少女Aの独白
僕は殺人鬼の息子というヤツをやっている人生である。
殺人を犯すことに対し、所謂「ふつうの人」が趣味に没頭するように快楽を感じ、そして常は平然と、キャリアが安定してきた壮年の俳優として舞台やテレビ画面の向こうに立つ日々。そんな日々を送る女を、母親として持っている。しかしそうだといって、彼女がふつうと違うからと言って、母さんが必要以上に僕を無碍に扱うといったことは断じてなく、僕は非常に幸福な日々を重ねてきたのである。
母さんは、常々僕に、こう語っていた。
「生きているということが一体、どれだけ重要だろうか?」
殺人鬼の放つ言葉としてはやや傲慢すぎるきらいがあるけれど、そんなことを母さんが言うのはもちろん僕の前でだけであり、その点彼女は、自分の生き方と自分の哲学の都合の良さを、ある意味では理解していたと言えるだろう。
「私が殺した奴らは、娘がいるだとか、ペットがいるだとか、母がいるだとか、自分を待つものがどれほどいるかということをひどく主張する。
けれど、彼らの元に生きて帰らねばならないという道理もあるまい?」
幼い僕を膝の上に乗せながら、彼女は優しく微笑んで、一人ぽつりと呟いたのだった。
「死んでいても生きていても、君たちは彼らの心の中に存在していることだろうに」
2019年、4月27日。
うららか……とは若干言い難い、陽射しがどうにも暑すぎるような気もする春の今日、僕は日々と同じく、17歳のこどもらしく、家から電車を乗り継いで一時間の場所にある高等学校へと向かっていた。
が。
「……」
午前8時を少しすぎたあたり。
いつもであれば、部活動生や教師陣がズラリと挨拶のため並んでいる校門は、その門扉を固く閉じていた。
休みだっけ?
「『明日(4月27日だよ!)は授業参観!』」
携帯を開くと、母さんからそんなメールが昨日のうちに入っている。そう、知っている。今日は授業参観なのである。
それか、僕の時計が間違っていて、実際はもう既に授業が始まっている時間なのか? いや、それもあり得ない。僕の腕時計は衛星電波を受診しており、遅れることなどないからだ。その腕時計は、確かに今が、8時10分であると告げている。
試しに錆びた取手に手をかけて引っ張ってみても、悔しいことにびくともしない。なんなのだ。さすがに、僕をみんなでからかっているというような、そんな無駄なことをするわけもあるまい、高校生にもなって。
であればやはり可能性としては──と、思考を巡らせ続けていると、ふと、足元に赤黒い液体の跡が点々と、或るのが見えた。
無意識のうちに目で辿る。
辿る。
……。
ぽつぽつと、その雫は校門のなかへと続いている。教員出入口を通り過ぎ、毎日挨拶する鳥のオブジェを通り過ぎ、二年生用の靴箱の入り口へ、続いている。校門のすぐ側にも垂れるそれはまだ乾いていない。屈んで指先で強く拭うと、人差し指がざらりとその色に染まり、僕はそこをちろりと舐めてみる。たしかに鉄の味だった。
つまり?
「情報が少なすぎるよな」
空いているはずの学校の校門が閉まっているコト、その外から、血痕が点々と校内へ、続いているコト。それはまだ乾いていないほど、新しいコト。
言ってみればそれだけである。
僕はこのまま踵を返して、家へと帰るのがいいんだろう。
しかし、本来そうすべきとわかっていても僕は、母由来の衝動性と危険を顧みない精神性から、気がつけばひらりと校門の柵を乗り越え、学校の敷地内へと足を踏み入れていた。
さくさくと足元を踏み締め、校門の中に立ち、ひとまず校舎を見上げてみるも、おかしなことに(正しきことに?)窓ガラスからは人っ子一人見えやしない。
「こいつは一体……」
おかしなことが起きていると言うのは確かであり、やっぱり僕はおとなしく帰路に着くべきなのだ。ただでさえ母親は人殺しであり、これ以上余計なハンデを人生上持つべきではないのだ。
その時、ポケットに突っ込んでいるスマートフォンがぶぶぶ、と不穏に震えた。
画面を見るも、知らない番号。
見知らぬ番号からの電話というのはまぁ怖いもので、出るかどうかしばし迷う。しかし、ただでさえおかしな事態の今、掛かってきた電話に、なにかしらの啓示めいたものを感じるというのも否定できないところではある……と思っているうちに、僕の指は勝手に電話を取っていた。
「もしもし?」
『お前の母親は預かった』
すごい、ドラマみたいだ!
