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異世界転生のお局令嬢、コンプラ違反を駆逐する

作者: 朝霧なる

「もう限界だ。今日を限りに、君との婚約は破棄させてもらう」


 シャンデリアの輝きが頭上から浴びながら、きらびやかなドレスで身を飾った貴婦人たちが意中の男性と楽しげにダンスに興じ、談笑し、芳醇なワインを味わっている。

 そんな華やかな舞踏会の広間の一画で今宵、ちょっとした、だが重大な事件が起きていた。


 舞踏会という公衆の場で、王太子ルシアンが婚約者のフィオニクス侯爵令嬢アンジュに婚約破棄を言い渡したのだ。

 周囲にいた貴族たちがどよめき、このやり取りを息をひそめて見守った。


「王国のためと思い今日まで我慢してきたが、これほど君が非道な女性だとは思ってもみなかった。この上は、国王陛下とフィオニクス侯爵閣下に事の次第を訴えた上、正式に君との婚約は取り下げさせてもらう」


 深い海のようなルシアンの青い瞳が、爛々と怒りを湛えてアンジュをにらみすえている。


「…………っ」


 アンジュは何も言えず、彼から目を逸らしてぎゅっと小さな拳を握りしめた。

 ここで何をどう弁解しても、ルシアンは聞き入れてくれないだろう。むしろ、下手な言い訳と取られて余計に怒りを煽ることになりかねない。


「王太子殿下、お待ちください!」


 怒り狂う王太子を宥めるために仲裁に入ったのは、艶やかな金色の巻き髪をした美貌の女性だった。


「それではあまりにアンジュさまが不憫です。私がアンジュさまのご不興を買うような真似をしてしまったから……責任は私にあります。殿下、このディアノクス王国のため、アンジュさまとの婚約をやめるなんておっしゃらないでください」


 涙ながらに王太子に懇願するのは、エヴァ・ローズという美貌の女性で、目下、ルシアンの恋人である。


「ああ、エヴァ。こんな目に遭わされながらも、君はどうしてそんなにやさしいんだ」


 エヴァのクリーム色のドレスは、胸元を中心にしてスカートまで赤ワインで濡れていた。


「アンジュ、君とは婚約者としての礼節を十分に尽くしてきたはずだ。こんなことをしなくても王太子妃――いずれこの国の王妃の座は君のものだというのに、君がひとりでさみしい思いをしているのではないかと心配してくれたエヴァに、どうしてこんな真似ができる!」


 ルシアンは、アンジュが彼女のドレスに赤ワインをぶちまけたのだと思っているのだ。


「残念だよ、フィオニクス侯爵令嬢! これまでにも、何度も君はエヴァに嫌がらせをしてきた。その度にエヴァは君を庇ってくれたというのに、恩を仇で返すとはこのことだ。事の次第はすべて君のお父上に報告させてもらう」


 涙も出ない。

 厳格な父の耳に入ったら、どれだけの叱責を受けることか。きっとまた、懲罰室に閉じ込められてしまう。

 誰もアンジュの言うことなど信じてくれないのだ。


(神さま、どうかいっそ、私を殺してください――!)


    ◇

 

 

「定時になりましたので、お先に失礼いたします。ところで青木主任、今月の残業が前日までに四十時間をオーバーしています。時間外労働の上限は、月に四十五時間。間違っても36(サブロク)協定(※)違反とならないよう、しっかり時間管理をお願いいたします」

