宿舎で日常―6
◇
葵が腹痛に翻弄されている頃。
榊原緋月はそわそわと視線をトイレの方へと向けながら、ひくひくと眉を上げ下げしていた。
葉桜がその様子を眺めて、ちょこんと小首を傾げてみせる。
「緋月、トイレ行きたいの?」
「いや、そうではないが……少し、心配でな」
「あいつの胃袋の心配しても何にもなりませんよ、先輩」
銀色の髪をさっと払いながら、真冬は吐き捨てるように言う。しかし、その視線は何度もトイレの方へちらりちらりと向けられる。
「一応、胃薬出してあるけど……厨房の人に行って、消化にいいもの、作ってもらうね」
葉桜は少し申し訳なさそうに言うと、飛び跳ねるように立ち上がって部屋から出て行った。
何だかんだでみんな心配しているのである。
残された二人は手持無沙汰になりながら、ちらちらとトイレの方を見やる。
が、緋月は不意に意を決したようにばっとその場で立ち上がった。その様子に真冬は片眉を持ち上げて怪訝そうにする。
「どうかしましたか?」
「おかゆを作ってやろう。私にも責任があるのだ、何かしなければ……」
「止めた方がいいです。さっき、自分で言っていたでしょう、先輩」
真冬は呆れたようにため息をつきながら手で制しつつ言う。
「この部屋には料理ができない人間ばかり集められているのだって」
「……それは……」
もごもごと何故か緋月が口籠る。そんな彼女に真冬は容赦なく畳み掛けるように言った。
「そもそも、緋月先輩の料理は壊滅的すぎます。炭汁みたいなのを出して葵の病状が余計に悪化したらどうするんですか。これ以上、彼を苦しめないでください」
何気に葵のことを護ろうとしている真冬。何だかんだでやはり心配している。
「う……うう……」
一方、痛いところを突かれまくった緋月は、しゅんとなりながらその場に座り込んでしまう。その上、涙目でいじいじとその場で『の』の字を書き始める。
(い、いつもは負けず嫌いに言い返すのに……)
真冬は思わずたじろいてしまい、同時に罪悪感が込み上げてきた。
真冬は視線をおろおろと頭上で彷徨わせていたが、罪悪感に負けたように、ため息をついて手を差し伸べ、緋月の腕を掴む。
「仕方ありませんね、先輩。一緒に作りましょう」
「い、一緒に……?」
「はい。私一人じゃ心配ですので、峰岸さんとか、新庄先輩にも来てもらって。みんなで一緒に作ればまともに作れますよ」
涙目で後輩の顔を見上げていた緋月だったが、突如、瞳に火を灯すと猛然とその場で立ち上がって見せた。
「う、うむ! そうと決まれば善は急げだ! 急いで声を掛けよう! ふふ、葵、待っていろよ! 全力で消化に良い、美味い飯を作ってやる!」
◇
「…………うぐっ!?」
吐き気を必死にこらえていたというのに、絶大な嫌な予感が身体を貫き、胃が痙攣するのを感じた。
咄嗟に便器へ顔を突っ込む。
お願いだから、何もしないでくれよ……?
