異世界の神界④
「…………」
異世界の女神の姿をみて、湧き上がってくる恐怖心とは裏腹に、海咲の心はひどく落ち着いていた。
他人を助けて、自分が地獄におちるなど馬鹿げている。
ルカを助けなければよかったのだ。ナギを助けなければよかった。ましてや、ほとんど知りもしないクラスメイトなど、助けようとするからこんな目に遭うのだ。
何をしているのだろうか、自分は……。
「本当、何やってんだろう……」
海咲の中の冷静な部分が、感情的で軽率な行動を否定していた。
しかし、なぜか後悔はなかった。
モニアが偽物であったと分かって、安心している自分がいた。
異世界召喚に巻き込まれたのは、自分だけだった。
間抜けな自分だけだった。
それはそれで、良かったのかもしれない。一瞬、そう思ってしまった。
放心する海咲に、異世界の女神が語りかけた。
「ここに呼び出された理由は、分かっているな?」
「…………」
異世界の女神の機嫌を損ねてはまずい。すぐに返事をしなければと思った。
緊張感から喉が渇いて、すぐに言葉がでてこない。
異世界の女神の唇が動く。その動作が、あまりにもゆっくりにみえた。
「私の異世界へおもむき、魔王を殺せ」
心臓が、はねた。
生唾を飲み込んで、心を平静に保つ。冷や汗が頬を伝うのを感じながら、唇を開いた。
「お断り、します……」
静かに、告げた。
異世界の女神の赤い瞳が大きく見開かれる。その迫力に飲まれそうになりながら、それでも意志を曲げるわけにはいかない。目に力を込めて、異世界の女神にいった。
「拒否権など、あると思っているのか?」
異世界の女神の手のひらに召喚の魔法陣がうかんだ。手にしていた鉄扇が魔法陣の中に消える。代わりに、一本の木の枝が召喚され、異世界の女神の手ににぎられた。
何の変哲もない木の枝は、上質な魔法杖であることを、海咲は理解する。
凶器を取り出した異世界の女神は、余裕の表情を崩さないまま、海咲に質問した。
「とりあえず、理由をきいてやろう。何故だ? 以前、ここに現れたときは、お前は喜んで異世界へおもむいたではないか」
慎重に言葉を選びながら、海咲が返答する。
「わたしでは、女神様の期待に応えて、魔王に勝利することはできないかと……。前回は、ただ運がよかっただけです……」
「ただの一度も敗北しなかった者が、ずいぶんと弱気ではないか」
女神が首を横にふった。
杖の先端を海咲に向ける。海咲が反射的に身構えた。
「簡易詠唱――『状態評価』」
突き出した杖の先端に魔法陣が生じ、さらにその中に文字が浮かび上がる。
『 真田 海咲
体力:C 魔力:D 筋力:A 敏捷:B 頑丈:D 精神:C
スキル 『聖剣の加護』 称号『英雄』 』
さらに、文字が続いていく。見慣れた自分のステータスだ。海咲は目を伏せた。
「見よ。これがお前だ。私から聖剣を与えられているとはいえ、ここまでの能力値に成長できる人間はそういない。お前に魔王討伐が不可能であるなら、他に誰が魔王を討伐できるというのか……。おや、お前……」
すると、異世界の女神が不思議そうな声をあげた。
海咲がステータスに目を向ける。
魔法陣に浮かぶステータスの文字がスクロールされ、戦績の欄で止まっていた。
「――何だ? その敗北は」
海咲のステータス欄には、こう書かれていた。
『 戦績――二九七一戦 二三三九勝 六三一分け 一敗 』
異世界の女神の瞳が、好奇の色に光る。
「異世界にいたころのお前は、確かにただの一度として、誰かに負けるなどしなかったはずだ。ということは、この黒星は日本に帰ってからついたものか……?」
異世界の女神の言葉で、海咲は気づいた。
この一敗は、ナギとの一戦によってもたらされたものだった。ナギは一切の反撃をしなかったが、海咲は負けを認めた。あの戦いの結果、海咲のステータスが変わったのだろう。
「――誰だ?」
低い声で異世界の女神が質問した。
海咲に緊張が走る。
「真田海咲――お前が異世界に行かない選択肢など、与えるつもりはなかったが……お前以上の力を持つ者がいるのなら、その者を代わりに立てることで、今回は見逃してやろう」
そっと異世界の女神が、細い指さきで海咲の頬にふれた。
杖の先端が、ぐっと眼前に迫ってきた。
「誰に負けた? 答えろ」
女神が詰問した。もし、回答を拒否すれば、異世界の女神は魔法を用いるのだろう。
この距離だ。回避はできないかもしれない。
ナギの名前を言うだけだ。
誰かを助けて、異世界に来たことを、先刻、軽率だとおもった。
ナギは海咲を守ってくれるといっていた。
口にすればいい。そうすれば、海咲は助かる。
「…………」
冷静な頭では分かっていた。それでも、自分の身代わりに、ナギを危険にさらすことはできない。そう海咲は判断した。
(ああ、損な性格しているな……)
自嘲気味に笑う。
海咲は、杖越しに異世界の女神をまっすぐにみかえした。
そして、答えた。
「……異世界には、わたしが行きます……。だから、彼のことは見逃してください」
言えた。
恐怖も不安も、理不尽への憤りもすべて飲みこんで、ちゃんと言葉にすることができた。