 ※36協定(労基法第36条):残業や休日労働の上限を定める労使契約。


「承知しておりますッ、鳳凰院(ほうおういん)課長!」


 いつもふわっとしている青木主任が瞬時に立ち上がり、軍隊式に背筋を伸ばした。今にも敬礼しそうな勢いだ。

 別に威圧しているつもりはないが、彼は毎月毎月、法定労働時間では収まらずに、月間残業時間をぶっちぎる要注意人物なので特に注意が必要だ。

 今は一昔前のように残業が励行される時代ではない。いかに時間内に最大限のパフォーマンスを発揮するかが重要だ。


「返事だけではなく、言葉通りの実践を心がけるよう願います。皆さんも業務時間内に終わらせられるよう、時間配分の見直しや効率化を。それでは」


 キリッと踵を返して、私は都心のタワーオフィスを後にした。

 私こと鳳凰院杏樹(あんじゅ)(38)は、日本の大手商社・白鷹インターナショナルの人事部人事企画課課長だ。


 大学を首席で卒業後、そつなく新卒入社。三十歳のとき、同期の中で最速出世を果たして課長職に就いたが、女だからという特有の理由により、万年課長で収まりそうではある。

 そんな私を、若手社員たちが陰で「お局様」と呼んでいるのは承知の上。


 しかし、一般的にお局様の特徴と言われる『上から目線』で話しているつもりはないし(立場が上だから仕方ない)、『自分のルールを押し通そうとする』わけではなく法令遵守なだけだし、『人や気分によって態度を変える』こともない。もちろん『噂話や人の悪口』だって言わない。


 ただ、社歴が長く独身で眼鏡で、曲がったことや法律違反が嫌いで、ときに舌鋒鋭く理詰めにしてしまうので、「お局様」と言われてしまうのだ。「コンプラ女帝」と呼ぶ人もいる。

 でも、気にはしていない。


 花の独身、都内の分譲マンションで優雅なひとり暮らし。

 毎日、会社帰りにジムで筋トレに励み、自宅に帰ってコザクラインコのジャスティス(オス)を愛で、ビールを飲みながら愛読書の法令集を読む。

 こんなにも整った美しい生活が実現しているため、これ以上の出世欲もない。

 時々、若手社員から「鳳凰院課長はご結婚のご予定は?」なんて探りを入れられるけれど、この整頓された人生に、ジャスティス以外の雄を招き入れる余地はない。私は言うのだ。


「その質問は業務に関係がない上に、個人の尊厳に関わる内容です。ハラスメントと受け取られる可能性がありますので、以後お控えください」


 人はなぜ、アウトと分かっている発言を、こうも軽はずみにしてしまのだろう。

 そんなことを考えながら、通い慣れた女性専用ジムに向かった。仕事帰りのリフレッシュは、欠かすことができない大事な日課だ。

 まず、ランニングマシンに乗った。最初は早歩きから軽いジョギング程度でウォームアップを始める。

 ウォームアップで今日の体調はだいたいわかる。今日はやけに負荷を感じるが、疲れているのだろうか……?


(あら? すこし速いですね)


 モニターに目を落とすと、ウォームアップモードに設定していたはずがカスタムモードになっていて、数値がマシンの上限まで上がっていく。


「えっ!?」


 あわててストップを押すがまったく効かなかった。全力疾走しないと、このままでは振り落とされてしまう……!


 後々思い返すと、このときもう少し冷静になるべきだった。そのありえない速度に対抗するのではなく、華麗にマシンから飛び降りるべきだったのだ。

 だというのに、何かの対抗心だったのか、振り落とされてなるまいと走って走って、がむしゃらに走って――。

 次第に目の前がまぶしくなってきた。モニターが発光しているのかと思って目を落とすと――【強制転生モード】。


「なにそれえッ!」


 叫んだ瞬間だった。辺りが閃光に呑み込まれ、眩しくて思わず目を閉じた。


    ◇


 ――やがて、ランニングマシンは動作を停止したのか無音になり、私の脚も自然と止まったが、突然、空気が変わったのを肌で感じた。

 次いで、ざわざわと人々が騒然とする音が聞こえてくる。

 恐々と目を開け、あんぐり口も開けた。


 そこはとてつもなく広大な面積を誇る、大広間のようだった。

 遥か高い場所にある天井には、神話かなにかの天井画が描かれていて、黄金の装飾が幾何学的に広がっており、その中心には巨大なシャンデリアが幾重にも吊り下げられている。


 そして、そこにいる紳士淑女の皆様がた――。


(ベル〇イユ!?)