◇
「せ、先輩、米はしっかり洗って下さい! 無洗米は駄目です!」
「む、む、そうなのか……う、うむ、では洗剤で……」
「やめてえええええ!?」
「お、おい、榊原? 土鍋に水を入れないのだ? 炒飯でも作るつもりか?」
「いや、米から水が染み出てくるのだろう? ほら、こんがりと黒い……」
「真冬っ! 水を寄越せっ!」
「先輩、強火は駄目です! お米が焦げます! というか何でガスバーナー追加しているんですか?」
「炎が強い方が消化に良いし、雑菌も滅菌できるだろう?」
「一旦、沸騰させれば大丈夫ですからそんなにやらないでぇ!?」
◇
「う、うう……」
何故か阿鼻叫喚が聞こえた気もするが、とりあえず痛みに必死でよく分からなかった。
まぁ、部屋には緋月もいるし、問題は起こらないはずだろう。
痛みが治まってきたので、一旦、自室に戻るべくトイレから出る。
「……うん?」
居間に出ると、何故かソファーに脱力している友人や後輩の姿があった。しかも、ここの部屋の住民ではない。全力で汗をかいており、息も荒いが……。
「あ、ああ、葵……これ、気にしないでいいから、部屋で休んでいて……」
真冬がよろよろと台所から出てきて引きつり笑いを浮かべる。
そ、そうか……うん、気にしないことにしよう……。
弱った体を引きずりながら軽く真冬に手を合わせると、自分の部屋へと戻って行った。
ベッドに身体を横たえると、かなり消耗していたのか、意識がどんどん遠ざかっていく……。
「あ、葵? 起きているか……?」
「……ん?」
何時間経っただろうか、呼ばれた気がして身体を起こすと、自室の扉がちょっとだけ開いて、心配そうな顔をした緋月が顔を覗かせていた。
自信満々としている彼女が弱気になっているのは珍しい。僕が首をかしげると、緋月はそろそろと僕の部屋の中に入ってきた。
「調子は、どうだ? 葵」
「ああ……うん、心配かけたな。そこそこ回復してきたっぽい」
僕は腹に手をやりながら少し苦笑する。と、そこで緋月が両手で何かを持ってきていることに気づく。
「それは……」
「あ、ああ、いや、良いんだ、治っていないようならと作ってみたんだが、治っているなら……」
緋月が慌ててそれを持ち去ろうとするが、その微かな香りで中身が何となく分かった。
「粥、か?」
「あ、ああ……」
その瞬間、ぐぅ、と腹が間抜けな音を鳴らした。胃袋は正直だ。
僕は思わず苦笑してしまいながら、わたわたと少し慌てた様子に緋月に笑いかける。
「作ってくれたのなら、いただくよ」
「い、いいのか?」
「その前に」
最低限の確認だけはしておきたい。僕は半ば覚悟しながら問う。
「火は通っているか?」
「だ、大丈夫だ」
「余計なものは入っていないな?」
「た、多分。栄養剤とか入れようとしたが、止められた。入れていいというものは、入れたが」
なるほど、監督してくれた人がいるのか。
なら、問題ないだろう。僕は安心しながら、一つ頷く。
「じゃあ、食べさせてくれないか?」
「い、いいのか? ちょ、ちょっと焦げているぞ?」
「……ああ、大丈夫だ」
う、うん、ちょっと、だよな?
僕は覚悟を決めていると、緋月はベッドわきの台に土鍋を置いて、蓋をそっと除ける。
そこに現れたのは薄く出汁の色が見える、艶やかな米が垣間見えるおかゆだ。ふんわりとした、優しい香りが腹を刺激する。
ぎこちなく、緋月はそっと少量をおわんに取り分け、おずおずと僕に差し出した。
僕はそれを受け取って匙で口に運ぶ。
「……美味い」
「ほ、本当か!?」
確かにこれは美味い。少々、塩気が強い気もするが、強火大好きでサバイバルナイフでなんでも調理しようとする緋月にしては、これは神がかった料理である。
僕が食べ終わると、彼女はいそいそとおかわりをよそって甲斐甲斐しく提供してくれる。
そして、土鍋のおかゆを全て食べきると、緋月は、ほぅ、と安堵の息を吐き出して微笑む。
「よかった……」
上気した頬に、やや潤んだ瞳で僕を見ながら、ふんわりと浮かべた微笑み。
それを見た瞬間、僕の心臓がどくんと不規則に脈打った。
「……む? 頬が赤いぞ、葵。も、もしや、何か、間違って……」
「いやいやいや! 身体があったまっただけだって! 大丈夫だから!」
「し、しかし……」
「だ、大丈夫だよ。緋月。本当においしかった。ありがとう」
不安げな緋月に安心させるように微笑みかける。すると緋月は顔をさらに赤らめながら、土鍋を抱え込んで上目づかいで僕を見る。
「こ、これで元気にならなかったら、許さないからな。嘘つくなよ? 元気になれよ?」
そう言ってそそくさと緋月は僕の部屋から出ていく。その足取りはどこかおぼつかなかった気もするが。
その一方で、僕は熱くなった頬を擦りながら、ほぅ、と一つ息をついた。
「緋月って、あんなに可愛かったんだなぁ……」
新発見であった。




