【9】初恋
「――何しているんですかっ、この、馬鹿でっ、愚かでっ、考えなしの弟弟子はっ!」
美貌の『妖精の騎士』が命じて間もなく、部屋に飛び込みざまに怒声を響かせたのは、ジョヴァンニだった。
急いで駆けつけたのだろう。彼はゼイゼイと肩で息を切っている。
今朝見たときと変わらない服装ではあったが、上品に整えられた蜂蜜色の髪や衣類に、わずかな乱れが見えた。
「弟、弟子……?」
(えっ……噓でしょ!? このひと、ジョヴァンニさまの、弟弟子なのぉ!?)
そんなまさかと、ローザは耳を疑った。
弟弟子。この美しくも常識外れな青年が、善良で良識のあるジョヴァンニの弟子だとは、にわかには信じがたい。
しかし、ジョヴァンニは笑えない冗談を言うような人間ではないのだ。
『妖精の騎士』もといジョヴァンニの弟弟子は、持ち上げていたローザをギュウと抱え込む。
まるで、お気に入りのおもちゃを取り上げられたくない、こどものようだった。
「ひぃっ……!」
「何って。ジョヴァンニ、僕はラファエラ・モッロの孫娘を弟子にしたい。だから、会いに来た」
何かおかしなことでもある、と言いたげに、彼は首を傾げる。
ローザからすれば、おかしなことだらけである。まず、降ろしてほしい。
頼りのジョヴァンニは頭を抱えて、覚えの悪いこどもに言い聞かせるよう、口にした。
「いいですか、クロード。まず、夜半の神殿に許可なく押し入るのは、立派な犯罪です」
「ジョヴァンニが何とかしてくれたんでしょ? それなら共犯者だね」
どうやら『妖精の騎士』ことクロードには絶対の自信があるようだった。
図星だったのだろう。ジョヴァンニは苦々しい表情で訊ねた。
「…………。しかし警備が薄いとはいえ、よく、ここまで辿り着きましたね?」
「見張りも神官も、みんな気持ちよさそうに眠っていたもの。……そうだ、侵入者がいるかもしれない」
口にしながら緊張した面持ちを見せるクロードに、ジョヴァンニは白けた顔で問う。
「……眠っていた? 君は何を言っているんです?」
「ジョヴァンニだって、見たよね? 眠りに落ちる人間たちを」
ジョヴァンニは何を馬鹿な、とでも言いたげな表情だ。ローザも同じ気持ちである。
「眠っている? 私が辿り着いたとき、神官は仕事で残っていましたよ? もうそれはバッチリ、目覚めていましたとも」
「え? でも……」
「君と別れてから嫌な予感はしていたのです。私は疲れた神官の愚痴を聞きながら、やっとのことで面会を取り付けたんですよ。侵入者は、むしろ君自身ではありませんか」
キョトンとするクロードに、ジョヴァンニはぶつくさと続ける。
「いいですか、クロード。君は行き当たりばったりなんです。もっと頭を使って考えて行動してください」
「……わかった。ねぇ、どうしたら、この子を弟子にできるの?」
殊勝に頷きながらも、兄弟子の教えに従わないクロードの質問に、ジョヴァンニは美しい顔を引き攣らせた。
「頭を使って考えろと、言ったばかりですよね?」
「うん。分からないから。知ってる人間に、聞いてる」
(うわぁ……)
このやり取りだけで、ジョヴァンニが弟弟子にどれだけ苦労させられているか、十分すぎるほど理解できた気がする。
ローザは同情しながらも、このひとがあたしの師匠になるのか……と、不安を抱いた。
「……弟子を取るなら、それなりの手順が必要になります。まず、君の保護者である私の了承を得るのが大前提」
「ジョヴァンニ、僕は彼女を弟子にしたい。かまわない?」
すかさず訊ねたクロードに、ジョヴァンニはいよいよ天を仰いだ。
「はぁ……。思えば君は、これまで弟子を取る気がありませんでしたね。今は一時の感情のままに動いているのでしょうけれど」
「そんなことない。僕は本気だよ」