 夜会服というのだろうか。細やかな刺繍やレースの華やかなドレスをまとった女性たち、典雅な礼服の男性陣、合わせて百人以上はいるだろう。

 ひどく前時代的な服装だが、明らかにパーティの会場だ。いや、コスプレ会場だろうか。


 遠くで華やかなワルツが流れているが、私とその周囲にいる人々は凍りついていた。

 それはそう。明らかに異色なトレーニングウェア姿の私が、なぜかいきなり広間に現れてしまったのだから。

 私の目の前には、目を吊り上げて怒った顔の金髪の若者と、彼が背中に庇っている若い女性の姿がある。

 でも、彼女はさめざめと泣いている。彼女の淡いクリーム色のドレスは、ワインをこぼしてしまったのか、赤ワインの染みが血のように胸元を中心にして広がっていた。涙の原因はきっとこれだろう。


「えっと……染み抜きをなさった方がよろしいのでは?」


 私としたことが、動揺のあまり言葉に詰まってしまった。

 なぜかシーンとしているので、困惑して辺りを見回したところ、背後の壁に楕円鏡(オーバルミラー)が飾られているのに目が向いた。


 私と鏡まではほぼゼロ距離。位置関係からいって映っているのは私のはずなのに、そこに映っているのは赤紫色の特徴的な髪を結い上げた、小柄な若い娘。愛くるしいレースのドレスに身を包んでいる。


(はっ、もしや私は透明人間的な扱いに……!?)


 大急ぎで手を口許に当ててみたり、艶やかな赤紫色に触れてみたり頬をつねったりしてみたが、鏡の中の娘は私のした動作をそっくりそのまま鏡の中で再現していた。


(あれは、私――!?)


「おいっ、聞いているのか!」


 目の前の若者が私に向けて怒鳴りつけてくるが、耳に入らなかった。

 このコスプレ会場――もとい、パーティ会場にいるのは、三十八歳の鳳凰院杏樹ではなく、どう見てもハイティーンの少女だったのだ。

 もう一度顔に触れてみるが、肌の張りが顕著ですべすべで……ではなく、そこにいつもあるはずの眼鏡がない。


(なんて……なんて……)


 楕円鏡を見つめ、私は震えた。


(視界が……クリアだわッ!!)


 強度近視の私は、眼鏡がないとほぼ何も見えない。にもかかわらず、このハイティーンの私は、裸眼なのに視界良好だ。いつもなら自分の手元すらあやしいのに、細かな表情までしっかり見えているのだから。

 ああ、世界がまぶしい……!


「アンジュ!」


 感動に打ち震えていたら、また若者に怒鳴られたが、どうして彼は私の名を知っているのだろう。

 そんな疑問をよそに、その若者はせっかくの端整な顔を歪め、まるで親の仇でも見るような憎々しい目をこちらに向けた。


「この状況でなぜよそ見をしたり笑ったりしていられる? 私の話など聞く価値もないということか? そうか、ここへきてとうとう馬脚を現したのか。八年も婚約していたのに、君の本性に気づけなかった私はとんだ愚か者だな。おとなしいだけだと思っていた君が、こんな性悪で底意地の悪い女だったとは」


「まァ」


 ひどい言われようだが、この赤紫色の髪の少女は一体何をしたのだろう。

 周囲がどよめく中、私はもう一度肩越しに鏡を振り返った。

 悲しげな下がり眉の少女だ。でも、笑ったらとても穏やかでかわいらしい顔をしているのではないだろうか。人事企画課の課長として、これまで多くの若者を見てきた。人を見る目はあるつもりだ。


 ふと鏡の中の彼女と目が合い、この状況を即座に理解した。

 というより、彼女の記憶がそっくりそのまま私の中に引き継がれているのを知った。

 この赤紫色の髪をした娘の名は、アンジュ・フィオニクス。十八歳の侯爵令嬢であり、現在の私だ。


(そういえば、ランニングマシンに【強制転生モード】と出ましたね。あれは異世界の人物に転生させるっていうことだったのでしょうか。私の貴重な筋トレタイムを邪魔してまで強制転生とは。……そうね。社畜のお局様を異世界に転生させるには、残業につぐ残業の果ての過労死が定石なのでしょうが、あいにくと、私は残業や過労死という言葉とは無縁のホワイト人生を送っていますので)


