傷心と安心
「っ! 私を、帰して」
柔らかな褥の上で、リーシアは焦ったように身を起こした。
その姿に、魔王は釈然としない様子をあらわにする。
「お前が、逃げたいと、願ったのだろう? その場にいたくないと。……そういう発動条件だ」
「っ。それは認めます。だけど、このままだと、あの子が来ちゃう!」
「……あの犬か」
魔王が不機嫌そうに呟く。
リーシアが心配しているのは、ジュリアスではない。
ジュリアスには、リーシアの転移に魔王の力が介入したことも気づけなければ、気付いたところで、魔の大陸に乗り込んでくる実力もない。
だが、フォルティスは違う。
「……大人しく、ここに居ると言えば、アレが来れないよう結界をはろう。それで、アレはどうやっても、この大陸に来れないし、ここに来なければ、俺や俺の部下に排除されることもない」
「……私に、そういった取引は、できないと、知っているでしょう」
自分の自由と、フォルティスの命を天秤に乗せられて。
しかし、リーシアは首を振る。自分が自由を失うのが嫌なのではない。
他の選択肢を第三者に消された上で、自分の意思に沿わない行動をしたときに。
自分の意思が消え去ることで、生きたまま死ぬのが嫌なのだ。
それは、リーシアが、自分で自分を殺すのと同じことだ。だから、リーシアは、リーシアであり続けるために、自分を捨てない。
リーシアとして、生き続けるために、失われる命があるのだとしても。……もし、それに耐えられなくなったときは。
リーシアは、己の意思よりも先に、己の体を殺す。
「また、死ぬか?」
「……」
思考を読んだように、リーシアの瞳を魔王がのぞき込む。
そう、思っていたのに。リーシアが自分に与える死が、無意味なものだとしたら。
……一体どうすれば、リーシアは自分を失わずにいられるのだろうか。
魔王の言葉にゆるゆると首を振る。
例え死んでも、何度だってリーシアは魔王によって蘇生されてしまうし、リーシアが死んだことはフォルティスに伝わる。今、死ぬわけにはいかない。
事態は、余計に悪くなる。
「まぁ、いい」
そこで、魔王が何かを呟いた。リーシアの目の前で魔王が詠唱をするのは、2度目。
それほどの、魔術を使ったのだと分かる。大陸全体を覆う結界を、張ったのだと。
「お前が、相変わらず自分を優先してくれて、何よりだ」
言外に、リーシアが、自分の自由を捨ててでもフォルティスを選んでいれば、魔王は彼を殺したのだと。そう、言われた。
「……っ」
リーシアが、魔王を見上げる。
「なにか、言いたいことでも?」
リーシアは、自分がたくさん失敗した自覚があった。
ジュリアスに予測される行動をしたことも。兄と別れてすぐに転移せず、彼がいる国を歩いたことも。彼を前にして逃げずに言葉を聞いてしまったことも。
それでも。
それを上回る、最大の失敗を犯さないように、今、精一杯、虚勢を張っている。
安心した、などと。
リーシアは決して、ジュリアスを憎く思ったことはなかった。
その気持ちの種類を知って、それには応えられないと自分の中で決断が下るのは早かったし、リーシアの信念からして、自分よりも彼が大切だ、などとは決して思えないが、それでも、ジュリアスは確かにリーシアの中で特別だった。
決して悪人ではない彼が、悪人と大差ない倫理観を持つリーシアを受け入れようとしてくれるのは好ましかった。
王子としての責任は感じている筈なのに、リーシアを利用しないと何度も口に出して伝えてくれる度に、ジュリアスはリーシアの特別になっていった。
おおよその他人のことなど、どうとも思わないリーシアが、それでも、手の届く範囲で彼を助けたし、彼の頼みを聞いた。
彼を窮地に陥れる何かが起こったとき、可能ならば、彼の兄に彼の傍から追い払われたのだとしても、リーシアはこれからも、ジュリアスに手を差し伸べただろう。
だから。
決してリーシアのことなど考えていない、ただ、自分自身の気持ちだけを優先したジュリアスの言動に、リーシアは……。
自分に向けられる気持ちを、初めて迷惑だと感じたし、冷静さを欠いた。
落ち着いて転移魔術をつかえば、ジュリアスに自分を追うことなどできないと知っているのに、ただ、居なくなりたいと思って、やみくもに魔術を使って。
そして。彼に迎え入れられて。
彼の存在を感じて、安心してしまった、などと。
なんて、不公平なんだろう。
自分は魔王を見て、前世の彼を重ねて、安心すらしてしまうのに。
彼は、前世の私を忘れて。……忘れたまま、新しい私を大事にしている。
人生を隔ててすれ違っているのだ。それが、交わることなど、ないじゃないか。
それとも、リーシアがいけないのだろうか。
記憶を無くした彼を許せなくて、彼の優しさを素直に受け取れない、リーシアが。
彼は、リーシアが逃げたいと願うことが、発動条件だといった。
強力な魔術師であるリーシアが、逃げたいと願うなど、早々起きない。
否、一生、起きなかったかもしれない。
何のために、そんな発動条件を設定したのだろう。
「……どうして?」
「ん?」
リーシアの、何も指し示さない問いかけに、その思考を読んでいるはずのない魔王が笑う。リーシアのことなど、全てわかっているというように、答える。
「お前、逃げられないと、死ぬだろう」
「……っ!!」
そして、思い出す。魔王の言葉を。
リーシアが、死ぬのが嫌だと言った、彼の言葉を。
「……帰りたいか? 人の国に」
先は、フォルティスのために帰りたいと、リーシアから伝えた。
今度は、フォルティスの安全を確保した上で、魔王に尋ねられる。
……是と答えれば、送ってくれるのだろうか。
おそらく、リーシアの逃げ先を魔王の元に設定した理由は、そこならば彼が絶対にリーシアを守れるからだ。
まさか、自分を好きだという男から逃げてくるとは思わなかっただろうが、万が一、リーシアの身に危険が迫っていたとして、魔王には守り切れる自信と力がある。
或いは、リーシアの逃亡が間に合わなくて、リーシアが毒を呷った後でも、魔王ならすぐに蘇生ができる。
それで、助けた後は、また自由にしてくれるのだろうか。
あの時。魔王の前で、死んで見せたリーシアに、魔王はどんな表情を浮かべたのだろう。
自分を都合のいい逃げ先に設定してまで、どんな気持ちで、人の国に返してくれたのだろう。
リーシアは、そんな思考に捕らわれて、自らが張っていた虚勢が剥がれたのに気づくのが遅れた。
その僅かな間に。リーシアの表情を読んでいた魔王の瞳の奥に、愉悦が浮かんだ。
悟られた。
表情に乏しいリーシアの気持ちを、なぜ、ひと月の付き合いで読めるようになってしまったのだろう。
ただの、ペットだったはず、なのに。
「そうだな。……お前は、何か怖いものから逃げてきたのだから、きっと、錯乱しているだろう。普段のお前と矛盾するような言動をしたとしても、それはきっと、その所為だと、思うだろうな」
リーシアの逃げ道を用意する。
「っ」
だから。
「おっと」
リーシアは、考えるのを止めた。
止めれば、体は自然と動いた。
自分の胸に飛び込んできた小さな体を、予想通りというふうに受け止めて。
魔王が、その髪を撫でる。
「帰りたいか?」
「……帰、りたく……ない」
あぁ。これで、彼は誘拐犯ではなくなってしまった。
魔王が聞かなかったふりをしてくれても、リーシア自身がそうできない。
抱きついたことは錯乱を理由にできても、確かにその胸の中が安心すると、リーシアは知ってしまったから。
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