むきになったような、ムッとした声色でクロードは反論する。
そんなクロードにジョヴァンニは冷めた青色の瞳を向けた。
「弟子を取るというのは、師として面倒を見るということですよ。君に、できますか?」
ジョヴァンニはペットを飼いたい、とねだるこどもを諭す、親のように。無情な顔で問いかけた。
「もちろん。一緒に暮らして面倒を見る。衣食住に困らせることはしない。一切の不自由はさせない。弟子にするからには、一生、誰よりも、大切にする」
ローザは困惑した。何と言うか、覚悟が重すぎる。
ジョヴァンニも呆れたように呟いた。
「そういうのは、弟子にではなく、愛する女性に向ける言葉ですよ。そもそも、君に師匠が務まりますかね?」
「問題ないよ。師トラヴィスのように、接すればいいんでしょ?」
クロードは自信たっぷりに答えるが、ジョヴァンニは苦い顔をする。
「君にとっての師は、口は出さず、金は出す、都合のいいおじさんだったでしょう? 技術もろくに教えず、君の好きなように学ばせた。参考にしてはいけない例ですよ」
「それでも僕は、画家としては一流らしいね?」
クロードが卑屈そうに返すと、ジョヴァンニはウッと声を詰まらせた。
「その教育が君に適切だった、という話です。ローザがそうとは限りません」
「それもそうか。……ねえ、ラファエラ・モッロの孫娘」
クロードはローザに金色の瞳を向けた。ずっと話に置いてきぼりになっていたローザに、急に話の矛先が向けられたらしい。
「は、はいっ!?」
「ラファエラ・モッロはどういう教育を施したの?」
いきなり教育方針を問い詰められても、困る。
ローザは悩みながら、ボソボソと呟いた。
「……おばあちゃんの口癖は、技術は盗むものだって……。だからあたしは、おばあちゃんの絵を見て、真似をした……」
「そう。それなら僕の絵から存分に学んでよ」
クロードはこれで決まりだ、と言わんばかりに頷いた。
「どうせ、彼女につける師のあてもないよね? 〈異端画〉を描いた娘を弟子に迎える人間なんて、そうそういると思えないし」
率直な物言いに、ジョヴァンニは何か苦いものを飲み込んだような顔をする。
〈異端画〉を描いて、本来裁かれるべきだったローザは、「若い身故の過ち」であると、潔白の身となった。
だが、ローザがこれからも絵を描くためには、監視としての師が必要となるのだろう。
彼の言う通り、経歴に傷のある若者を引き取りたがる、奇特な人間がいるとは思えない。
そういう意味では、これまでの行動を鑑みてもクロードは相当な変人なのかもしれないと、ローザは密かに思う。
ジョヴァンニは黙り込み、何やら考えているようだったが、やがて観念したように、深い溜息をこぼした。
「クロード。君の覚悟は十分に伝わりました。あとは、ローザ、君の覚悟次第です」
「……あたしの?」
ジョヴァンニはローザに、真剣な眼差しで問いかける。
「ローザ。君は、クロードの弟子になりたいですか。絵を、これからも描きたいですか?」
「……えっと」
ローザは思わず口ごもる。
本音を言えば、クロードの弟子になるのは、ものすごく嫌だなぁ、と思った。
絵は描きたい。ラファエラのような、星葬画家になりたい気持ちはある。しかし、クロードは何やら、すごく、ものすごく素行に問題のある人物であることは、この短時間の間で十分すぎるほどに、理解していたのだ。人間性に問題がありすぎる。
ローザがモジモジと言い淀んでいると、拘束がわずかに強まった。
「ひぃぃぃぃぃぃぃぃ……!?」
「――ラファエラ・モッロの孫娘。ローザ」
ジタバタ震えても、びくともしない。
こんな痩せた躰のどこからそんな力が出てくるのだろう。慄くローザに、クロードが真面目な表情で、問う。