 異世界転生の神(?)も36協定の前には手も足も出なかったのだろう。だからそんな強硬手段を用いたに違いない。

 それはともかく。アンジュの記憶を再確認する。


 目の前の男性はディアノクス王国ルシアン王太子、二十二歳。アンジュの婚約者だ。

 混じりけのない黄金色の髪、誠実でまっすぐな青い瞳、王国中の娘たちが夢中になるほどの凛々しさ。

 その上、明るくて朗らかで、とてもやさしい。理知的でありながら、騎士としても優秀。


 十八歳のアンジュは、フィオニクス侯爵の長女。王国北部のフィオニクス領を治め、王国随一の軍事力と揺るぎない忠誠心を持つ名門の家柄である。

 また、アンジュの母方はかつて王妃を輩出したことのある血筋だ。

 近年、隣接する国々では大小の戦が繰り返されており、フィオニクス侯爵の軍事力がますます重要になってくる。

 そこで王家と侯爵家の絆を深めるため、王太子と侯爵令嬢の縁組が実現した。


 ふたりが婚約したのは今から八年前。アンジュが十歳、ルシアンが十四歳のときだった。

 ただ、ルシアンが朗らかな社交家であるのと逆で、アンジュは引っ込み思案で、声も小さい。自分の気持ちを伝えるのが苦手で、ルシアンのことは大好きなのに、彼がまぶしくて目を合わせるのも恥ずかしくて、視線は常に下向きだった。


 ルシアンは最初の頃こそ婚約者のアンジュに気を使ってくれていたが、次第に敬遠するようになっていった。

 これといった事件があったわけではないが、ルシアンとふたりになると緊張して無口になってしまう。会話がうまく続かなくて、ルシアンが苛立つのが手に取るようにわかるから、余計に焦ってしまい沈黙するしかなくなるのだ。


 そんな悪循環を繰り返していたある日、ルシアンはとある舞踏会でエヴァ――今、彼が肩を抱いている女性と出会った。

 エヴァは地方の弱小貴族の出身で、母は早世しており、病気の父親がいる。知人の伝手で王宮にメイドとして上がった苦労人である。

 そして、とびきりの美女。

 明るくはきはきしていて、病気の父のため、どんなにつらくても必死に働いている。


 そんな健気なエヴァに、ルシアンは本気で恋をした。生まれて初めての恋というものだった。

 それが半年前の話だ。

 ルシアンは彼女の父に薬を買って十分な年金を支払い、エヴァには王宮の一室を与えて侍女をつけるという厚待遇。

 こうした夜会の場では、義務として婚約者のアンジュと最初の一曲を踊るが、その後はずっとエヴァと行動を共にしている。

 彼女が身に着けているドレスも宝石も、すべてルシアンのプレゼントだ。


 しかし――だ。

 ルシアンは元々、政略結婚の婚約者であるアンジュを苦手としてきた。エヴァが現れたから、急にアンジュを蔑ろにしはじめた、というわけではない。

 終始一貫、これまでと対応を変えていないのだ。

 そしてエヴァはエヴァで、婚約者のアンジュに遠慮して、いつもパーティでは隅っこに隠れている。それを見つけ出し、広間の中央に連れ出すのはいつもルシアンなのだ。

 おまけにエヴァは気立てがよくて、人に親切だ。その並外れた美貌と相俟って、日に日に評判がうなぎのぼり。


 そんな中、事件が起きた。今まさに、その事件が起きている真っ最中だ。


 鳳凰院杏樹の意識がここにやってくる直前の出来事。ルシアンと最初のダンスを終えたアンジュは、壁際に寄って大好きなルシアンを目で追っていた。

 視線の先には、楽しそうに笑う婚約者と、はにかむエヴァの姿があった。

 私にももうすこし勇気があれば、ルシアンさまの隣で笑えたのだろうかと、ぐるぐる考え込んでいたのである。


 それに気づいたエヴァが、両手にワイングラスを持ってアンジュのところへやってくると、アンジュの手に赤ワインのグラスを押しつけてきた。

 (杏樹注※アルコールハラスメントです)


 でも、アンジュはワインが飲めない。お酒を飲むと前後不覚に陥ってしまうのだ。

 (杏樹注※アンジュ嬢はお酒を分解する酵素ALDH2が働かない体質のようです)