「……」
ぽかんと、異世界の女神から表情が消えた。
そして、杖が十字を切った。
次の瞬間、無詠唱の魔法が発動した。海咲の足もとから太い木の幹が現れ、蛇のように巻き付いて、海咲を締め上げた。
「あっ……」
足を捩じ上げられ、海咲が悲鳴を上げた。
「答えろ。誰に負けた?」
再度、異世界の女神が質問した。その声は、少しだけ面倒くさそうだった。
「……」
海咲は答えない。
異世界の女神が首を横にふった。
「話の分からん奴だ。もとより、お前に拒否権などない」
異世界の女神が、杖を振りかざした。
魔法がくる。
身構えた海咲に、異世界の女神が詠唱した。
「簡易詠唱――『精神混乱』」
「ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああっ――!」
突如、膨大な量の情報が脳の中を駆けめぐった。なだれのように押し寄せた尋常ではない情報の量に、脳がパンクして、何も考えられなくなる。
精神混乱魔法だ。とっさに判断して、わずかに残った理性的な部分で魔法を解除しようと試みた。
「簡易詠唱――『状態異常回復』!」
魔法を詠唱するが、木の幹にとらわれているせいで、頭に手をかざすことができない。
海咲の状態異常回復魔法は、あさっての方角へと飛んで行ってしまった。
何とか、手を頭に向けなければと腕に力を込める。先に木の幹を何とかしなければ、腕を動かすことはできない。分かっているのに、どうすれば木の幹を何とかできるのか、判断ができなかった。
「簡易詠唱――『状態異常回復』! あくせぷと、れじしょん! あくせぷと、れじしょ! あくせぷと、あくっ、あくせ……!」
無為に魔法を連発し、ついにまともに魔法を唱えることすらままならなくなる。
混乱する海咲に、異世界の女神が語りかけた。
「答えろ。お前は、誰に負けた?」
負けた?
誰? ナギだ。椎名ナギに自分は負けた。
そのことを、異世界の女神に知られては――。
「な……」
何も考えられなくなった脳が、唇を動かし始めた。
「答えろ」
「なっ――――――――――――――――――――――――――――――――っ――!」
とっさに、海咲は唇を噛んだ。
「ほお? 私の魔法にまだ抗う気力があるか。大した根性だが、それは苦痛を長引かせるだけではないか?」
甘美な声で異世界の女神がささやく。
精神混乱魔法によって、海咲の脳はひどい頭痛を発していた。
言われるがままにナギの名前を口にすれば、この苦しみから解放されるのだろうか。
そんな錯覚さえ芽生える。
「――答えろ」
耳元で女神がささやいた。
(いやだ。いやだ――)
「たすけて……」
精神混乱魔法のせいで、声にできたのかさえわからない。
そんな願いを、呟いた。
「――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――!」
その瞬間、雷が神殿の中を駆け抜けた。
「ッ――――――――――――――――――――!」
凄まじい破裂音と共に、海咲の目の前が白一色にそまった。
「何ごとだ!」
飛び退いた異世界の女神が、悲鳴みたいな声をあげた。
混乱する海咲には、何が起こったのかが分からない。
海咲に駆け寄ってくる足音がきこえた。
真っ白になった視界が、徐々に戻ってくる。
「海咲――!」
真っ黒な学ランを着た男の子が、海咲に駆け寄ってきた。
そして、男の子は海咲に手をかざす。
「はらえ」
ガラスが割れる音がして、海咲にかけられた精神混乱魔法が解除された。
更に、海咲を縛り上げていた木の幹が消失し、地面に落ちそうになったところを、男の子に抱きとめられる。
海咲は彼を知っていた。
「な、ぎ……?」
ナギが現れた。
きっと、自分を助けに来てくれたのだ。
来てくれてありがとう。でも、ここに来てはいけない。だって、今――異世界の女神の狙いは、自分ではなく――。
様々な言葉が頭に浮かんだ。精神混乱魔法の余韻のせいか、思考を言葉にできない。
ナギが不安げに眉をよせた。
「ごめんな、来るのが遅くなった。大丈夫か? 唇、痛いよな?」
先刻、噛み切ってしまったのだろう。海咲の唇が切れて、血が流れていた。
ナギがゆっくりと床に海咲を下ろした。
学ランのポケットから、ハンカチを取り出して、口元に当ててくれた。
「ナ、ギ……? どうして、ここに……?」
海咲が目をまたたかせた。
よく見ると、彼は一本の日本刀を携えていた。刃渡り七十センチほどの太刀だ。
まさか、異世界の女神と戦うつもりなのだろうか。
ダメだ。勝てるはずがない。止めなければ。
そう思った海咲に、ナギが優しく笑いかける。
「もう大丈夫や。あとは全部、僕に任せとき」
その笑顔に、海咲は言葉を失った。
先刻までの恐怖心がかき消えて、胸の奥にあったかい安心感が広がっていく。
日本刀のみねを肩に乗せ、ナギが立ち上がる。
ふりかえり、背後の異世界の女神を睨んだ。
二人の視線が交差する。異世界の女神は、忌ま忌ましげに、吐き捨てた。
「日本の神が――何故、ここにいる?」
日本の神。
異世界の女神にナギがそう呼ばれていた。




