【十六、天竺への旅】
「あの……?」
「ああ、すみません。少し昔を思い出しまして」
玄奘の声で我に返った観音菩薩は微笑んだ。
金蟬子は何度も転生を繰り返してきた。
それぞれの人生で、生老病死、愛別離苦、怨憎会苦、求不得苦、五薀盛苦……。
人が人生で体験すると言われる四苦八苦を乗り越え、玄奘となった今回は十回目の人生だ。
今までの生では、天竺までの取経を任せるに値しないと釈迦如来は首を振りその度に彼を転生させてきた。
そして今回ようやく、師僧に代わり法会を成功させたことで釈迦如来は玄奘を取経の旅に出させることを判断したのだ。
「お膳立てはこの師兄にまかせなさい。君は旅支度をして天竺へ行き、如来の教えを唐に持ち帰るのです」
唐に届いた教えはやがて海を超え、その向こうの外国にまで届くだろう。
「天竺……」
玄奘は憧れの地の名前を目を輝かせて何度もつぶやいている。
そんなふうに浮かれる玄奘に、観音菩薩は厳しい視線を向けて言う。
「期待しているところ申し訳ありませんが、天竺までの道のりは平坦ではありません。砂漠や険しい山道も通ることになるでしょう。それに妖怪たちも……」
「妖怪……」
一瞬だけ怯えるように瞳を揺らした玄奘だったが、すぐにやる気に満ちた光をそこに宿した。
「険しい道など覚悟の上です!私は必ずや経典を唐に持ち帰って見せます!」
「期待していますよ。そうそう、君には従者をつけましょう。彼らとは道中出会うことになります。中には……いえ……」
言葉を途中で切った観音菩薩に玄奘は首を傾げた。
「とにかく、馬など必要なものはこちらで揃えます。あなたは旅立ちの支度を……」
「あ、あの!」
「どうしました?」
観音菩薩の言葉を遮って、玄奘は声を張り上げた。
「わ、私が馮雪という者だった時、天将の方と知り合ったのですが、観音菩薩様はご存知ですか?」
「どのような方ですか?」
「ええと、たしか……髪は燃えるように赤くて……」
玄奘は夢で見た、前世に交友を深めた天将の特徴を観音菩薩に伝えた。
(さてどう答えたものか)
「私はその方を沙和尚と呼ばせていただいていて……」
観音菩薩はその天将が捲簾大将だと知っている。
だが今は明かす時ではない。
「すみません、この師兄は崑崙のことはよくわからなくて……」
「あっ、いえ、いいんです、大丈夫です」
良いと言いながらも玄奘はがっかりした顔で俯いた。
「ただ最近夢でよくみるので、何かご存知かと……」
シュンとする玄奘を見て、観音菩薩は「おやおや」と息を吐いた。
(ああ、そんな感情が出やすいところも金蟬子のまま……)
「大丈夫ですよ。縁があればこの旅で必ず、その方に出会えるでしょう」
「観音菩薩様……」
「天竺までの道のりは遠く、長いです。あなたが夢にまで見るくらいです。崑崙のものは長命。もしかしたらその方ともどこかで出会えるかもしれませんね」
観音菩薩が玄奘に言えるのはここまでだ。
「沙和尚に、また……会える」
本当に会えるかどうかもわからないのに、玄奘の視線はもう会えることが確定しているのを知っているかのように強い。
「では私はそろそろ。金蟬子……いえ玄奘、この師兄はいつでもあなたを見守っていますよ。もちろん釈迦如来様も」
「ありがとうございます」
「では、師兄はあなたの旅路の平安を願っています」
観音菩薩の姿は薄くなっていき、消えてしまった。
玄奘は逗子の中にある観音菩薩像をまじまじと眺めてみたが、もう光っていない。
「天竺か……」
玄奘の瞳は期待が抑えきれないのが、力に満ち溢れてキラキラと輝いていた。




