~勘違いベイビー狂騒曲~
〇鬼頭家・朝
(小鳥のさえずり)
いつもは元気な朱莉が、ソファでぐったりしている。顔色も心なしか青白い。
朱莉「うぅ…なんだか、胸がムカムカする…。」
出勤前の準備をしていた真治が、その様子に気づく。
真治「どうした?顔色が悪いぞ。」
朱莉「んー…大丈夫…。たぶん、ちょっと二日酔いかな…って、昨日お酒なんて一滴も飲んでないのに!てへっ!」
力なく一人ボケツッコミをする朱莉。
ふと、リビングのカレンダーが目に入る。
自分の周期を指で追い、ピタリと止まる。
朱莉「(ハッとして)…まさか。」
朱莉の頭の中に、最近の自分の行動が走馬灯のように駆け巡る。
(回想シーン:やたらとご飯をおかわりする朱莉、昼間でもソファでうたた寝する朱莉、酸っぱいものが食べたくなって梅干しを丸ごとかじる朱莉)
朱莉「(確信に満ちた表情で)…そうだったのね…!だからあんなに眠くて、食欲旺盛で…!」
完全に「おめでた」だと勘違いした朱莉。
真治にどう報告しようか、一人でニヤニヤし始める。
真治「…何をニヤニヤしている。気持ちが悪いぞ。」
朱莉「(慌てて)な、なんでもないです!さあ、あなた、早く会社に行かないと遅刻しますよ!」
朱莉は、真治をいつも以上に甲斐甲斐しく送り出す。
朱莉「いってらっしゃい、あなた!今日もお仕事頑張ってね、未来のパパ!」
最後の言葉は小声だったため、真治には聞こえていない。
ドアが閉まった瞬間、朱莉は勝利のガッツポーズを決めた。
朱莉「よーし!今夜は、あなたをアッと言わせる、サプライズパーティーの準備よ!」
〇商店街・魚辰の前
(商店街の賑やかな音)
朱莉、足取りも軽く、意気揚々と商店街へ。
その手には、固く握りしめられた財布。
朱莉「やっぱり、お祝いと言ったら、尾頭付きの鯛よね!」
一直線に向かったのは、魚屋「魚辰」。
朱莉「大将!こんにちは!今日一番、大きくて立派な鯛をちょうだいな!」
魚辰の大将「お!朱莉ちゃん、威勢がいいねぇ!こりゃまた、何かめでてえことでもあったのかい?」
朱莉「(人差し指を口に当て)それはまだ、ヒ・ミ・ツ!とにかく、お祝いなの!」
大将「そうかい!よしきた!じゃあ、とびっきりのやつを見繕ってやるぜ!」
大将が持ってきたのは、目が飛び出るほど大きく、キラキラと輝く天然の真鯛。
値札を見て、朱莉の笑顔が一瞬だけ固まる。
朱莉「(心の声)た、高い…!今月の食費が、この一匹で…。ううん、ダメダメ!これは未来の我が子への、最初のプレゼント!未来への投資よ!」
朱莉「こ、これにするわ!一番景気のいいやつを、お願い!」
見栄を張ってそう言うと、朱莉は震える手で代金を支払った。
その後も、赤飯用の最高級もち米と丹波の黒豆を買い、飾り付け用の南天の葉を八百屋で手に入れ、商店街を行く先々で「何かいいことあったのかい?」と聞かれるたびに、「ふふふ…」と謎の笑みを浮かべた。
その結果、「鬼頭さんちの奥さん、宝くじでも当たったらしい」という噂が商店街中に広まることとなる。
〇鬼頭家・昼過ぎ
帰宅した朱莉、早速赤飯を炊き、巨大な鯛の内臓を取り出す作業に取り掛かる。
朱莉「(鼻歌まじりで)♪~もしもしかめよ、かめさんよ~♪…男の子かな、女の子かな…。名前はどうしよう…。真治さんに似て、頭のいい子になるんだろうな…。」
幸せな未来を妄想し、一人で笑いが止まらない。
しかし、その一方で、朝からの胸のむかつきは一向に治まっていなかった。
朱莉「うぅ…やっぱり気持ち悪い…。これが、つわりってやつなのね…!でも、念のため、ちゃんとお医者さんに診てもらおうっと!」
朱莉は、近所のクリニックへ向かった。
〇クリニック・診察室
医師「うーん、鬼頭さん。エコーで見る限り、妊娠の兆候は全く見られませんねぇ。」
朱莉「えっ?そ、そんなはずは…。この胸のむかつきは、つわりじゃ…?」
医師「(カルテを見ながら)この胃の荒れ具合と、問診票の内容からすると…鬼頭さん、昨日の夜、何かたくさん召し上がりました?」
朱莉「え?昨日の夜…?」
朱莉の脳裏に、昨夜の出来事が蘇る。
(回想シーン:真治の帰りが遅く、手持ち無沙汰になった朱莉。冷凍庫にストックしてあった、肉屋の斎藤さん特製のメンチカツを「1個だけ…」と揚げ始める。しかし、揚げたての誘惑に勝てず、次から次へと揚げては食べ、気づけば10個完食。さらに、口直しにと、八百八の大将にもらったサツマイモの天ぷらも平らげていた。)
朱莉「(顔面蒼白)…。」
