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ふたり

作者: 仙原外輪

わからないかもしれません。抽象的に書いてあるので、読みづらかったら申し訳ありません。

「ここが僕たちの家なんだね」

 男は言った。発せられた言葉が積もった埃に吸い込まれるように消えた。

「そうよ。ね、入りましょう」

 女は笑う。男の手を引いて部屋の中へと入る。

 小さなアパートだった。運河に隣り合うように建てられた、四階建ての古いアパート。その一室の鍵を女は持っていた。広いワンルームは、ひどく埃が溜まっていて、かび臭かった。

 男はダブルのベッドに腰を下ろし、サイドボードの引き出しを開けた。封筒と財布と、カード類がいくつか入っている。それらに見覚えはないけれど、たぶん自分の物だろうと男は考えた。

 立ち上がり、カーテンを開ける。運河が見えた。小船が一艘、箱のようなものを乗せて下っていった。窓を開けると、霧のような湿った空気が部屋を通った。

 女が近づき、男の腕に絡まるようにしてもたれる。

「この時期はいつもそう。霧が晴れない日はないわ」

 男は深呼吸をする。掃除もしていない部屋でそうすることが健康に良くないとは知っていたけれど、そうせずにはいられなかった。きっと、そうすることが日常だったのだと思う。

「掃除道具はどこにあるのかな」

 男は女に訊いた。女はひどく悲しそうな顔をしてから、そして男の胸に顔をうずめる。

「まだ、まだいいから。もう少し、あなたといさせて」

 男は女を抱きしめる。そうすることが当然であったように。自分は何も覚えていないけれど。

 湿った空気の侵入が小さな部屋を濡らした。かび臭いベッドが緑色に見えた。もちろんそれは錯覚であり、幻想なのだけど。男は女の体を引き剥がし、訊ねた。

「名前を聞いていなかったね。なんと呼べばいいんだい」

 女は首を振る。

「ずっと一緒だから。私たちしかいないから。名前の必要はないわ、ね」

 男はうなずいた。

「それなら、それでいいんだね。わかった、ずっと一緒だよ」

 二人はもう一度、互いを抱きしめた。

 霧の街が暗闇の包まれた頃、二人はようやく体を離す。女がキッチンから持ってきたバケツに水を汲み、二人はテーブルと椅子を拭いた。食事ができるように周りの床も少し拭いた。

 テーブルにキャンドルを灯し、そして食事を始める。食事の仕方は知っていたけれど、終わった時にはずいぶんと顎が疲れたように感じた。

「料理を覚えなければならないね。君ばかり頼ってはいられないからね」

 男はナプキンで口を拭った。汚れていないが、それが当たり前なのだと教えられたからだ。女は食器を運びながら笑っていた。男も楽しい気分になっていた。

「そうね。もう少ししたら、料理を覚えましょう。でもその前に、買い物の仕方を知らないと」

 男はポケットから出した単語帳をめくった。

「ああ、そうだね。お金、というのかな。物品を金銭と交換する方法だね」

 女は優しく笑い。

 そして、倒れた。

 崩れ落ちた彼女は、目を開いたまま床に転がった。だらしなく舌を出し、全身が弛緩しているのがわかった。男はそれでも椅子に座っていた。なぜか落ち着いた気分だった。

 男はゆっくりと立ち上がると、サイドボードからカードを取り出す。連絡をするように教育されたから。電話のかけ方は知っているけど、やったことがない。プッシュボタンを何度か間違える。

 やっと正しい数字を押し終えたと思ったら、コールもせずに女性の声が聞こえた。

 無機質な人工音だった。

「登録番号をお願いします」

 男はカードに書かれている番号を言った。伝わったのかはわからなかった。

「状態はどのようでしょうか」

 男は静かに、暗闇に話しかけるように言った。

「妻が――」

 妻だと思う人が。

「倒れました――」

 壊れてしまいました。

 男はそのままで少し待った。また声が聞こえるのを期待した。

「承りました。すぐに職員が向かいますので、そのままでお待ちください」

 男は繋がっていない受話器を置く。そのまま、と言われたが、男は女をベッドに運んだ。胸の上で手を組ませ、目を閉じた。女は眠っているようだった。男は、自分もこうだったのかと思う。

 職員と思われる二人の男性は、すぐにやって来た。女の体をゴム製の寝袋に入れ、一人が部屋の外に運んだ。もう一人は契約書をテーブルに置いた。

「成体を作るのには半年ほどかかります。教育にもう半年。一年後に迎えに来てください」

 男性は契約書をペンで指す。

 男はサインをした。それには、自分が死んだら妻も破棄する旨も書かれていた。

 男性が引き取った後、男はサイドボードの封筒を開けた。中の手紙は契約書だった。妻も交わしたのだろう。自分の筆跡ではなかった。

 男は部屋を出て、鍵をかける。この部屋は二人のものだから、自分一人では住めないと思った。妻もそうしたのだろうと考える。

 霧が濃くなって、全てが白くなる夢を見た。もちろんそれは幻想だった。


「ねぇ、ここが私たちの家なの」

 女は変わらず微笑んだ。男はかび臭くて、埃の溜まった部屋の鍵を開けた。

「そうだよ。ここが僕たちの家だ」

 男は変わらず、カーテンを開けて窓を開いた。

 女は変わらす笑い、そして訊ねた。

「ねぇ、名前を聞いてなかったわ。なんと呼べばいいの」

 男は悲しげな顔で、こう言った。

「要らないんだよ。ずっと二人なんだ。ずっと、何度でも。だから名前は要らないんだよ」

 男はそう言って、少し古びたテーブルを眺めた。

 二人は寄り添い、そして運河を見下ろした。

 小船が一艘、大きな箱を乗せて下っていくのが見えた。


読んでくれてありがとうございました。

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