不安の足音①
海咲は、異世界に召喚された当初、未だ見ぬ冒険にこころおどらせていた。
だが、現実は物語のように甘くはなかった。
戦火に国土を蹂躙され、十分な豊かさも、発達した科学力ももたない未発達の世界。物資はいちじるしく不足し、そこに住む人の心はひどくすさんでいた。異世界は、平和ボケした女子高校生が、たったひとりで歩くには、過酷すぎる世界だった。
海咲が生き残れたのは、ひとえに運がよかったからだろう。
日本に戻った今でも、時に不安が頭をよぎる。異世界から帰還できたのは夢で、自分はまだあの地獄のような世界にとり残されているのではないかと。
麻袋に入ったコインが、擦れ合う音に目を覚ました。
頭がボーッとする。ひどい臭気が鼻をかすめ、思わず息をするのをためらった。
海咲がまぶたをひらいた。
目のまえに、肌が黒ずむ感染症を患った中年男の顔があった。前歯の欠けた中年男が呼吸をあらくして、ベッドに横たわる海咲におおいいかぶさっていた。
中年男が息をするたびに、ひどい悪臭が海咲の顔にかかった。
(……何?)
思考がまとまらない。
悲鳴を上げなければと思うが、何故かろれつがまわらない。
中年男を押しのけ、逃げ出さなければとおもう。しかし、体が動かなかった。
揺れる視界の向こうに、骸骨みたいにやせ細った老婆の姿がみえた。彼女は、海咲が異世界に来て、初めて優しくしてくれた人だった。寝床と食事を提供してくれた。
たしか……、海咲は彼女の作った夕食を食べて、そして……どうしたんだっけ。
「おい、ばあさん! 薬をケチりやがったな。娘が目を覚ましたぞ!」
海咲の視線に気づいた中年男が、老婆に非難の目をむけた。
「細かいことを気にする男だね。どうせ動けやしないよ」
「魔物に食わせる時に悲鳴が聞こえたら、後味が悪いだろうが」
中年男が海咲の肩に体重をのせてきた。
徐々にクリアになってきた思考が、確かな嫌悪感をいだいた。体が自由に動かない。見ると、手は鎖で繋がれていた。
「悪く思うなよ。こうして旅人を食わせとかねぇと。魔物達は、俺たちの家族を食うんだよ……」
自分が何をされているのかも分からず、頭の中が真っ白になっていく。
「っ! ……っ……!」
ただただ、怖かった。
悲鳴をあげようとするが、体がしびれて声がでない。
震えない喉が、ヒューヒューと息だけをはいた。
やめて。やめて。やめてやめてやめて――。
「やめてっ!」
女神から与えられた『聖剣』を召喚すると同時に、海咲は悲鳴をあげた。聖剣の能力で、体を蝕んでいた毒が一瞬で浄化される。聖剣によって身体能力を向上させた海咲は、鎖を引きちぎり、中年男の顔面を剣の柄で殴りつけた。
中年男の体が床を転がって、老婆が目を大きく見開いた。骸骨みたいな顔から、目玉が飛び出してしまいそうだった。
中年男が頭を抑えてよろめきながら、起きあがった。頭から血が流れている。
「人殺しだぁー! 誰か来てくれ」
しわがれた声で、老婆が叫んだ。海咲は逃げ出そうとしたが、足に力が入らずに床に転がった。
足がすりむけて、血が流れる。痛い。
小屋の外から、老婆の悲鳴を聞きつけた村人たちの足音が、無数に近づいてくる。
逃げなければ。
立ち上がろうとした。しかし、足首から下が上手に動かせなかった。
ベッドから落ちて、床に転がった。
慌てて、自分に回復魔法をかける。足のすり傷が治癒した。
体が動くようになった。海咲はベッド脇の窓を突き破って、外へ飛び出した。
そして、夜道を駆け出した。
背後から、海咲を誰かの怒声がおいかけてきた。
逃げなければ。
魔王を殺して、はやくこの異世界から、逃げ出さなければ。
だが、異世界は海咲を逃してはくれなかった。魔物との戦いは、苛烈を極めた。味方であるはずの人間にも騙されて、利用されて、傷つけられた。この世界では、人を信じるほうがバカなのだと思い知った。
そして魔王との戦いがはじまった。魔王は、どんな敵よりも強かった。
この瞬間に、まだ死んでいないことが奇跡だった。
生きて家に帰ることなんて、無理なのだ。