「アンジュさま、そんなところにひとりでいらっしゃらず、王太子さまのところへ参りましょう?」


「あ……せっかくですが、私、ワインは……」


 そう断ったときだった。

 アンジュに手渡したと見せかけたワイングラスを握り直し、エヴァは中のワインを自分の胸元にぶちまけ、グラスを床の上に投げ捨てたのだ。

 そして。


「きゃあッ」


 悲鳴を上げて一歩あとずさりしたエヴァが、目に涙をためてしくしくと泣きはじめた。


「も、申し訳ございません、アンジュさま。私……っ、アンジュさまにも舞踏会を楽しんでいただきたくて、それで……。決して悪気があったわけではないのです。どうか、お許しくださいませ……」


 消え入りそうな声で言い、涙を隠すように手袋を嵌めた手で顔を覆って泣いた。


「アンジュ!」


 そこへ血相を変えて乗り込んできたルシアンが、エヴァのドレスの染みを見て烈火の如く怒り、今に至る――というわけだ。


 これまでにも、エヴァから似たような冤罪事件を起こされてきたようだが、極度の口下手で自分の気持ちを伝えるのが苦手なアンジュには、どんな言い訳もできなかった。

 ここまで、事態認識にかかった時間は〇.五秒。


「なるほど。きわめて社会的地位が家柄の出身にも関わらず、この性格で王妃となるのにやや不安要素が大きいようですね。ルシアン王太子とのコミュニケーション不全も顕著。感情表現も大の苦手で誤解を招きやすく、婚約者としての信頼形成は非常に困難と言わざるを得ません。王太子妃、いずれ王妃となる場合、高度な対人スキルが必要となりますから、ここをどう改善していくかが課題です。しかし、アンジュ嬢の人格形成にあたっては、父親のフィオニクス侯爵が大きく影響しているようですね。厳格な軍人の家に女として生まれつき、父親からは無用物扱いされてきたことで自己肯定感が著しく低い状況。父の不興を買うたびに懲罰室に入れられていた経験は、行動の抑制につながっています。感情を内に閉じ込めることが癖になっているのですね」


「何をブツブツ言っている? 今日を限りに、君とは――」


 しつこく婚約破棄を言い渡してくるルシアンの目をじっと見つめた。


「婚約を破棄すると一方的におっしゃいますが、不当な理由により婚約破棄をした場合、慰謝料などの損害賠償金が発生します」


「そ、そんがいばいしょ、え?」


 急にアンジュと目が合ったためか、ルシアンが動揺している。これまで、目が合った経験がないのだろう。


「私は法律の専門家ではありませんが、知る限り、婚約破棄というものに法的な定めはありません。婚約が互いの合意のもとに定められたものである以上、片方に意思がなくなった際、破棄は認められるでしょう。ですが、一方的に破棄を言い渡された方は、多大なる精神的苦痛を与えられることになります。しかもあなたは、衆人環視の中で私を侮辱し、名誉を棄損する方法で婚約破棄を申し渡しました。これは不法行為に相当するのではありませんか?」


 ルシアンだけでなく、エヴァも周囲の人々も唖然としているが、こうなったら杏樹の独壇場だ。


「ではここで、あなたが婚約破棄を宣言した動機を掘り下げてみましょう。婚約者の私が、あなたの恋人にワインをかけたから。それが理由ですね? ところであなたは、私がエヴァ嬢に対しワインをかけたと決めつけておいでですが、その場面を目撃なさいましたか?」


「み、見ていたとも」


「本当にワインをかけるその瞬間を見ていましたか? 私はこのとおり壁を背に立ち、エヴァ嬢はあなたの隣からまっすぐ私の方へ向かってきました。すなわち、この時点でルシアン王太子の視界にはエヴァ嬢の背中だけが見えていたことになります。あなたからエヴァ嬢の手元は見えていませんね?」


「それは……」


「どうですか? 見えていたのですか?」


「け、決定邸瞬間を見たわけではないが、しかし――」


 嘘のつけない性格なのだろう。ルシアンはしどろもどろだ。


「この件に関して、私は冤罪を主張いたします。そもそもアンジュ嬢(わたし)がお酒に弱いことは、長年の婚約者であったルシアン王太子はご存じだったはずです。エヴァ嬢がそれを知っていたかどうかについては関知いたしませんが、ワインを渡そうとするエヴァ嬢を止めるべきではありませんでしたか? それを黙って見過ごし、事ここに至るまで放置した責任を私は問いたいです」


