【百七十四 玄奘、黄風大王より髑髏の首飾りを受け取る】
瘴気が消え、無事な姿で玄奘が現れたと思ったらすぐに駆け出したものだから、恵岸行者は驚いて叫んだ。
「玄奘君!」
「ほう、瘴気を消し去るとはなかなかじゃな」
「玄奘君、待つんだ!」
感心したようにいう霊吉菩薩の声を背に、恵岸行者は手を伸ばして玄奘を止めようとしたが間に合わなかった。
玄奘はまるで放たれた矢のように真っ直ぐ河伯へと向けて走って行く。
「あの子あんなに足早かったの?」
恵岸行者が玄奘の速さに驚いて呟くと、霊吉菩薩が苦笑して言った。
「よい。恵岸よ、行かせてやれ」
「でも、危険ですよ!」
「大丈夫だ。あの瘴気を消した今の玄奘なら」
「霊吉菩薩様……」
恵岸行者は、玄奘を見送る霊吉菩薩の優しい眼差しに、彼の玄奘に対する強い信頼を感じて伸ばした手を下ろした。
「さ、我らは皆の補佐じゃ。もうひと頑張りせねばな」
霊吉菩薩は八爪金龍と玉龍を振り返った。
「心得た。さあ玉龍よ、じじと一緒に一層力を振るおうぞ」
「はいっ金龍おじいちゃん!」
八爪金龍と玉龍は本当の祖父と孫のように息がぴったりだ。
恵岸行者は納得がいかず不安を抱えながらも、今は言われた通り自分の役割に集中することにした。
玄奘は呼吸が苦しいのも構わず、黄風嶺の硬い大地を一心不乱に駆けていく。
この息苦しさなど、河伯の抱えてきたものに比べたら大したものではない。
「お師匠様!」
玄奘に気づいた孫悟空がホッとした様子で駆け寄ってきた。
ようやく足を止めた玄奘は、肩で荒い息を吐きながら途切れ途切れに孫悟空に状況を訊ねる。
「……さ、沙和尚は……?」
「ようやく大人しくなったところだよ。いやーこのお方、さすが元近衛だけあって強いね。手が痺れちまった」
孫悟空の代わりに猪八戒が苦笑しながら手をひらひらと振っていう。
玄奘が瘴気に飲み込まれてから、孫悟空たちはなんとか河伯から髑髏の首飾りを奪おうと奮起してくれていたのだ。
「大王様、例のものを」
「そうだったッチ、玄奘ッチ!約束のものだッチ!」
虎先鋒に促された黄風大王が持っていたものを玄奘にわたした。
「黄風大王さん……ありがとうございます!」
約束を果たしてくれた黄風大王に礼を言うと、黄風大王は嬉しそうに頭をかいた。
黄風大王が玄奘に渡したそれは、河伯が首から下げていた九重の髑髏の首飾り。
少しくすんだ黄色い頭蓋骨たちは艶々としていて、河伯が大切に扱っていたのだと一目でわかるくらい綺麗なものだった。
「……これが私の過去世たちの骸ですか……」
玄奘はなんとも不思議な気持ちでかつての自分の骸たちと向き合うことになった。
だが意外なことに、それらに対して不気味だとか気持ち悪いだとか、そういう気持ちにはならなかった。
懐かしさも悲しさも何もない、目の前にあるのは九つ連ねられたただの頭蓋骨だ。
「返してくれ、取るな……!」
虚な目をした河伯が首飾りを奪われたことに気づいて手を伸ばす。
「それは俺の戒めの証。二度と大切な友を失わないための証なんだ!」
ボソボソと呟く河伯から隠すように、玄奘は首飾りを背後に隠し首を振った。
「もうやめてください沙和尚。お願いですからもう、ご自身を責めないで」
「馮雪、お前は……俺を責めないのか?お前を救えなかった俺を……」
「責めるなど……!あなたの友“馮雪”は九つの転生を経て今現在、玄奘として生きています。何百年もの、こんなにも永い時の中、私を友として思い続けてくれたあなたをどうして責められましょうか!」
玄奘は虚な目をしている河伯の手を握った。
「馮雪……」
尚もまだ、自分のことを馮雪と呼ぶ河伯に苦笑して、玄奘は首を振った。
「沙和尚……ようやくまた、あなたに会うことができて、私は嬉しいです」
「馮雪、俺は……」
そして玄奘はまっすぐに、言葉を詰まらせ目を潤ませる河伯を見つめた。
玄奘の言葉に戸惑い、不安げに河伯の瞳が揺れている。
河伯のそんな戸惑いに応じるように、頭蓋骨たちが震え始めた。
「玄奘何をしておる、今すぐその頭蓋を浄化せよ!」
そこへ霊吉菩薩から指示が飛んだ。




