【百三十四 准胝観音、浄化のために腰をあげる】
さわさわと風が吹き、蓮の葉と花を揺らす。
東屋の中で連れ立って座る観音菩薩と准胝観音は、しばらく無言で、風の音が奏でる蓮の合唱を聞いていた。
「知らせがね、来たのだ」
その時、ぽつ、と風に揺れる蓮の花を眺めながら准胝観音が口を開いた。
「知らせ?」
「ああ。お前も知っているだろう?妾が卯ニ姐という仙女だった頃の夫のことを」
「──ああ、あの……」
准胝観音はずい、と観音菩薩に近寄り、人差し指でその鼻をちょん、と突いた。
「お前があれを妾に押し付けたのだぞ?忘れたとは言わせぬ」
「忘れたなどとんでもない!」
今言おうとしていたのだと観音菩薩が主張すると、准胝観音はやれやれ、と肩をすくめてみせた。
「せっかく妾が人の世での暮らしを満喫していたと言うのに、突然あの仔豚を押し付けてきよったことを忘れたのか?まったく、薄情な弟だこと」
「すみません。その節は大変お世話になりました」
大袈裟に観音菩薩が言うと、准胝観音は「冗談だよ」とクスクス笑う。
「だが、あれと出会わせてくれたのには感謝している。ちょうど人の世にも退屈していた頃だったからな。可愛らしい仔豚の世話は存外楽しかったよ」
そう言って、准胝観音は昔を懐かしむように目を伏せた。
そして「よし」と頷いて勢いよく立ち上がった。
「さて、少しあの土地を浄化をしてこようかねえ。アルシャークの坊やが何やらやってくれていたが、あの程度では足りぬ。それにあの地の守りももう少し強めたいからな……」
ぶつぶつと呟きながら、准胝観音はハッとして顔を上げた。
「そうだ、ちょうど金ちゃんが……金蟬子があのあたりに居るのだったな。ならばあの子の体をちょっと借りるとするかな……」
「ちょ、え?!」
准胝観音の呟きに耳を疑った観音菩薩は慌てて自分も立ち上がった。
そんな弟の様子に苦笑して、准胝観音は首を傾げた。
「何を慌てている?お前も度々あの子の体を使っているのだろう?」
「そんな頻繁には使っていません!必要な時だけ……って、まさか准胝姉様、本気で……?」
准胝観音は、慌てふためく観音菩薩に頷きにっこり微笑むと、「じゃ」、と九本の片手を挙げて、蓮の池の中への降りて行ったのだった。
「姉様!」
観音菩薩は彼女の目的は浄化だけではないのでは、と思いながらその池の波紋を見送ることしかできなかった。
「……姉様……」
高翠蘭を送る玉龍と猪八戒を見送った後、玄奘は一人で雲桟堂に入った。
孫悟空は部屋を温めるための薪を取りに薪置き場に行っている。
あれだけ生活感のあった堂内は、現在はがらんとしている。
というのも、天竺に旅立つからと、それまで保管していた卯ニ姐が作った薬酒や乾燥させた薬草類を高商会に譲るため、一緒に運び出したからなのだ。
玄奘は卯ニ姐の祭壇の前に座り、線香を上げると手を合わせた。
「……ん?」
しばらくすると、突然玄奘は何者かが自分の中に入ってくるような違和感に眉を顰めた。
だがそれに気づいた時にはもう遅く、玄奘の意識も体もすでに別の何者かに支配されていたのだった。