「おまえは、僕の弟子になってくれる?」
先ほどまで強気だったその声色は、脅すのではなく、強要するのでもなく。
どこか希うような切実な響きを持っていた。
だからローザは疑問に思った。
(どうして、このひとは。あたしなんかを、弟子にしたいのかな……)
クロードは先ほどから、『ラファエラ・モッロ』の名前を口にしていた。
きっと祖母を尊敬しているのだ。そしてローザはその孫娘だから。求めるのか。
だったら……期待を寄せられても困る。
(あたしはおばあちゃんみたいな、画家にはなれないの……)
だってローザはラファエラと血縁関係はないし、絵の技術も完全に継承しているわけでもない。
そういった目論見でローザを弟子に取りたいと請うのであれば、ローザは申し訳なさを感じながら、断るのだろう。
でも、少しだけ。
そうではないといいな、と願ってしまう。
ローザ自身を求めてくれるのであれば。
だから、わずかな期待を込めて、震える声で問い返す。
「どうして……。あなたは、あたしを、弟子にしたい、の……?」
クロードは言葉を受けて、美しい金色の瞳に迷いを滲ませた。
「……理由はいくつかあるけれど。でも、一番の理由は……」
それから、すこし恥ずかしそうに。彼ははにかんだ。
「僕は、おまえの絵を好ましく思う。……つまり、その。好き、なんだ」
「……………………え?」
ローザは思わぬ言葉に、キョトンと目を丸くした。
そんなローザを置いて、クロードは続ける。
「僕はおまえが描いた、ラファエラ・モッロの〈星葬画〉を見た。はっきり言って技術は稚拙だし、雑や粗さが目立つ。おまえよりも絵のうまい人間は、他にもいる。でも」
クロードは思い出しているのだろうか、美しい金色の瞳を、うっとりと細めた。
「ラファエラ・モッロを想う気持ちが、十分に伝わった。ラファエラ・モッロに愛され、おまえ自身も愛していたのだろう?」
「は、い……」
愛していた。いや……今でも愛している。
おばあちゃんは血の繋がりがなくても、ローザにとっては大切な家族なのだから。
「〈星葬画〉は祈りの表れだ。命の幸福を願う想いが込められている。そういう意味であれは、あれはかけがえのない〈星葬画〉だと僕は思う。特別扱いは好きじゃない。でもそれが恋なら観念するよ」
クロードははにかみながら、続けた。
「あのとき僕は、おまえの絵に一目惚れしたんだ。それが〈異端画〉だと気づけなかったほどにね」
ローザの描いたラファエラの〈星葬画〉は、〈異端画〉とされ、認められなかった。
目にしたであろうジョヴァンニも、絵の出来についてはなにも言わなかった。
誰も、認めなかったのに。……唯一、認めてくれるひとがいる。
その事実に、ローザの瞳からは、自然と涙がポロポロと零れた。
ローザの願いが、ラファエラに届いたのだという。
その言葉が、ただただ――嬉しかったのだ。
「だから僕は、これからは。おまえが描く〈星葬画〉を、一番傍で見ていたい」
「…………っあたし、これからも、絵を、描いても、いい、の……?」
『異端』と呼ばれたローザでも。許されるのだろうか。
想い、祈ることを。そして、絵を描くことを。
『妖精の騎士』のような男は、力強く頷いて見せた。
「ああ。当然だ。おまえは、僕が何度でも恋するような、絵を描くと、誓ってくれる?」
はい、と心の中で、密やかに誓う。
口にしたくとも、ローザはもう、とてもではないが、返事をすることは叶わなかった。
彼の胸に顔を押しつけて、ワンワンとこどものように泣きじゃくるしか、できない。
ローザを抱く腕は優しく、ぬくもりはどこか懐かしい。
大好きだったラファエラ。愛していたラファエラ。
ラファエラ。ラファエラ……。
彼女に抱かれた記憶と重なり、涙は一向に止まらなかった。




