縄文弥生最新
弥生人も大体わかった。ずっと謎だった南からの遺伝子の流入は?これは稲作時代には無かった事が判明した。文化伝播であるのがDNAの変化に南からの影響がないため分かった。じゃ日本人にある下戸遺伝子は明らかに南部のものだけど?これについては、この遺伝子旧石器時代のもので、もっと古くに北上したと思われる。
以前から稲作の方が歴史が古いので黄河雑穀農業は長江稲作農業に影響を受けて生まれたのではないか?と考えたことがある。まあこれは今でも答えは出てない。だが黄河雑穀農業は早くから稲を雑穀に加えていた。はっきりいってしまうと黄河農耕民が南下する前から稲作農耕民が北上していたのじゃないか?と見ている。
初期の黄河文明の遺跡にすでに南部では稲が栽培されていた証拠がある。これは変な話じゃない。当時温暖になっていく過程だったので、どんどん北上して黄河農耕民が居る前から南部の稲作民が居て合体した可能性がある。DNAを河南省から南に絞って丁寧に探っていけば謎が解けるのではないか?と見ている。
実際北部の南部系統の遺伝子は分岐の時代が旧石器時代近いのは言われている。後熱帯ジャポニカが栽培されていたのは長江だが、温帯ジャポニカは北部で生まれた可能性が示唆されている。それと言うのも長江で見つかった米は熱帯ジャポニカは確かだが温帯ジャポニカは分からなかったとの見解になっている。
これが何故か一部の人間は都合よく温帯ジャポニカも長江で生まれたと決めつけて長江直接ルートを唱えたわけである。実際この発見をした佐藤教授は分からないと答えてるんだ。正しい答えは判別できないである。これを温帯ジャポニカの可能性があると書き換えて流布する事は可能だ…。一番古い温帯ジャポニカの米が見つかったのは渤海周辺だ。事実はこうだ。
確かに日本人が移住する前の時代に稲作は北上したが、これは山東省南部で止まっている。理由は熱帯ジャポニカだからだ。だが長江の進んだ稲作の影響がはっきりとこの時期北部に現れる。これはどういうことか?DNAの流入はほぼない。なにせどの地域からも全くない。前の時代と黄河下流域の山東省北部で変化が全くなかったんだ。
これはDNAの流入が無い稲作と言う知識農業技術の流入だけが行われたと考えるしかない。同様に日本式稲作はさらに山東省で独自に追加的に開発されたのが分かっている。これは朝鮮半島ではない。旧石器時代、新石器時代初期に北上した稲作民が山東省から日本に向かって混血を繰り返しながら流入したと考えて良いと思う。
ハプロでいえば現在は残ってないが、O1B2だろう。これ歴史時代にはまだ山東省に今より残っていたことが分かっていて、そのためO2じゃなくて日本にO1B2が多いのはこのせいだろう。
私がずっと探していた長江の進んだ稲作が北上して日本に来たってのは多分無いかと…。これかなり大きい。何故なら鳥居の元のようなものが中国南部にあるからになる。だが旧石器時代から新石器時代初期の付近にすでに住んでいた渤海付近の住人となるとこれはいかに?となる。
鳥居の文化伝播の可能性はある。理由は何故か山東省は鳥をベースにした神話が多い。都合よく神の使いである鳥が止まる門のようなものが南方から伝わってくれば稲作と共に取り入れる可能性は十分あるかと。どちらにしろこれが日本人の起源だみたいな中国南方の少数民族は皆嘘である…。
O1B2というよりO1Bがいつ北上したのか?は全く分かってない。ただ新石器時代の初期より前なのは確か。
下戸遺伝子、Y染色体ハプロO1B2、南方由来のHLAハプロ。日本人に存在するこれらのハプロは特異であり起源が気になる点。だがそれは通説では日本の稲作上陸の時に南部から北上したと考えられてきたが、それは間違いだった。稲作民が北上する4000年前付近に山東省北部ではDNAが変化した形跡は一切なかった。
ゆえにすでに黄河文明の最初期に発見された稲作栽培の形跡からおそらく先に発達した長江文明の北上の時期にそれらの遺伝子は北上したと思われる。O1Bは北部だろ?だがこれインドに多い。インド付近の島にはO1Bだらけって島もある。O1Bの多くの民はインドにおいても稲作民である。
ムンダ語はオーストロアジアの影響があるとされている。確かインドにいるが、この民族DNAからO1Bがあった気が。インド東部はO2のビルマ系が居るため顔つきもかなり違う民族が多々いる。全くルートが違うがチベット系もインド北部に入るため。ちょいちょい東アジア人っぽいインド人が居る。
