第87話 これで君はただの高校生だ
――バチン
そう音がするはずだった。
だが、実際の音はもっと激しく荒々しい音で、俺の耳元から聞こえてきたのだ。
何らかの衝撃を頬に受け、俺の体は宙を舞い、後方へと吹っ飛んだ。
「オジサマの事情はどうでもいいのです」
俺をゴミのように吹っ飛ばしたキョウコはそう言い放った。
こんなにも怒りが、こんなにも憎しみが渦巻いているのに。
この怒りや憎しみを、理性を取り払ってまで純粋な力に変換しようとしたのに……俺より年下の女子に手も足も出ない。
俺は……無力だ……。
近づいてきたキョウコが床に倒れたままの俺の腹を踏みつける。
「一つ教えてください。ここでの会話は誰かに聞かれていますか?」
どうして今そんな事を……。
俺が意図を測りかねて言葉を発さずにいると、ザスッと顔の真横に剣が突き刺さった。
「……魔法障壁は全てのログを記録している。会話も例外じゃない」
「……そうですか。ならばやはり連れ帰るしかありませんね」
「あぐっ!」
腹に痛みが走る。
キョウコがかかとに体重を乗せたのだ。
俺の怒りはまだ消えてはいない。
消えてはいないのだが……俺の心の中は怒りの割合よりもキョウコに一矢報いることも出来ない無力感のほうが勝ってしまっていた。
勝てないのか。こんなにも頑張って、こんなにも痛めつけられて、皆にも支えられて、助けてもらって、それでも勝てないのか……。
ふと、事務室から溢れ出している瓦礫が目に映った。
ヒロさん頑張ってください……と聞こえた気がした。
そうだ……ベルーナのためにも負けられない……。負けられないんだ!
俺のこんな姿は、こんなみっともない姿は、きっとベルーナは望んでいない。
ボロボロになっても、格好悪い姿を見せていても、最後には何とか勝ちを拾って、そんな俺の姿を見て、さすがですヒロさんとベルーナは言ってくれるんだ。
だからまだ途中。どんなに負けそうになってもそれはいつもの事なんだ。
諦めずに、最後に勝ちさえすれば!
俺は腹を踏みつける足の力が弱まった瞬間、体をねじって脱出し、なんとかキョウコの元から逃げ出した。
走りながら知恵を搾る。
キョウコの圧倒的な強さの秘密はマナに違いない。
地上で彼女に触れた時、そして襟を掴んだ時にも感じた。
それに、先ほど衝撃波を放った時も、周囲のマナを集めて放ったようだった。
俺はとある一室に駆け込んだ。
奥に向けて広く長い空き部屋だ。
入口はこの一つしか無く、他の出口は無い。
「逃げても無駄ですよ?」
俺の後を追って、キョウコが部屋の中へと入って来た。
「あら? いませんね……」
俺の姿を探すキョウコは部屋の中央へと足を進める。
いくら奥の方を探しても俺がいるはずがない。
――ガラッ、ガチャリ
ドアを閉めて鍵をかける。
俺は最初から入口のドアの傍にいたのだから。
「そこにいたのですか。鍵をかけたりなんかして、私を閉じ込めたつもりですか?」
「ああ。君はもうここから逃げることは出来ない」
もちろん俺も逃げることは出来ない。
この部屋の中には俺とキョウコの二人だけだ。
「頭を打っておかしくなってしまったのですか?
私にとって壁なんか無いにも等しいのですが」
日本刀のように細い形状をした剣を目の前に構えるキョウコ。
見た目こそ軽量に見えるが紛れもなく超重量のあの大剣である。
あの剣で小突かれただけで壁は爆散するだろう。
だけどもうそんなことはやらせない。
「それはどうかな? 俺は頭は打ったし、君にしこたまボコボコにされてはいるが正気だ」
「気に入らない目ですね。先ほどまでの怯えた目ではありません」
喋りすぎたか。これ以上は気づかれる可能性がある。
魔法障壁さん、準備はいいか?
『いつでもどうぞ』
「反魔法力領域展開!」
『エレメンタルマスターオオサカ=ヒロの専用魔法障壁管理命令確認。コマンド主をコアとして反魔法力領域を展開します』
反魔法力領域とはマナを0にする領域だ。
この世界にはいたるところにマナが存在している。空気中から、それこそ体の中にまで。
魔術士部がキョウコを撃退するための手伝いとして俺が作り出していた魔法力充填領域は、魔法障壁内のマナを特に濃く大量に領域内に満たしたものだ。
その効果としてこの世界の人たちは自分の能力を超えた魔法などを使うことが出来る。
それとは逆のことが出来るのではないか……そう閃いたのだ。
魔法力のまったく存在しない、空気に対する真空のような、そんな空間を造り出す事が。
体から何かが抜けていく感じがする。
まだ俺の体にもマナが残っていたのか。
「これは……」
キョウコが構えていた剣が消えていく。
やはり剣もマナで造られていたな。
ぶつけ本番だったが成功だ。
この案を思いついた時、脳内で魔法障壁さんに可能かどうか聞いてみたのだが、今まででそんな前例は無いとの事だった。
エレメンタルマスターであった建国王ジーン1世ですら行ったことの無い事例。
実行の為にはまったく新しいコマンドを生み出す必要があった。
そのコマンドには、現在の領域内魔法力量、領域内反物質配置位置、設置位置や座標、配置規模、コアの材質と耐久力、現在時刻、月と太陽の位置、etc……、これらを厳密に計算する計算式を組み込む必要があった。
だが、文系の俺には何とか力学も何とかの法則も何とか計算式も分からないし、俺はそもそもそういうのが苦手だ。
理系の人種なら嬉々として取り組みそうなんだが、俺は文系。
仕組みなどどうでもよく、冷えたおかずを電子レンジに入れて温めボタンを押せばおかずが温まる……その結果だけあればいいのだ。
だから複雑な計算も全て魔法障壁さんにお願いした。
『それがジーン2世陛下に創り出された私の使命であり生きがいです』、と魔法障壁さんは言っていた。
相変わらずAIとは思えない発言だった。
そういうわけで俺の専用魔法障壁管理命令、反魔法力領域は生み出されたのだ。
「オストラコン、おいで!」
キョウコが天井に向かって手を伸ばす。
だが何もおきない。
新たな剣を生み出すつもりだったのだろうか。
でもこれで確信した。
反魔法力領域は完成している。
「これで君はただの高校生だ。大人しくしてもらおう」
形勢逆転だ。
マナが全く存在しないということは、これまでのキョウコの驚異的な身体能力も発揮出来ないということだ。
つまりは大人の男である俺と女子高校生であるキョウコとの力比べとなる。
どちらが勝つのかは自明の理だ。