「き、君は、私に責任をなすりつけるつもりなのか?」


 ルシアンの端整な顔に汗が浮かび始めた。突然、饒舌になったアンジュに度肝を抜かれているのだろう。

 正直、杏樹もアンジュの対応はよろしくないとは思っているが、そうなってしまったアンジュの背景に同情はしている。何の因果か、こうして今は杏樹がアンジュに成り代わっているので、この際言いたいことははっきり伝えておこうと思うのだ。

 いつまでもだんまりを決め込んでいたら、アンジュの人生が台なしになってしまう。


「いえ、罪をなすりつけたのはエヴァ嬢です。誓って、私はエヴァ嬢にワインをかけてはいません」


「だが、君はワインをかけたことについて最初に否定しなかったではないか!」


「あの場で私が否定したら、あなたはそれを信じてくれましたか? 事情も事実も確かめずに婚約破棄を言い渡した、ご自身の最前の行動を思い返してみてください」


「…………」


「婚約者である私をさしおいて、エヴァ嬢を優遇したことは目を瞑りましょう。家同士の結びつきによる政略結婚と、自由恋愛の果ての結婚。結婚という同じ結果が待つことから同一視されがちですが、これはまったくの別物です。人の心は法や制度では縛れませんから、あなたがエヴァ嬢を優遇するのは仕方のないことだと理解しています。私にももう少し愛想があればよかったのですが、ないものは仕方がありません」


 もはや周辺の人々は、アンジュの口からどんな言葉が飛び出してくるのか、固唾をのんで見守るばかりだった。


「つまり、あの場で私がワインかけ事件を否定しても、(ハナ)からエヴァ嬢の肩を持つルシアン王太子に抗弁したところで、聞く耳を持ってもらえないと考えたのです。今後、この国のためにも、公平な目で物事を判断していただけるよう期待いたします」


 反省を促し一区切りついたかに見えたが、まだ話は終わっていない。


「ところで私たちの婚約は、家による――国の未来を賭けた政略結婚です。いずれ国王という要職に就くあなたに嫁ぐということは、私は将来的に王妃の仕事を引き受けることになり、立派な労働契約と考えられます」


「ろ、労働契約……?」


 ルシアンの顔は宇宙猫のそれである。


「ところで、三つの要素全てを満たすかどうかでパワハラ認定の判断がされるのはご存じでしょうか。一つ、優越的な関係を背景とした言動であること。二つ、業務上必要かつ相当な範囲を超えていること。三つ、労働者の就業環境が害されること。順を追って説明いたします。一つめ、これは言うまでもありませんね。王太子と侯爵家の娘。紛れもなくあなたは優越的な背景を持ちながら、反論の余地もないまま一方的に婚約破棄を言い渡しました。二つめ、婚約破棄に関しては、事実確認もなく、感情的な怒りに任せて、衆人環視の中で侮辱的な言葉を浴びせるというものでした。婚約者、すなわち『王妃候補』としての職務を担っていた私に対し、あなたの言動は業務上の必要性を著しく逸脱しているものでした。三つめ、婚約破棄により私は『将来の王妃』という公的な地位と職務を失うことになります。これは単なる私的関係の解消ではなく、王室制度の中で定められた職務の剥奪に他なりません。その後、私は王国中から『婚約破棄された哀れな女』という目で見られ、後ろ指をさされ、針の筵のような生活が待ち受けていることが容易に想像できます。これにより、私が自ら命を絶つという選択をする可能性もありますね。非常に重大なコンプランス違反――すなわちパワーハラスメントであると考えられます」


「い、いや……今の君は自死を選ぶようには見えないが……」


「それは私のメンタル強度による結果にすぎません。被害者の耐性に依存して加害行為を正当化するのは大変危険なことです」


 一気に言ったので、ひと呼吸おくために言葉を切って仕切り直す。


「さて、一方的な婚約破棄において発生する、さまざまな権利侵害についてお伝えしてきましたが、婚約破棄による精神的苦痛による慰謝料、パワハラによる慰謝料、それぞれ賠償を求める権利が私に発生します。とくに後者においては使用者側――つまり王国に対しても請求が可能です。パワーハラスメントは個人の問題ではなく、組織の構造的課題であり、王国にはパワハラ防止策を講じる義務がありますが、それを怠り、背勢措置を講じず、この結果を招来せしめた責任は大きいと考えます。よって、私は王国に対しても制度的責任を問う所存です」


