【二、捲簾大将やらかす】
捲簾大将が思いを馳せるのは、名も知らぬ人間。
だいぶ前に一度だけ下界で二言三言言葉を交わしたことがあるが、それからは生きたその人に会えていない。
ただ覚えているのは、その人のその身から沈香の香りがしていること。
また会いたいと思って再び下界に降りた時は、すでに骸になった後だった。
だが骸になってもその香りは変わらず、すぐに見つけることができた。
捲簾大将はその匂いを嗅ぐと、天界の警備で荒だった心も不思議と心が落ち着くのだ。
だから可能であれば混沌とする人の世界よりも天界へ連れ帰り、そばに置きたいと考えているのだが。
しかし天界の一日は人間界の一年。
多忙な捲簾大将が束の間の休みに人の世界に降り、転生したその人を何度探しても、見つけた時にはすでに骸になっていることばかりで。
だからせめてもと、野晒しになっていた骸から頭蓋を取り出し持ち帰ることしかできず、いまでは九つも集まったそれを連ね、大切に部屋に飾っている。
いつかその人に会えるのを信じて。
再び少し強い、暖かな春風が吹く。
捲簾大将がいま崑崙で過ごす間にも下界では凄まじい速さで時が進んでいる。
あの頭蓋の持ち主は今、どんな人生を歩んでいるのだろう。
女性だろうか、男性だろうか、町の人か、それとも王宮ではたらいているのか。
初めて会った時は川で魚を獲り川魚を売る漁師だった。
「……」
少しの間物思いにふけっていると、捲簾大将の持つ盆に乗せた玻璃の杯がぶつかり、小さな音を立てた。
その音に気づいた青鸞童子は義父を振り返った。
崑崙山から見上げる空は近いのに、捲簾大将の視線はさらに遠くを見ているようで。
まるで義父がどこかに行ってしまうような錯覚を覚えた青鸞童子は慌てて声をかけた。
「捲簾大将さま?」
「──いや、なんでもない。西王母がお待ちだ。急ごう」
「はい!」
二人が蟠桃園の中に設けられた蟠桃会の会場に着くと、捲簾大将は青鸞童子と共に跪いて拝謁の許可を待つ。
体格も良く見目麗しい捲簾大将の登場に仙女たちは小さく黄色い声をあげ、うっとりとため息をつく。
西王母は待ち侘びていたようで、霊芝酒の酒瓶を抱えたまま壇上から手招きをした。
西王母は見た目は十五か十六の少女にしか見えないが、齢は三千を超えた崑崙の王、玉皇大帝の妃である。
蟠桃をはじめとしてさまざまな美容に関する霊薬を使いその若さと美貌を維持している。
ちなみに少女のような外見年齢は天帝の命令での変化で、本来は年相応の美熟女である。
彼女の美貌を隠したい天帝の独占欲に、西王母は付き合い少女の姿をしているのだ。
「さ、早う持ってまいれ」
「は、ただいまお持ち致します」
言葉遣いは年相応の、上機嫌な西王母に促され、捲簾大将は西王母の傍に立つ仙女に玻璃の杯を渡そうと立ち上がったその時だった。
「捲簾大将さま、危ないですっ!」
「えっ?」
捲簾大将が青鸞童子の悲鳴に気づいた時にはもう遅かった。
立ち上がる時に裾を踏んでいたようで、それに気づかないまま歩こうとした為につまづいてしまった。
その拍子に手から滑り落ちた玻璃の杯は、あっという間に地面の岩に当たり、弾ける音を立て、キラキラと陽の光を反射しながら粉々に砕け散ったのだった。
それまで賑やかだった蟠桃会の場が水を打ったようにしんと静まる。
捲簾大将が落としたのは天帝の至宝。
壊したのは西王母の目の前で。
いくら天帝の護衛を務める側近中の側近である捲簾大将でも処罰は免れないだろう。
「捲簾大将さま……あ……あぁどうしましょう、西王母様の玻璃の杯が……!」
青鸞童子はまるで自分の罪のように涙ぐみ、へたり込んで青ざめる。
捲簾大将は西王母に謝罪しようと口を開いたその時だった。
「──っ!!!」
ひとつも謝罪の言葉を紡げないまま、捲簾大将の巨体は一瞬で吹き飛び、池の近くの大岩に背中を打ちつけた。
大岩は砕け、周囲にいた神仙たちは悲鳴をあげその礫から逃れる。
先程までのにこやかな西王母の雰囲気からは一転して、怒りを纏った西王母が紫金旋風扇を振るったのだ。
複数の風の刃を生み出す扇の攻撃に、なんの反応もできなかったことに捲簾大将は唖然とした。
天帝の将として受け身くらいは取れたはずなのに、何も動けなかった。
防御も、受け身を取ることすら、なにも。
崑崙の最高位にして最強の女神の一撃は、天帝の将の力など比べ物にならないくらい、一撃は速く強いのだ。
西王母は怒りが収まらないのか、彼女が握りしめる紫金旋風扇からはメキメキと軋む音がきこえてくる。
「捲簾……大将……っ!」
凄まじいその轟音と怒気に、蟠桃会に参加していた仙女たちからきゃあと悲鳴が上がり、会場は混乱に陥った。
「捲簾大将さま!」
「く……っ……」
青鸞童子の声に捲簾大将は遠のいていた意識を呼び戻した。
どうやら攻撃を受けたのは自分だけで、青鸞童子や他の神仙たちは無事のようだ。
そのことにホッとした途端、背に受けた強い痛みを感じ、一瞬咳き込みそうになったがこれ以上醜態を晒し西王母の怒りの火に油を注ぐわけにはいかない。
捲簾大将は痛みと息苦しさに耐え、とにかくその場に平伏した。