魔王と戦い、聖剣を振り回しながら、ただただ漠然と、そう思っていた――――。
「――あああああっ! ああああー!」
喉が悲鳴を上げて、海咲はベッドから飛び起きた。自分が眠っていたのだと気づいた。
豆電球の明かり。木製の学習机。北欧製家具の白いクローゼット。見慣れた景色だ。見慣れた自分の部屋だ。ここは、異世界ではない。
「っ……夢……?」
夢だった。
異世界にいたころの、夢をみただけだった。
べったりと汗でぬれたパジャマが、背中にはりついて気持ち悪い。
枕元の時計に目をむけた。時刻は午前二時。まだ夜も深い。
だが、妙に部屋の中が明るかった。視線を落とすと、ベッドの下に聖剣が転がっていた。魔力を帯びた剣身が、暗闇に淡い光をはなっていた。
「何で聖剣が……? ああ、さっきの夢のせいか……」
寝ぼけて聖剣を召喚してしまったのだろう。
海咲は聖剣を拾い上げ、送還する。聖剣の光が消失し、部屋が一気に暗くなった。
ベッドに横になり、再び寝ようとこころみる。
さきほどの悪夢のせいか、結局朝日が昇るまで寝付くことができなかった。
締め切ったカーテンの隙間から、部屋の中に光がさしこんできた。
寝つきが悪かった朝に見る光ほど、精神をむしばむものはない。
いつも通学前の朝は憂鬱なものだが、今日はいつにも増して気分が晴れなかった。
それでも、体は馴染んだルーチンワークをこなすように、時間になるとパジャマから制服に着替えた。
「何であんな夢をみちゃったんだろ……」
考えるまでもない。原因は椎名ナギだ。あの男が異世界の関係者であることはまちがいない。そのことについて、寝る前に考えていたせいで、あんな夢をみたのだろう。
目が覚めてしまった。まだ通学するには早い時間帯だったが、家を出ようと思い立ち、海咲は荷物をかばんにまとめた。
その時、「コツンッ」と海咲の部屋の窓がなった。
「何……?」
鳥でもぶつかったのだろうか?
海咲が窓の方に目を向けると、更に「コツン、コツン」と窓がなった。何か硬いものが、カーテンの向こうで窓ガラスにあたっている。
カーテンをひらくと、眩しい朝日が薄暗い部屋にさしこんできた。
窓の外に目をむける。そこにいた人物を目にして、血の気が引いた。
「おーっ、海咲! 早起きやな。おはよう」
窓の外に、ナギがいた。
海咲の家の塀に登って、部屋の窓めがけ、小石を投げていた。
なぜ、ここが海咲の部屋だとわかったのだろうか? いや、それ以前に、どうやって海咲の実家を知っていたのだろうか? 頭の中がぐるぐるする。
「どうしたんや? 鳩が豆鉄砲食らったみたいな顔になっとるで?」
海咲は窓を開けて、何度も瞬きしてナギを見た。消えない。幻ではない。
「何でここにいるの……?」
「一緒に登校しようと思って、回り道してきてん。もうご飯食べた?」
平然とナギが答える。
「そうじゃなくて、何でわたしの家を知っているのかってきいてるの!」
思わず語気が強くなった。
「ニオイをたどったんや」
「におい!? わたしの!?」
「いや、僕のニオイ」
意味がわからない。
「細かいことはええやん。ほら、学校行こ。きっと楽しいことが待っとるで」
ナギが、木漏れ日を背にうけながら、海咲に手をさしだした。
その姿が、なぜか記憶にある、あの女の姿とかさなった。
『異世界へ行きましょう。きっと楽しい旅になりますよ』
見目麗しい褐色の美女が、海咲に手をさしだす。
女は、異世界の女神を名のった。
女神が、真っ赤な瞳で笑う。耳まで裂けてしまいそうなほど、歪んだ笑顔だった。
女神が、海咲の手をひいた。
異世界へ。
この女神に、海咲は異世界へつれていかれた。
「っ……」
ただ記憶がフラッシュバックしただけなのに。海咲は、自室で腰を抜かして倒れこんだ。
ひどく荒い呼吸を繰りかえす。地面の感触を確かめるように、床を何度も手でなでた。全身から汗があふれ出してくる。
「どないしたん?」
海咲の異変に気づいたナギが、軽快な動きで、窓のふちに飛びついてきた。
懸垂で体を持ち上げ、窓から倒れた海咲を覗きこんでくる。