 そう畳みかけながらも、ずっと考えていたのだ。


(そういえばここ、日本じゃないんでしたね。厚労省の定めたパワハラ基準が当てはまるとは思えませんが……まあどんな国であれ、人権侵害が許されないのは普遍的であるべきですし、問題ないでしょう)


「あのお……」


 ふと、横から見知らぬ貴婦人が声をかけてきた。


「今さらだとは思いますが、わたくし、エヴァ嬢が自分で自分にワインをかけている場面を見ました」


 それに過激に反応したのは、当のエヴァである。


「私、そんなことしていません! 王太子殿下から贈られたドレスにワインをかけるなんて、そんなこと……」


 半泣きでエヴァは言うものの、告発した貴婦人を横目でにらみつけている。


「なぜ今になってそんなことを言い出したのだ?」


 ルシアンは言うが、この声にはなんとなく力がない。どうやら私の勢いに負けてしまったようだ。なにしろ社会人生活十六年。さまざまな困難を乗り越えてきた私に、二十二歳の若者を正論で黙らせることなど造作もないことだ。


「王太子殿下に意見を申し上げるなど恐れ多く、これまで口を閉ざしておりました。ですが、フィオニクス侯爵令嬢のご勇断を拝し、微力ながらお力添えできればと存じ、申し出た次第です」


「実は、わたくしも目撃を……」


 王太子が私に対して有効な反論をできなかったからか、目撃者が次々と名乗り出てくれた! これで少しは傷心のアンジュの慰めになっただろうか。


「エヴァ、それは本当のことなのか?」


 ルシアンにぎろりとにらまれたエヴァは、「違います!」と泣きじゃくるものの、同情している人はいない様子だ。

 それも仕方のないことかもしれない。


 そもそもエヴァが表舞台に台頭したのはここ半年くらいのことらしい。アンジュが口下手な婚約者なのは誰もが知るところだが、いきなり現れた男爵令嬢が王太子の目に留まり、正式な婚約者をさしおいてその寵愛を独占する――王国の女性陣から歓迎される事態ではないだろう。


 女社会の怖いところでもあるが、これは公私の区別をきちんとつけなかったルシアンにも責任があるはずだ。


 すると、ルシアンが長い脚でツカツカと私の前に歩み寄ってくる。

 彼はじっと私の目を見つめて険しい顔をしていたが、いきなり両手をガシッと握りしめてきた。


「何の真似でしょうか」


「すまなかった。私はこれまで君を誤解していたようだ。まさか君があれだけ理路整然と物事を指摘できる女性だとは思ってもみなかった」


「恐縮です。このままでは私の名誉と生命に危機を感じましたので、自らを救済するために声を上げさせていただきました」


 いや、どう考えてもアンジュの言葉じゃないでしょう。違和感はなかったのだろうか。

 この王太子、よくいえば素直なのかもしれないが、自分の感情を基準に動く面が見られ、公私の区別が曖昧だ。国王としての資質に疑問を感じる。

 もっとも、純日本人の私には関係のないことだ。さっさと大事な筋トレタイムに戻らなくては。


「では、慰謝料の件とは別に、婚約破棄の意向は確かにうかがいました。この件については私たちだけの問題ではありませんから、国王陛下ならびに侯爵閣下へ事の次第を報告し、然るべき手続きを――」


