少女の目、少年の耳
午前十時過ぎ。人のまばらになってきたホーム。
余裕のある流れの中でも、一際ゆっくりと進む一人の少女がある。その手には白杖が握られている。
強く握り込んではおらず卵を持つようなアソビがあり、前方を探る動きは微妙な柔軟性を帯びている。白杖は体重の支えではない。少女の感覚器官だ。
球状の先端が、革靴に触れた。少女は白杖を気持ち手繰り寄せ、歩行を停止した。
革靴の男は首だけ動かして振り向き、眉間の皺を相手に見せ付けようとしたが、一拍の間を置いて状況を理解した。
サッと周囲を見回すと大股で二歩、三歩移動し、とってつけたように電光掲示板の文字を追いはじめる。
少女は男の動きを逐一予想していたかのように会釈をして、誘導ブロックを辿り続ける。
日差しはもう春に近いが、まだ肌を冷やす風が、少女の制服の隙間を吹き抜けてゆく。
ホームの端まで来て、少女がピクンと顔を上げた。
少年が、荒く息をつきながら階段を登りきった。振り返って、ホームの端に、少女の姿を見つけた。
「風、気持ちいいね」
少女が言った。少年は仏頂面で答えない。
「転勤って、嘘だろ」
少年が言った。少女は微笑んで答えない。
「なんでだよ。盲学校じゃなくてもやっていけるって、おばさんは言ってたのに」
下りの電車が通り過ぎて、またホームは静かになった。
「やだー。お母さんとそんな話したの?」
「ずっと前だよ、小学校の時くらい」
「そっか。……あのね、お母さんは現実見えてないの。やっていけるとかいけないじゃなくて、あっちのほうが色々便利なんだよ、取りたい資格もあるし。あと『視覚特別支援学校』ね。長ったらしいけど」
少女はおどけてみせた。
「お母さん、寮にしばらく同居するとか言っちゃってさぁ……はぁ。」
「結局、アユミも世間の仕組みにつかまっちゃうのか」
「中高一貫だから、高校進学も付いてくる! 受験なしだよ。いい仕組み。うひひ」
少年は黙り込んだ。
少女は屋根の向こうにある雲を探すかのような仕草を暫く続けた。そしてはっと気づいたように、
「ちょっと持ってて」
白杖を少年に持たせると、
「これ」
ポケットから取り出したのは、DAPより些かメカメカしい、最新のICレコーダーだった。
「ああ……」
それをみて少年は、更に顔を曇らせた。
少女は少年の表情の変化に気付いたかのように、強く言った。
「タサキ達の言ったことまだ気にしてんの? 全然ちがうって」
「いや、しょうがないよ。暗闇に閉じ込められて、だれが後つけてくるか、わからないんだから。そういうの色々持って、警戒したほうがいい」
誰かに言われた言葉をなぞらえるように平坦な口調で少年は言った。
「違う」
「俺も、家の方向違うのに、きもいよな。タサキの言うとおりだった」
「違う」
「夜道はちょっと心配だったから……。でもおせっかいだったな、お前足早くて、俺いつも息切れしてたよ」
少年は力なく笑った。
「あのねえ……そんな風に言う事の方がよっぽどきも――」
刺々しく言いかけたのを少女はやめ、とても丁寧な口調になった。
「これは、私がいつも持ってるもんなの。大事な景色を忘れない為に。それに、閉じ込められてなんか、いないよ」
少女は上り電車に、少年は下り電車に乗った。
時速100+30キロで二人が離れていく中、少年は、少女から受け取ったSDカードを自分のDAPに差し込む。
ヘッドホンから聞えてきたのは先ず、ガサガサという衣擦れ。そしてある程度静まり、歩くリズムに変わる。その向こうに、水の流れる音、虫の音。そして、少女の声。
【学校帰り。田辺商店の横道から、まなせ川。あったかい。すず虫。9月8にち、今日の田沼崎】
切り替わって、鐘の音、衣擦れ、また水の流れる音、風の音、カエルの鳴き声、先程とは別の虫の音と、少女の声。
【9月9日。駅の踏み切り、川のせせらぎ、カエル。きりぎりす】
切り替わって、ボウボウという強い音の合間に、カエルの鳴き声。
【9月10日。風強い、川の水、多い。カエル、きりぎりす、マナブの息切れ】少女の笑い声。
また切り替わり、水の流れる音、風の音、カエルの鳴き声。遠吠え。
【川。カエル、クボさんちの犬、なまぬるい風、マナブ足遅い今日も息切れ、……星の、囁き】
少年の耳には、全てが混ぜこぜに入ってくる。
電車の走行音、カエル、遠い車のクラクションと、ひばりの鳴き声、大気の鳴動する気配、水の音、少女の笑い声、車内放送、鈴虫、衣擦れ、風の音……。