その目に悪意はない。だが、海咲には、ナギが得体のしれない恐ろしいものに見えた。
「いや……」
異世界では雄々しく剣をふるい、血にまみれながら幾多の戦いをわたりあるいた英雄が、年頃の小娘のように震えはじめた。
こんなのは自分ではない。自分はもっと強い存在だ。
脳内で意味のない自問自答を繰りかえす。
海咲の様子に気づいたナギが、目をまたたかせた。
「住所を教えたわけでもないのに、いきなり男が押しかけてきたりやしたら、怖いわな」
ナギの言葉は、至極まっとうであった。しかし、海咲が怯えているのはそこでない。
「ごめんな。そこまで気が回ってなかったわ。いかんな……、ちょっと考えれば分かるはずやのにな」
ナギは申し訳なさそうに、視線を泳がせた。
「ほな、僕は先に学校行くわ。海咲も、遅刻せんように来てや」
優しい声でそう言って、ナギが窓のふちから飛び降りた。
頭の中で、英雄が叫ぶ。奴から目をはなすな。何かされる前に、察知して止めろ。
だが、海咲の体は動き出さなかった。
ナギが家に来たことが怖かったのではない。フラッシュバックした異世界の女神の姿に、恐れをなしてしまったのだ。今朝、変な夢をみてしまったのが原因だろう。
ナギが去ったのちも、海咲は数分間、自室で動けないままでいた。
窓から飛び降りて去っていくナギの姿を、目で追っていたのを覚えている。
あれは何分前の出来事だっただろうか? 時計に目を向けた。
「いけない……遅刻だ……」
時刻は八時四十分をまわっていた。既に朝のホームルームがはじまっている。
今日まで無遅刻無欠席を維持してきたのに、ここにきて遅刻をしてしまった。
「はぁ……」
皆勤賞に固執していたわけではないが、何故かため息がでた。
立ち上がり、家を出た。遅れて学校へと向かう。家から学校までは、歩いて三十分程度の距離である。高校の通学距離としては、かなり近い方だろう。
しかし、今日の海咲には、学校までの距離がひどく遠く感じられた。足が重たい。
照りつける昼前の太陽のせいか、体にまとわりつく汗が気持ち悪かった。
「真田海咲さん?」
不意に、女性の声がきこえた。
声の方に振り向くと、御神体に下駄が祀られた小さな神社があった。
鳥居の向こう側、神社の敷地内にスーツ姿の女性が竹ぼうきを持って立っていた。
後ろ手に髪を結った、凛とした雰囲気の、まさに働く女性といったイメージを体現した女性だった。何故、平日の昼間から、こんな身なりの人間が、神社にいるのだろうか。
その光景はあまりに、ちぐはぐなような気がした。しかし、不思議と違和感はなかった。
まるで、そこのいることが当たり前のような雰囲気が、スーツ姿の女性にはあった。
「失礼。ひどくうつむいて歩いていらっしゃいましたので、声を掛けさせていただきました。大丈夫ですか?」
スーツの女性が、いった。
見ず知らずの人に声をかけられるほどに、自分の様子はおかしかったのだろうか。
そう思うと、自然と背筋がのびた。
「何かお困りごとでも? 私でよろしければ、少し話してみませんか?」
スーツの女性の声は、包み込むように優しい。
海咲は気持ちを切り替えるため、深くまばたきをした。
「大丈夫です……。ありがとうございます」
そんな言葉がでた。
返事をすると、スーツの女性の姿が消えてしまった。
「あれ……?」
何度も目をまたたかせる。しかし、神社の中には、人の気配すら感じられない。
まるでキツネにでもつままれたような気分だ。視線の先には、神社の社にまつられた、小さな下駄のご神体があるだけだった。
そういえば、先ほどの女性は、初対面であったにもかかわらず、海咲の名前を呼んでいた。考えてみれば、こんなところにスーツを着た女性がいるというのも、おかしな話だ。
「夢もで……、みたのかな?」
そう結論付けて、海咲は学校にむかって歩きだした。
不思議と、足どりが軽くなった気がした。
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