「いや、婚約破棄はしない」


「はい?」


「このまま婚約は継続し、予定通り結婚するつもりだ。君に惚れ直した」


 私はじっと王太子の整った顔を見上げたが、さっと手を引いてルシアンから逃げた。


「惚れ直したというのは、一度惚れていた相手に言う台詞ですね。あなたは私に惚れてなどいませんでしたから、言葉の使いどころを間違えておられます」


 きっぱり言うと、彼は王子様然とした青い瞳をきらきらさせはじめた。


「どうして今まで隠していたんだ? ますます惚れたよ、アンジュ」


 なんなのだろうこの人。Mっ気があるのかしら。


「大変申し上げにくいのですが、私は再構築を望んではおりません。そちらから言い出されたことではありますが、私は婚約破棄を了承いたします」


「どうしてだ!? 婚約を継続すれば、君の名誉も精神的苦痛とやらも元通りだ」


「いえ、それは違います。一度棄損された名誉は回復しませんし、公衆の面前で侮辱された苦痛が癒えることもありません。また、かんたんに情に流され、感情で物事を判断する王太子に私は不安を感じております。将来的に、ふたたびあなたが私を切り捨てる可能性を思うと、傷が最も浅い今の時点できれいさっぱりお別れするのが最善であると判断いたします」


「政略結婚かつ恋愛結婚だ。これ以上、強固な結びつきはないだろう?」


 王太子の耳は、自分に都合の悪い言葉はスルーするようにできているらしい。だが、聞き捨てならない発言があった。


「恋愛……? 今、恋愛とおっしゃいましたか?」


 思わず眼鏡を直す仕草をしてしまったが、今の私は裸眼の少女だ。調子を取り戻すためにひとつ咳払いした。


「恋愛面で申し上げますと、あなたは私の好みと一切合致いたしません。私の好みは、物静かで落ち着き(静かに美しい声でさえずります)、一貫性があって知的(同じ時間に鳴き、餌を欲します)。決して一時の感情に振り回されることなく思慮深く(無駄に鳴かず行動で示す賢い子!)、美意識と秩序を重んじる(それはそれは美しい羽を持っています)男性です。悪しからず」


 唖然とするルシアンや貴族たちに背を向けると、私は颯爽と舞踏会の場から立ち去った。


 私が思い浮かべるのは、愛鳥コザクラインコのジャスティス(オス)だけである。あんな半人前の王太子など、お局様で通る私とはまるで釣り合いが取れない。


 そして、私が杏樹に戻った後、コミュ障をこじらせた本物のアンジュにあの王太子の相手は務まらないだろう。また同じことの繰り返しになるだけだ。

 できることなら、この婚約破棄をきっかけに、フィオニクス侯爵に結婚について考え直してもらえるといい。


 ――さあ、アンジュ嬢。この場は丸く収めたから、安心して自分の身体に戻っていらっしゃい。あなたを悪く言う者はいませんから。


 ひと気のない廊下に出て心の中でそうアンジュに伝えたが、うんともすんとも反応がない。


「アンジュ? さあ、もうあなたを侮辱する者はいませんから、早く戻って――」


 いくら呼びかけても、アンジュの意識がここに戻ってくる気配はなかった。

 えっ、私ここから戻れない? 待って、ジムで筋トレしてる最中だったのに?

 廊下に立ち尽くして茫然としていると、広間から数人の女性がやってきて私を取り囲んだ。


「アンジュさま! とてもお見事でございました! 久々にスカッといたしましたわ!」


「私にも侮辱してくる夫がいるのです! アンジュさまのその鋭い舌鋒で撃退してはいただけませんか……!?」


「私のお仕えしている伯爵さまがパワハラをしてくるのです。撃退方法を教えてくださいませ!」


 とどめに、ルシアンがこれ以上ないほどの笑みで迫ってきた。


「アンジュ! 私は諦めないぞ! 感情に振り回されず静かで落ち着き、一貫性があって知的な男に生まれ変わると約束する! 必ずそなたを妻にしてみせるからな!」


 ちょっと待って、私ここにずっといることになるのですか!? 異世界転生の神様! どう落とし前をつけるおつもりで――。

 宇宙猫案件だった。

 いやです! 後生です! 筋トレが……ジャスティスが……社歴十六年で築き上げた私のキャリアがあぁ――!!


                      

                           おわり(たぶん)


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― 新着の感想 ―
ジャスティスくんのことだけ心配だから彼もこっちに転生させてやってほしい。 あとはまあ…アンジュさんは自ら道を切り開けそうだから大丈夫でしょう…。 面白かったです。王子成長できるといいですね(アンジュと…
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