、嗚咽を漏らした。
――あぁ、沙織は、全て分かっていたんだ……。俺には、父親としての覚悟がなかったんだ……
「……沙織、ありがとう……。本当に、すまなかった……」
沙織は、最終的な結論を出すまで、何ヶ月も悩み抜いた。和田から別れ際に耳打ちされた話が、引っかかっていたためだ。そしてその間、自分は妻として、健太を支えきれていたのか、という悔恨の念も生じていた。
――奈緒は最期、“自分らしく生きろ”と言ってくれた。最愛の我が子を失った母として、そして再び法に従事する者として、健太のこれからの人生を、そして相手との子どもの人生を尊重したい
涙がこぼれる直前、沙織は目をぎゅっと閉じて言った。
「さようなら、健太」
そう言い残し、沙織は部屋を出た。足早に去っていく足音だけが廊下に響いた。




