【百七十二 観音菩薩、須弥山にて釈迦如来に諭される】
黄風嶺での戦いは、近くにいる釈迦如来の耳にも届いていた。
そもそも玄奘たちのいる黄風嶺があるのは小須弥山の一角。
その名の通り釈迦如来の住まう須弥山は目と鼻の先だ。
そんな須弥山に住まう釈迦如来は、夜明け前の堂で瞑想をしていた。
傍には弟子の前部護法が控えている。
ふと、前部護法は何かの気配を察して師を見た。
それと同時に。
「釈迦如来様、釈迦如来様!!」
慌ただしい足音の後、勢いよく観音菩薩が堂の扉を勢いよく開けて飛び込んできた。
「しゃ、しゃか、しゃか釈迦如来様!大変なことに!」
釈迦如来は静かに目を開き、肩で荒い息をつく観音菩薩に微笑んだ。
「観音菩薩、来ましたね」
「げ……げげげ、げん……げん玄奘が、玄奘が!」
「落ち着きなさい。あなたはあの子のことになると途端に冷静さを失いますね……」
「観音菩薩さま、甘茶です。どうぞ」
釈迦如来が前部護法に目配せをすると、彼はすぐに温かい甘茶を用意して観音菩薩に勧めた。
観音菩薩はそれを受け取り、荒い呼吸を整えながら少しずつ甘茶を啜る。
その深い甘さに疲れが癒え、温かさにだんだんと気持ちが落ち着いてくる。
「……失礼いたしました」
甘茶を注いだ杯が空になる頃には、観音菩薩はすっかり落ち着きを取り戻していた。
「観音菩薩様、いつも弟がお世話になっております」
空になった杯を受け取った前部護法が言う。
「ああそうか、君は……」
観音菩薩はそこでようやく釈迦如来の弟子が誰であるかを思い出した。
前部護法は観音菩薩の弟子である恵岸行者の兄であり、俗名を金吒という。
彼もまた母親の吉祥仙女譲りの美貌を受け継いでおり、哪吒太子、恵岸行者、前部護法は美男三太子とも仙女たちの間で噂されている。
さらに前部護法は、父親である托塔李天王の武芸の才能も強く引き継いでおり、その涼やかな様相からは想像もつかないほどの強者であるとも天部の諸尊たちからも一目置かれている存在である。
前部護法は空の器を下げるため、一礼をして退室していった。
釈迦如来は観音菩薩の近くに寄り、その肩に優しく手を置いた。
「あなたの言いたいことはわかっています。玄奘のことでしょう?」
「はい、千里眼でご覧になっておられるかと思いますが、玄奘が瘴気に飲み込まれてからの様子がわからなくなってしまい……!」
居ても立っても居られないと、また慌て始める観音菩薩に、釈迦如来は苦笑した。
「大丈夫ですよ」
「え……っ?!
「あの子の頑固さと粘り強さはあなたも知っているでしょう?だから、大丈夫です」
「釈迦如来様……」
「あの子を信じて見守りましょう。私たちにできるのはそれだけですよ」
「……はい」
「今あの子は一人ではありません。霊吉菩薩もそばにいます。大丈夫」
観音菩薩は釈迦如来の言葉に頷き、ざわつく心を落ち着かせようと胸に手を当て目を閉じたのだった。