僕は相手の一言に、反射的にそう思った。そう思ったがしかし、堪えてとりあえず、そうですかと相槌を打っておく。「目的はなんですか?」
『なんだと思うね』
「復讐とか……」
『本気で思ってる?』
そりゃあそうだ。なんてったって彼女は殺人鬼だし。
『というか受け入れが早いね、キミね』
意味がわからなくて僕が黙っていると、彼女だか彼だかよくわからない声は続けて言う。
『タチの悪いイタズラとは思わないのかね』
「え、イタズラなんですか?」
『それはどうだろうか』
「……」
はぐらかすような言い方は嫌いだった。そう思って、ふと、どうして僕は今過去形でそう思ったのだろう、という疑問が浮かぶ。まぁ、言葉遊びの範疇ではあるけれど。
『それに冷静だ』
「それは……」
焦りは決して無い。
なぜって、焦りというのは何かを失う恐れから生まれるものであり、僕は母を失うことは別段、全く怖くないのだ。失ったって母はそこに居る。ただ新たな思い出が増えなくなるというだけで、新たな母の記憶が刻まれることがなくなるというだけで、僕は母の新鮮さを愛しているわけでは無いのだから、そんなもの必要なく、つまり、失うことへの恐怖など生まれようもない。
これは母も、僕に対して同じ意見を持っているはずだ。だからこそ母は人の命を奪うことに躊躇いがなく、罪悪感というものもない。純粋に、まるで幼気な少女のように、その行為を楽しんでいる。
『不思議だ、それとも実はパニックになっているとか? でも、そんな顔には見えない』
「顔?」
『見ているよ』
そう言われて、僕は反射的に周囲を見回す。やはり誰もいない。誰かが隠れている気配もない。
『ひさびさにキミの顔を見るね。大きくなったものだ。覚えているかな、俺のことを』
「……どういう意味です?」
ボイスチェンジャーを挟んでいるらしい声に郷愁が滲んでいるように聞こえたのは、その台詞ゆえだろうか? 話がみえない。電話の向こうの誘拐犯(仮)は、僕の知り合いなのか?
なんにせよ、相手は安全圏にいて、僕ばかり無防備な状態を晒しているというのは不服である。
ふとまた、耳に当てた端末が震える。ダイレクトにその振動が伝わってきて僕は思わず顔をしかめた。
通話をスピーカーに変え、来た通知を開くと、それは母のマネージャーからのメッセージだった。どうやら向こうが一度に大量に送りすぎて通知が送れているらしく、変な間隔を空けてスマートフォンは何度も小刻みに、まるでこの季節らしくない寒さを感じているように震えた。
メッセージの内容は、どれも相当焦っているようで滅茶苦茶だったけれど、要約するとつまり、
[キミのお母さんが誘拐されてしまった! 居場所や犯人に心当たりはないか? そしてキミは無事か?]
というものだった。
僕の心配までしてくれるなんてできたマネージャーだ。少々落ち着きは足りていないようだが。
それはそうとしてどうやら、誘拐は狂言ではないということ。
『……あぁ、何かと思ったが。彼女のマネージャーかね』
「ずいぶん見えているみたいですね」
『さすがに画面までは見えないさ、さきほど彼らには脅迫状というものを送らせてもらったから、つまり推測だよ』
「要求でもあるのですか」
『まだそんな話をする段階じゃないさ』
段階ってなんだよ。
僕は端末を持ち替えて、再び耳に当て、ひとまず人目の或るところへと移動するため再び校門側へと振り向いた。が、そこではたと、今までどうして忘れていたのか、そう思いながら口を開く。
「あなたは学校にいるんですか? 学校とあなた、何の関係があるんです」
学校は本来休みではないはずなのに、先述している通り校内に人のいる様子は俄然ないままで、また誰かが登校してくる様子もまるで無い。
『今日は休みだと、キミが家を出た時点で、他の生徒には通達させて貰った──残念ながら』
残念ながら?
