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フォイエルバッハとネット正論


 


 「キリストの血は神の眼のなかでわれわれをわれわれの罪から清める」


 「われわれがわれわれの罪を許されるのは、われわれがなんら抽象的な存在ではなくて肉と血をもった存在者なのだからである」


              フォイエルバッハ 『キリスト教の本質』


 フォイエルバッハという人は、僕の観点からすれば実存主義的なもの(キルケゴールやウナムーノ)と、観念的なものを調停する存在に思える。で、その頂点にあたるのは、半分は神であり、半分は人間であるイエス・キリストに代表されると言って良いだろう。イエスは人として感性的な存在であった。彼は人間として、肉あり、血ある存在であった。「神はどうしてわたしをお見捨てになったか」と死の前につい口にしてしまうような、人間的存在であった。その人間的存在が、非人間的行為をあえてしようとした事に偉大な葛藤が現れる。そこに神と人間の二つに切り裂かれたものーーあるいはその融合が存在する。


 あまり、フォイエルバッハに深入りするのはやめて、タイトルの話に戻すと、自分はネットで正論ばかり吐いている人間というのが以前から嫌いだった。あるいは、正論ではなくても、時事ニュースやら感想やらコメントやらで、自分の姿を隠して、自分の方が上だという姿勢を相手に見せつけようとする人々(彼らは具体例というものをまず出さない)が嫌いだった。


 で、嫌いというのはただの感情に過ぎないので、論理的に考えていく必要がある。フォイエルバッハを読んでいて感じたのは、そうした正論の人々(仮にそう約す)というのは、肉と血を持たない抽象的な神になりたがっている人々ではないかという事だ。彼らは肉も血も持たない。あるいは持っているのであろうが、その部分は「弱い部分」であると感じられているらしく、その姿は見せない。したがって、彼らは常に正論を吐き、始終、冷徹かつ正しそうな事を言っていられる。それが言えるのは彼らが肉と血を持たない神だからである。


 フォイエルバッハはこう書いている。「抽象的でない存在者がーーそうだ、ただ感性的な存在者だけがーー慈悲深いのである」 つまる所、正論論者は慈悲深くはない。彼らは犯罪者を断罪するにあたって、全くの公平無私な神のような姿を形取ろうとする。最も、実際的には、肉があり血がある彼らが現実的にいかなる欲求不満に陥り、その全てを、無名の神と同一化する事によって解消しようとしているのか、その姿は僕らに見えない。また、それが見えないからこそ、彼らは自分のポジションを絶えず上に取りたがる。


 肉と血を持たない神は抽象的な存在である。彼らはおそらく、日常での自分の無力感、あるいはこの社会が必然的に強いている自己への卑小感を、巨大かつ抽象的な正義と同一化する事で解消しようとしているのだろう。その結果、彼らは姿の見えない神となるが、彼らにとって個性というのは厳禁である。何故なら、個性というのは必然的に肉や血を伴っているのであり、彼らが事態が厄介そうになるやいなやすぐに姿を消すのはこれで説明される。また、わざわざ、時事ニュースに対して上から突っ込みを入れるため「だけ」にアカウントを作成する理由も了解される。彼らにとって、自己とは要らざるものなのだろう。


 ニコニコのブロマガで「まる」という人がフォイエルバッハの要約を書いておられて、便利なので引用させてもらう。こう書いてある。


 「人間はその生身の肉と身体のうちに苦しみを知らなければ他人の苦しみは理解できない。となれば、もし肉も身体も持たない知性のみの存在である神は、人間を愛することができないということになってしまう。神が人間を愛するためには受肉し、自らも苦痛を知らなければならない。つまりこれこそがイエス=キリストの誕生の秘密であるのだ」


 この論理を、正論論者に適用するなら、彼らの容赦なき正義の正体が見えてくる。彼らは肉あり、血ある、そういう存在者としての生を抜け出して、抽象的な正義に溶け込むが、そうした彼らは慈悲を持つ事はできない。また、愛も持つ事はできない。彼らには血あり肉ある存在としての生が終わってしまったので、ネットを彷徨う抽象的な神となる他なかった。そしてその神と一体化し、万能感に浸っていられるという自己満足を、彼らが捨て去った肉と血が追う事になる。人はいつまでも、抽象的な神でいられる事はできない。


 最も、こんな風に言うと「ネットはよくない、リアルに生きよ」みたいな言説に取られかねないが、現実にも社会規範と自分を一致し、無味乾燥の、干からびた(当人は充実していると思っている)人間というのはよく見かける。またネット上で血の通った文章も稀に見られる。問題は血あり肉ある存在である人間が、ただそれだけにとどまらずより高い位置を目指すという事にある。しかし、絶えず苦しい努力をする覚悟を欠く人間は、努力を省略し、一気に高い抽象的な神と同一化しようとする。ここに冷徹な正義が現れ、彼らは猛威を振るうが、彼らそのものはいつも自分自身に脅かされるという事になる。彼らは他人を威嚇していなければ、いつも自分自身の存在が怖くてしかたないのだろう。


 自己を捨て、自己を自分以上のものと同一化させ、満足させようとする人々にも自分は後から追ってくる。そして自分というのは常に肉と血ある、苦しみと悲しみに塗れたものである。これから逃避する事はできるが、内臓を捨てて生きる事はできない。人が人であるとは肉と血がある存在だという事だが、この事から逃避しようとする人々は、世界を物と見るか、あるいは概念と見るか、いずれにしろ自分自身から逃げ出すという風になっていく。もしかしたら、この社会自体が、自分達の通っている血から逃げ出したがっているのかもしれないが、そんな社会でも、自分自身から逃げる事は不可能だろう。


 自分の体をロボットに改造したらそれは自分ではない。そして、もし仮にロボットに改造したとしてもそれが自分だというのであれば、それは必然的に(素材がなんでできていようと)肉と血でできた人間的存在である。人間は今の所、まだ人間として存在している。この事から逃げ出しても、逃げ出したものは後から追ってくる。他人を見下したければ、自分で這って山の上にまで登らなければならないが、それが嫌なものはエレベーターを使おうとする。しかし、代償は必ず支払わされる事になる。無償のものなどどこにもない。ネット上で抽象的な神と一致し、万能に浸り、空想と一致している人物もいずれは代価を支払わされるだろう。しかし、その様子はネット上には映されないだろう。彼は彼自身の肉と血を持ってそれを贖わねばならない。

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[気になる点] 人々を「大衆」と嘲笑いたいだけの、心地よい思想的自閉症(精神病の診断をしているわけではない、念のため)にあなたが陥らないことを祈ります。
[一言] 興味深く、面白かったです
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