【八十七 月のウサギ】
「お月様にウサギさん?ほんとにいるの?」
目を輝かせて尋ねる玉龍をスルーして、孫悟空は腕組みをしたまま憮然とした表情のまま頷いた。
「あー、釈迦如来がウサギだった時の話ですよね?飢えて死にそうな旅人のために火に飛び込んでご飯になったっていう。そんで、その優しさにカンドーした神だかなんだかがウサギを月に登らせたって言う……」
でも今その話する時間か?と孫悟空はイライラした。
「はい。私も釈迦のように困っている方の力になりたいのです。それがたとえ妖怪であったとしても」
手を合わせ、月が登り始めた空を見上げて玄奘が言う。
「へぇー、そんなふうに考えられるおシショーさんすごいなあ」
玉龍はよくわからないまま手を叩いて喜ぶ。
孫悟空は大きなため息をついて腰に手を当てた。
「あのね、お師匠様。俺たちみたいな妖怪は人間よりだいぶ頑丈なの。妖術だって使える。だから妖怪って言うんだけど……まあそれはいいや。だから施しなんていらないの。わかった?」
「頑丈っていうのは……それはあなたが石猿だからでしょう?他の妖怪は違うかもしれないじゃないですか」
ねえ!と玄奘は玉龍をふりかえった。
「ボ……ボクも龍だから割と平気だけどね。今もそんなに寒いわけじゃないし。あのおじいちゃんも熊だから寒さには強いと思うよ」
突然話を振られた玉龍はアワアワと目を泳がせて言う。
「そ、そうですか……」
玉龍からの援護も期待できないと知った玄奘はしょんぼりと項垂れた。
「お師匠様は優しすぎるんだよ……全く」
孫悟空は荷物から手近な布を取り出すと玄奘に掛けてやる。
「俺様のことを疑いもせず封印を解いたり、緊箍児つけなくていいとか、愛馬を食った玉龍を許すとか……挙句には月のウサギみたいに命まで差し出してもいいだなんて……」
さっきまで威勢よく怒鳴っていた孫悟空の声は震えていて、玄奘は下げていた顔を上げた。
「お師匠様がいなくなったら、アンタの弟子になった俺様はどうしたらいい?玉龍だって……それにアンタは河伯に用事があるんだろ?どこかで生きてるかもしれないご両親を探したいとも言っていたじゃないか」
やりたいことを残して死んでもいいのかよ、と言う孫悟空の目は不安に揺れていて、玄奘は自分の軽率さにようやく気づいた。
「えっ、おシショーさん死んじゃうの?ボクたちを置いて?」
玉龍は驚いて立ち上がる。
「別に食いもんを配るのは構わないんですよ。また俺様が見つけてくればいいだけなんで。でも、錦襴の袈裟はアンタの命を守るためのものなんです」
その言葉に玄奘は、目の前にいる孫悟空と不安そうな顔をして自分を見ている玉龍を見た。
「もう、私一人の体ではないのですね……」
今の玄奘は、師として二人の命を預かる身なのだ。