『すでに校内に居る人々がどうなっているか、キミなら想像がつくのではないかな』
沈黙。
校門付近から動く気もなくなって、僕はその冷たい柵に背中をあずけた。
なんて事だ。
『母親にずいぶんと似てきたね』
「……なんですって?」
『目元なんかそっくりだ。女の子にモテるんじゃないのか?』
その口調に緊張感はまるで感じられず、こちらを揶揄うような口ぶりにもはや苛立ちさえ覚えてきた。確かに、美しい母に似た容姿でちやほやされてきたことはわざわざ否定するまでもない。フランスかぶれの知りあいには、サン=ジュストの生まれ変りだと称されたこともある。死の天使長。
何を思ってそいつがそう言ったのかはわからないけれど、お似合いかもなと我がことながら他人事のようにそう、思った記憶がある。
ただ、この電話先の誘拐犯の、この一定して懐かしむような口ぶりはなんだ。
「あなたは誰ですか?」
『直球だな。答えると思うかい?』
「答えないのなら、先ほどのような思わせぶりな発言はやめることですね」
『あーあ、やな予感が当たりそうだね』通してずっと機嫌がよさそうな口ぶりだった電話相手は、そこで初めて嫌悪感を露わにした。『キミ、母親が死んでもいいと思ってるんだろう』
「そりゃあ、まぁ」
あぁでも、通常の感覚では、一応普通ではないと言ったところだから、殺さないでくれ! って、嘘でもそう言うべきだっただろうか?
長い沈黙が場を支配して、僕が鞄をどさりと地面に下ろしたとき、その静寂を破ったのは向こうの誘拐犯だった。
『矢ッ張り、せめてキミにだけでも、正しい愛を教えてあげなくてはならないね』
何を言い出すかと思えば、本当に訳がわからなかった。母を誘拐し校内の人間を殺して、僕に電話をかけてマネージャーを脅し、この人は何がしたいのだろう? 脅したというからにはマネージャーの方には何かしらの要求をしたのだろうけれど、僕の方にはしてこないということは、その要求をメインとして誘拐したんじゃないと言うことも出来る。
それではいよいよ何がしたいのか。復讐ならば、もっとスマートなやり方があるように思えるけれど、わからない。
しかし、愛と言われて僕は、母の薬指の絆創膏を同時に思い出していた。
「絆創膏というのは一種の愛だと感じることがあるよ」
学校の帰り道に転んで泣きながら帰ってきた僕の手当てをしながら、母さんはそう言ったことがある。僕がきょとんとしているのに気付いたんだろう、彼女は自分の左手の薬指をふいに示して、「これはなんだと思うね」と僕に尋ねた。その根元には絆創膏が巻かれていた。常に、どんなときにも。
僕はわからず首を横に振った。彼女は微笑み、僕に目線を合わせたその姿勢のままで絆創膏を指でなぞった。
「私に初めて絆創膏を貼ってくれた人が居る。私の些細な傷をいたわり、菌が入るといけないからと言って、消毒までする手間をかけた人が居る」
キミのお父さんだよ。
そう言った彼女の視線は、ちょうどその時僕のうしろにあった写真立てに向いていた。そこには母さんと、僕の知らない男が二人寄り添って写っていた。彼女は初めて僕に、僕の父親の話をした。
それが最初で、そして最後だった。
そんなことがあった。
母さんは、いつ何時でも、細やかに貼り替えては左手の薬指の根元を絆創膏で覆っていた。
いまだに、それが愛だと言う母の気持ちが僕にはわからない。「何が目的なのですか?」
『キミの母親は何も変わっていない』
「……はい?」
やはり復讐なのか。だが、その口ぶりは憤っているというよりは、どちらかといえば嘆いているように聞こえた。
「どういう意味です?」
『なに、焦ることはないさ。ひとつひとつ答えよう』
なんだかどうにもずっと、へんに向こうのペースに巻き込まれていて気に食わない。僕のムッとした顔が見えたのか、ヤツは『そう怒るなよ』と嗜めるような声を出す。
『キミが何を疑問に思っているかなんてわかるさ』
『まずは、なぜわざわざ学校を舞台として選んだか』
『言い訳するようだが、選んだのは俺じゃない。キミの母親だよ』
