【二百三十九 魔羅、玄奘の存在に気づく】
魔羅は満ち足りた気持ちでいた。
観音菩薩も、准胝観音も、孫悟空たちも、皆が自分の姿に恐怖をしていたからだ。
彼らの恐怖心がさらに魔羅を強化して、力が有り余るほどだ。
(……む?なんだ?)
しかし、恐怖で満ちた中に、恐怖心のない場があった。
(何がある?──いや、居る、か)
魔羅が気配を探ると、そこには白く輝く何かが居た。
それは玄奘だった。
玄奘は目を閉じて、ひたすら呪文を唱えている。
目を閉じているため、魔羅を見ておらず、恐怖も感じていないようだ。
分身だが記憶を共有している魔羅は、その昔、瞑想する釈迦を誘惑した時のことを思い出した。
「お前かあああぁぁぁあ!」
魔羅が蛇の下半身をくねらせ玄奘に向かう。
「お……ししょう、さま……っ!」
「あ、あぁ……っ!」
金縛り状態で動けない孫悟空と猪八戒が掠れ声で叫ぶ。
沙悟浄は自分の脇を通り過ぎる魔羅に何もできなかった。
「……っ、ばかな……っ!」
動け、動けと沙悟浄は力を込めるが、体と心が魔羅と戦うことを拒絶したのだ。
「やめて、こないで!」
玉龍は涙目になりながらも両手を広げて玄奘の前に立った。
釈迦如来にも匹敵する如意宝珠の力で、魔羅の圧から守られているのだろう。
「退け、仔龍よ」
「ぐっ……っ、いやだ、退か、ない……っ!」
玉龍は涙を拭い、龍の姿に戻った。
虹色の光を放つ白銀の龍だ。
大きさだけ見れば魔羅と互角。
「如意宝珠よ、ボクから怖い気持ちを取って!うぉおおおおおおお!」
龍に化した玉龍の首元に飾られた如意宝珠が輝き、玉龍を覆った。
「おシショーサマはボクが守るんだ!」
聞いたこともない雄叫びをあげ、玉龍は魔羅へ向かっていく。
「邪魔だ」
魔羅は腕の一本を動かして索を投げた。
「アッ!!!」
索はあっという間に玉龍の身を縛り床に落とした。
「んーっ!」
玉龍は身動き取れずにもがくばかりだ。
「んぎんん!」
そして邪魔者を無くした魔羅は玄奘を中心にとぐろを巻いてその耳元に囁いた。
「お前は何者だ」
「……」
「人よ、なぜ目を閉じている。目を開き余を見よ。恐怖を感じよ!」
「……」
魔羅が囁くが、玄奘はぴくりともしない。
ただひたすらに、准胝観音から目を閉じ呪文を唱えよと言われたことを守っているからだ。
「金ちゃん、その言葉を聞くな、目を開いてはならぬ!」
准胝観音が必死で叫び、玄奘をとめる。
彼を過去世のあだ名で呼ぶのは、魔羅に玄奘の名を知られないようにするためだ。
「ほう、貴様の名はコンチャンと言うのか。コンチャンよ、目を開くがいい。余はお前の望むものを与え、見せてやろう」
そして当の玄奘は、好奇心に抗っていた。
(これが魔羅の声……!)
目を閉じて集中してはいたものの、完全に外の声が聞こえないわけではない。
(なんと、甘美な声。これは抗うのが難しい……)
「コンチャン……」
だが魔羅は玄奘という名を知らないため、その誘惑は効かなかった。
だが、興味は大いにそそられた。
(見たい)
魔羅という書物上の存在を。
あの釈迦如来を誘惑した魔羅を。
(見たい、見たい……!)
この甘美な声で誘う悪魔がどのような姿をしているのかを。
「目を開け、そして恐怖せよ!人の子よ、恐れ慄け!」
魔羅が叫ぶ。
「だめ、です、お師匠さま……っ!」
沙悟浄は声を振り絞った。
(なぜ俺は動けぬ!我が身可愛さに大切なあの人を……今度こそ守るんだ!動け!動け!!)
「うぉおおおおおおっ!」
沙悟浄は絶叫した。
「ああああああっ!!!」
無理やり恐怖を押し込め、降妖宝杖を握って魔羅に飛びかかった。
「無理に動くか。愚かな」
沙悟浄は絶叫して、恐怖をただがむしゃらに武器を振るう。
魔羅は薄笑いを浮かべながら難なくその攻撃を避ける。
「ぐるああぁあああっ!!!」
とにかく玄奘から魔羅を引き離さなければと、その一心だった。
「ははは、遊んで欲しいのか?」
体格差で言えば、魔羅の方が優っている。
玄奘の弟子の中で一番背丈も体格もいい沙悟浄だが、魔羅と比べたら河原の岩石と少し大きめの岩だ。
猫で言えば獅子と猫ほどの差がある。