医師「原因は、おそらく、ただの食べ過ぎによる胃もたれですね。胃薬を出しておきますから、今夜は消化に良いものを食べて、ゆっくり休んでください。」
朱莉、診察室で石のように固まった。
〇鬼頭家・午後
魂が抜けたように帰宅した朱莉。
テーブルの上には、神々しく鎮座する巨大な真鯛と、炊飯器の中でツヤツヤと輝く大量の赤飯。
朱莉「ど、どうすんのよ、これ…。」
今から真治に「ごめーん!妊娠じゃなくて、ただの食いすぎでした!てへっ!」と報告する自分を想像し、身震いする。
朱莉「だ、ダメよ!それだけは絶対に避けなければ…!」
朱莉の頭脳(?)が、かつてないスピードで回転を始める。
朱莉「そうだわ!このお祝いを、全く別の何かにすり替えてしまえばいいのよ!」
朱莉は、ブツブツと策略を練り始めた。
朱莉「案①『あなたの昇進祝い!』…いや、まだ先だったわ。却下。」
朱莉「案②『私たちの結婚記念日!』…先月、私がすっぽかして大喧嘩したばっかりじゃない。却下。」
朱莉「案③『商店街の福引で、ハワイ旅行が当たった祝い!』…うん、夢があっていいけど、パスポートがないわ。却下。」
悩みに悩んだ末、朱莉は「これしかない!」という名案(迷案)を思いつき、再び準備を始めるのだった。
〇鬼頭家・夕方
真治が帰宅する。玄関を開けると、食欲をそそる豪華な料理の匂い。
リビングに入ると、テーブルには尾頭付きの鯛、山盛りの赤飯、筑前煮、ほうれん草のおひたしが完璧に並べられている。
そして、その向かいには、なぜか正座をして神妙な顔で待っている朱莉。
真治「…なんだ、これは。今日が何かの記念日だったか?」
朱莉、ゆっくりと顔を上げ、口を開く。
朱莉「あなた…。今日という日が、我々鬼頭家にとって、いかに重要な一日であるか、お忘れではありますまいな?」
真治「…?」(手帳を取り出して確認するが、何も書いていない)
朱莉、ビシッと立ち上がり、真治を指さす。
朱莉「本日!10月29日は!記念すべき、『第一回 鬼頭真治の素晴らしさを再確認し、妻が夫に感謝を伝える日』でございます!」
真治「…は?」
朱莉「(朗々と)いつも冷静沈着!お仕事も完璧!その上、私のようなおっちょこちょいな妻にも、呆れながらも最後まで付き合ってくれる!その海より深い優しさに対し、妻・鬼頭朱莉、最大限の感謝と尊敬の意を表したく、ささやかながらお祝いの席を設けさせていただきました!さあ、主賓はこちらへ!」
あまりに突拍子もない理由と、朱莉の熱量に、真治は完全に思考が停止する。
その時、
(ピンポーン)
インターホンが鳴る。モニターには、商店街の店主たちの顔。
朱莉「はーい!」
ドアを開けると、八百八の大将や肉屋の斎藤さんが、酒やおかずを手に立っていた。
大将「朱莉ちゃん!宝くじが当たったってお祝い、聞いたぜ!おめでとう!」
朱莉「(小声で)ち、違うんです!それは噂が一人歩きして…!今日は、主人の素晴らしさを称える会で…!」
大将「なんだそりゃ?まあ、いいや!めでてえことには変わりねえ!課長さん、おめでとう!」
結局、よくわからないまま「真治を褒め称える宴」が始まり、真治は戸惑いながらも、店主たちに酒を注がれ、褒めちぎられ、まんざらでもない時間を過ごすのだった。
〇鬼頭家・夜
嵐のような宴が終わり、ようやく二人きりになる。
真治、じっと朱莉の顔を見る。
真治「…で?本当のところは、何があったんだ。」
全てお見通し、というような鋭い一言。
朱莉は観念して、ぽつりぽつりと白状した。
朱莉「…あの、朝、気持ち悪くて…。もしかして、赤ちゃんができたのかなって、勘違いしちゃって…。それで、浮かれて、鯛とか赤飯とか、用意しちゃって…。でも、病院に行ったら、ただの食べ過ぎだって…てへっ。」
真治、盛大な、それはもう盛大なため息をついた。
真治「…そうか。まあ、お前のことだから、いつかやるとは思っていた。」
朱莉、俯いて叱られるのを待つ。
しかし、続いたのは、予想外の言葉だった。
真治「…だが、次、もし本当にそうなったら、ちゃんと俺に一番に言え。」
朱莉「え…?」
真治「赤飯や鯛は、それから二人で買いに行けばいい。お前一人で、重いものを持つな。」
その不器用すぎる優しさに、朱莉の胸がキュンとなる。
朱莉「…はいっ!」
涙声で返事をする朱莉。真治は、照れ隠しのように立ち上がり、戸棚を指さした。
真治「それと、食べ過ぎには気をつけろ。胃薬は、そこだ。」
ぶっきらぼうに胃薬の場所を教える真治と、嬉しそうに涙を拭う朱莉。
テーブルの上の鯛が、なんだか笑っているように見えた。