『キミの母親は、これまで授業参観などに来たことなんてない。どころか、住居以外、キミの生活圏内に入ったことは一度もないはずだ』
その通りだった。
三者面談もなにもかも、彼女が実際に僕とどこかに出かけるということさえありはしなかった。
『きっと彼女なりの分別だったんだろう。けれど、彼女はついに我慢できなくなった』
初めてだった。だから僕も、今日は少し、浮き足立っていた。
初めてだったのだ。
「学校から連絡が来た。今度の授業参観が最後なんだね」
彼女はそう言って、何日も前からカウントダウンまでして、きっと母さんも楽しみにしていた。
なのに、
どうして。
『だから俺も、止めざるを得なかったんだよ』
「……な」
『彼女がキミの世界に侵入するということはつまり、殺人をそこで犯すということだ。それは許されない。俺が許さない』
嫌な予感は確かにあった。
懐かしむような口ぶり、ずいぶん前に会ったことがあるというような言い方といい、考えてみればそれしかないという答えに行き着くのは実に容易い。
『どうして俺がそんなことをしなきゃならないかって、俺がキミの父親であり、彼女の夫だからだよ』
「……」
『こんな形だが、再びキミと話すことができて、俺はとても嬉しいよ』
僕の中にこんなにも苛立ちが渦巻くのは生まれて初めてのことだった。それはとても幸運なことなんだろう。この歳になるまで、今この瞬間が来るまで、僕は真実怒ると言うことを知らなかったということなのだから。
『俺にはキミを、キミの母親の毒牙から守る義務がある。キミの母親は、やがてキミのことも手にかけるだろう!』
まるで正義面をしてヤツは、僕の父親は言った。
それから、しばらく黙って、やがてぽつりとこう言った。
『彼女にこれ以上、重い罪を犯させるわけにはいかないんだよ』
自然と体から力が抜けて、僕は電話を切るでもなく、だらりと腕を垂らすことしかできなくなっていた。そこに在るは、嫌な虚しさだけだった。電話口から何か聞こえるが、もう誠実にそれを聞こうとする気力なんて一気に無くなっていたのだ。
僕はしばし呆然と、自分のつま先を見つめていた。
それから、今更なんだという怒りが再び湧いてきた。
今更なんだ。
今更、僕らの生活に口を出して来やがって。
腕を振り上げ、僕は力任せに端末を地面に投げ捨てた。電話はいつのまにか切れていたようで、ツーツーと言う音が、端末が固いコンクリートに打ち付けられるまで響いていた。
「矢張りわたしに、家族というものは不釣り合いだったのだ」
霞む目で見つめた先に、妻は感情の読み取れない顔で笑っている。異様なほど美しく、死にかけている己の現状も忘れて息を呑むほどに。
「特別に愛するということができなかった」
それでも愛したつもりだった。
「あぁでも──なんだろうな、これは」
春の日差しの中ポツンと立ち尽くし、彼女は薄い舌を動かして溢れる雫を舐め取った。
「なんだか、妙な感じだよ」
その薬指には、怪我でもしたのか絆創膏がキレイに巻かれていた。
力を振り絞って、血だらけの廊下をどうにか立ち上がっては滑って、ようやく窓の外を覗いた時にはもう、妻も息子も、そこにはいない。
後悔はない。やるべきことはやり終えた。俺が死ぬところまでが完成なのだ。彼女もそれはきっとわかっているはずで、先ほど彼女のマネージャーや所属事務所にも、これまでの殺人の証拠となるものを送り終えた。芸能人という立場だから余計に、社会的制裁は大きいものとなるだろう。それで良い。そうなるべきなのだ。
彼女は間違っている。実に正しく間違えている。その倫理観は犯罪的で、犯した罪は償いようがないほどに重い。その息子もまた間違っている。だが彼ならまだ間に合うことだろう。どうにでもなる。死にさえしなければ、生きてさえいれば。俺は死ぬけれど、彼が生きてさえいるならば、そして罪を犯さなければ、俺の命がここで終わることなど構やしないのだ。それこそが愛だ。特別に愛するということだ。そしてそれを、彼が気づく必要もない。何も気が付かず、母を失った悲しみに暮れながら、真っ直ぐに正しく、生きてさえゆけるならば、それで良いのだ。