【二百二 元始天尊の思惑】
一方崑崙山では。
太上老君との言い争いがようやく終わり、表面上和やかな空気が流れていた。
「さて、吾輩はそろそろ帰らせてもらおう。のんびりしていたら下界で何年も経ってしまう」
待たせている玄奘という僧侶に会わねばと、鎮元大仙は急いで帰って行った。
鎮元大仙を見送って戻ってきた元始天尊に、太上老君が香炉を突きつけた。
「元始天尊、元凶はお主だろう」
「なんだ、いきなり」
「おかしいと思ったのだ。鎮元とワシが言い争いをするなど。しかもあんなくだらんことで……」
太上老君の言葉に、元始天尊は何も言わずに香炉を受け取った。
「否定せぬのか」
「する必要がないからな」
「その香炉には気持ちを昂らせるものを混ぜておるな。全く悪趣味なことだ」
「少し実験をしただけだ。お前たち以外、吾のところに来る物好きはいないからな。吾はここから動けぬし」
「何を言っている。呼べばよかろう」
太上老君は首を傾げた。
元始天尊が呼べば駆けつける神仙は沢山いるはずだ。
なぜ呼ばないのだろうと太上老君は不思議に思ったのだ。
「この清浄すぎる空気に耐えられるものがもういないのだよ。普賢や文殊も釈迦のところへ行ってしまったしな」
「……」
寂しそうにいう元始天尊に、太上老君はため息をついた。
元始天尊のいる場所は、万物創成の元始天尊の放つ仙力があたりに漂っている。
この仙力は圧力のようなもので、並の仙人では立っていることすらできないほどの凄まじい力だ。
それに耐えられるのは、崑崙山始まって以来住んでいる玉皇大帝、西王母、太上老君、鎮元大仙という古参の仙人たちくらいだ。
准胝を始め古参の仙人たちはもっといたのだが、新たなことを学ぼうと釈迦如来の元へ行ってしまったのだ。
「ここしばらくで、崑崙の神仙の力も弱まってきている。人界に近いここで過ごすのも、もう潮時かもしれんな」
「元始天尊……」
「人の世が安定するまではと吾の力を下界に注ぐため崑崙にいたが、生命も豊かに成長、定着した」
元始天尊は目を閉じて感慨深げに言う。
「もう吾がここに留まる必要もないだろう。いずれ、人はこの崑崙を見つけるほどの技術を生み出すかもしれん」
「それは……」
「宝貝作りが趣味の太上老君にはわかるはずだ。人の探究心、向上心というものは底がないと言うことが」
太上老君は頷いた。
人の作り出すものは魅力的なものばかりだ。
「下界を好むあれには言えなかったのだがな。あとはこの世のことは釈迦如来に任せて吾らは桃源郷にゆくのも良いかもなあ」
フフ、と呟いて元始天尊は香炉の灰を捨てた。
「ところで実はな、これより少し弱いものを虫除けと称してあれの農園に送ったのだ。まあ虫除けの効果もあるかる嘘ではないのだがな。ちょうど良い実験材料も万寿山に来たと言うし、さて、どのようなことが起こるかな」
元始天尊は水鏡を出して興味深げに覗き込んだ。
実験材料というのは、玄奘たちのことだろう。
「まったく、悪趣味なジジイだわい。お前の暇つぶしに試される玄奘とやらが不憫だわ。ワシも帰る。また来るまで達者でな」
太上老君は呆れたと言って、彼もまた帰路についたのだった。
「さて、難の一つ……見届けさせてもらおうか」
元始天尊は太上老君を見送ると、頬杖をついて太上老君の置いて行った金丹飴を一つ頬張ったのだった。




