【八、捲簾大将と人間】
柔らかな木漏れ日が差し込む、川辺の大きな岩の上。
河伯がまだ捲簾大将だった頃のある日、彼は久々の休暇で下界に降りていた。
捲簾大将は同僚の龍神たちから聞いた、下界のとある山にある穴場の釣りスポットに釣りをしに来たのだ。
意外なことに、捲簾大将の趣味は釣りである。
いつもは釣り糸を垂らせば入れ食い状態なのに、今日は全く釣れない。
何時間待ってもその針に魚が食いつく様子はなかった。
釣り針の近くに魚の影はたくさん見えるから、龍神たちが嘘を言っている訳でもなさそうなのに。
「おかしいな、なぜだろう」
捲簾大将は首を傾げて釣り糸を揺らしてみた。
「あの、釣り糸の先に餌、つけました?」
「エサ……?あっ!」
不意に声をかけられてハッとして竿を引き、釣り針の先を見れば、何もついていない。
「俺としたことが……」
捲簾大将は頭を掻いて声をかけてきた人間に礼を言おうと振り返った。
そこにいたのは一人の人間。
少し気の弱そうな、でも優しげな風貌の青年だ。
青年は捲簾大将を見て驚いたように息を呑んだ。
それはそうだろう。
捲簾大将の肌の色も髪の色も瞳の色も、全て人間のそれとは全く違う。
人の姿に変化することもできるが、こんな山の中、しかも獣道に囲まれた龍神たちの穴場だ。
人間と遭遇することもないだろうと変化はしなかったのだ。
捲簾大将は慌てたが、青年はすぐに捲簾大将に微笑み、「大丈夫です」と言った。
「……お前、俺が怖くないのか?」
「怖い?」
「見ればわかるだろう?俺は人ではない。肌の色も、髪の色も目の色もお前たち人間とは違う。怖くないのか?」
「ええと……」
聞くと、青年は戸惑ったように頬を掻いた。
「おいらも魚釣りに来ただけだから……それに、釣り好きに悪い人はいないって村長が言ってましたから」
彼もまた魚釣りに来たらしい。
彼の手には釣竿、腰には魚籠がある。
それよりも捲簾大将が驚いたのは、天界でもかいだことのないほどの、極上の沈香の香りをその青年が纏っていたことだ。
「お前、名は?」
捲簾大将は礼を言うのも忘れ、青年に名を尋ねていた。
坊主でもないのに、ただの人がここまで香りを纏うことができるのだろうか。
「おいらは馮雪といいます。川下の阿千村で魚を売ったり野菜を育てたりして暮らしています」
「どうしてここに?」
しかも龍神の秘密の穴場に来ることができるなど、万が一にもありえない。
「いつもはここより下流で釣りをするんだけど、考え事をしていたらいつの間にかここまで来てしまって……」
話しにくそうに馮雪が言う。
(何かに呼ばれたか……それとも、これほどの沈香の香り……元は天の者か……)
「あの……?」
考えても思い当たらない。彼の事情をこれ以上探るのはやめにしておこう、と捲簾大将は考え首を振った。
「そうか……ならば馮雪よ、今は俺と共に釣りを楽しもうではないか」
気を取り直して明るく言うと,馮雪の顔がパッと輝いた。
「よろしいのですか?」
「お前の迷惑ではなければ、の話だが」
「迷惑だなんて、むしろおいらの方が邪魔なのでは……」
「俺は普段天上で龍神たちと仕事をしているのだが、奴らめ、釣りよりも魚は丸ごと飲み込むのが喉越しもイキもいいとか言って付き合ってくれないのだ。お前には俺の貴重な釣り仲間になって欲しい」
「もちろんです、喜んで!」
馮雪が近くに来ると、尚更沈香の香りが沸き立つようである。
「良い香りだな……」
「へっ?」
ぽそりと呟くと、馮雪はギョッとして振り返った。
自分が食べられると思ったのだろう。
捲簾大将は慌てて手を振った。
「いや違う、その、お前から沈香の香りがするもので……」
「沈香……ですか?お線香は村の祭壇においらが毎朝お供えしますけど……その匂いでしょうか?」
捲簾大将の言葉に、馮雪は自分の匂いを嗅ぎながら首を傾げて言った。
「馮雪よ、何か悩み事があるようだが……無理には聞かぬ。釣りは無心になれる。お前も早く釣り糸を垂らせ」
「はいっ!」
馮雪は頷いて、自分の釣り針に餌をつけ始めた。