後は稲作の起源から考えて、南部から北部とさらに東南アジアに向かったグループに分かれたと考えたほうが合理的だ。ただ北上と南下の起源は違う。何故か?というと栽培種は北限に向かう。これは合理的理由があって、虫の被害を減らせるからだ。餌とする虫がついてきたら困るが、大体これで初期はやりすごせる。後から虫も北上するだろうが…。
それに対して南部の南下は中国北部の集団の拡大による衝突が原因とみられている。戦争があったか?は分からないが、神話にはあったと残っている。時期は一致するので多分あったんだろう。物的証拠はない。
続いて縄文人がアマンダン諸島の集団と祖先が繋がってるのはY染色体ハプロからも明らかである。だがそれと同時に中国南部集団とも混血している。日本において中国南部集団の流入があって、先住民と混血したのか?これについて結論に近いものがあった。
中国の古代の人骨から、今では跡形も残ってない。アマンダン諸島と遺伝的に近いホアビン文化集団という過去の遺跡の集団がいる。これが中国全土にも広がっていて、チベットもこれに近いDNA集団になる。中国のあっちこっちから古代の人骨にはこれらの集団と中国南部、中国北部人との混血が見られる。
日本の縄文人に近い混血集団も中国南部で見つかっている。今ではすっかり跡形もなく消えてしまってるが、過去には高い割合の混血集団が多数いた。日本人は直接東南アジアから来たのじゃなくて、中国南部で現地の集団と混血してから日本にやって来たと考えると合理的だと考えている。
もちろん、中国南部で見つかった集団は全くの同一じゃない。だがこれに近い集団が中国南部にあったのだと考えられる。それと言うのも中国北部はまた中国北部集団が居たため起源は中国南部に限られると見ている。今はまだ見つかってないがより近い集団が中国南部で見つかるのじゃないか?と考えている。
ただし縄文時代に流入があった可能性は否定できない。
ポリネシア人と言語が近いとの話があるが、これは偶然の一致である。ポリネシア人は元々違う言語だったが、変化して偶然日本語に近くなったらしい。元となった台湾の言語は別に日本語と特異に似ているわけじゃないらしい。両者に共通する言語があってそれが海岸部に民族とともに広がって。
偶然同様の言語的進化をしたというのが答えかと見ている。直接ポリネシア人が来た可能性はあまりない。
追記:25/2/7
日本人には南方中国人の系統が入っている。ただ中国人は全域で南方中国人が混血してる。それなら弥生以降の大陸からの流入で入ってくるのでは?それがそう単純じゃない。HLAの判別によると時代がおおよそわかるらしい。縄文人じゃない。新石器時代のものとなる。
で、歴史時代に山東省に変化はない。中国の歴史時代は古い。弥生時代にはもう中国は歴史時代になってる。じゃ当然その前になる、その前の時代の報告が最近されて、6000~7000年前辺りに南北から流入があった。
南方の影響がやたらと言われるが、正直言って弥生時代付近だとあまり影響が無かったと思われる。温帯ジャポニカ自体長江にすでにあったと言われてるが、これかなり疑わしいと言われてて、確定とは思わない方が良い。北方で生まれた説があり、私もこれじゃないかな?と見てる。
日本の稲作は山東省がルーツだが、南方の稲作民が弥生付近に大量に北上した。これは無いんじゃないかな?と見てる。やや異色のDNAではあるが、それは割合の問題であって、アジア東部、アジア北東部って日本人のルーツになった要素はすでに出来ていて、これが中国の中央の集団に押されておそらく半島に行ったと見ている。
アジア東部人であって南北は特に分けてない。この点は良いと思う。南部人の北上は歴史前ですでに南部人と北部人の混血が当たり前になっていたので南北で混血率の違いはあっても取り立てて特殊な集団じゃない。そっちより、おそらく日本に来た初期の稲作民はアジア北東部のDNAが濃い集団だと思う。
全くアジア東部人が含まれない個体も弥生時代は出てるので、そこから推測してになる。弥生人はアジア東部人、アジア北東部人の混血であるが、巧者の割合がおそらく高い。そして弥生以降古墳までの流入した集団はアジア東部人の割合が多い。
良く言われる純粋な弥生人は北東部人で、東部人が古墳時代までに流入したって仮説はあれはデータが少なかった時代の誤謬なので、弥生人と古墳人って綺麗に分かれるDNA集団はない。弥生人と古墳人は東部人と北東部人の割合が違うと見れば分かりやすい。
ただ全く触れられないが、HLAの分析から、中国の平均的な集団と古墳人は違う。これは何故か?と言うとおそらく日本に入ってきたアジア東部人は中国の朝廷付近の勢力が拡大する前の偏った地方の地域からの移住者だとも思われる。